日米独機関車論

1977年、カーター大統領は第一次石油危機後の世界不況を克服するために、アメリカとともに、日本と西ドイツがけん引車となるべきだという、日独機関車論を持論としていました。1月には副大統領を訪日させて、日本の昭和52年度の政府経済見通しの経済成長率6.7%の成長を要請しました。同じくアメリカの副大統領の訪問を受けた西ドイツは、急激な景気刺激策はインフレの再発につながるために、ドイツはドイツの道を行くと機関車論には同意しませんでした。一方で日本は、3月の日米首脳会議で機関車の役割を負うことに賛成しました。こうして1977年のロンドンサミットで、日本は6.7%の経済成長の達成を国際的に約束することとなりました。さらにはOECD経済政策委員会においても、日本は翌年の1978年には経済成長率を7%にするという努力目標を掲げました。そしてボンサミットでは昭和53年度7%の経済成長率の実現がはっきりと国際公約とされてしまいました。日本の経済成長がこれほどまでに先進各国から望まれたのは、当時の世界経済の落ち込みが深刻であったからです。石油危機後に立ち直りかけた世界経済は、昭和52年に入ってから予想以上の失速状況に陥りました。多量の失業者が発生し、インフレ再燃が懸念されました。とくにEC諸国の不況は激しく、1977年のEC全体の経済成長率は2.5%と予測されていました。そのころのアメリカの景気は比較的好調だったものの、経済拡大に伴う石油輸入の増加などで、貿易収支は310億ドルの記録的な赤字となりました。これに対して日本は輸出中心の成長により、国際収支の黒字幅は拡大を続けていました。同じく西ドイツも黒字となっていました。このようなことから、アメリカ、西ドイツと並んで経済が比較的順調であった日本が世界景気を引張る3台の機関車と呼ばれたのでした。国際公約となった日本の経済成長率の達成のために、さまさせまな政策努力が実施されました。昭和52年10月には第一次補正予算が成立し、公共事業の追加が行なわれました。昭和53年度予算も公共事業を拡大させた景気浮揚優先の大型予算となりました。世界に約束した経済成長率は昭和52年度は5.3%、昭和53年も5.2%に止まり、結局は果たせずに終わりました。

1977年5月にロンドンの首相官邸にて3回目の先進国首脳会議が開かれました。公式的にはダウニング街頂上会議と呼ばれています。サンファン会議からわずか1年あまりの間に、世界経済の回復のテンポが鈍化するとともに、先進国経済の両極分解と言われる傾向が現れてきました。経済成長率や輸出及び国際収支、アメリカや日本などを総合した経済が比較的良い国々と、イギリス、フランス、イタリアなどのあまりよくない2つのグループの間の格差がますます鮮明になってきたのです。このためにサミットでは世界の景気を牽引していく役割を担った機関車国家としてアメリカ、西ドイツ、日本の3ヶ国が積極的な経済拡大政策をとる反面、貿易赤字や失業者の増大に悩むイギリス、フランス、イタリアなどの国々は、安定政策をとるという申し合わせが行なわれました。世界経済は全体として考えなければならないという言葉とともに、IMFやGATTなどの国際機関の役割が強調されました。その一部は次ぎのようなものです。
我々は、未来の挑戦に対して共同して対処する決意である。我々の最も緊急な任意は、引き続きインフレを抑制しつつ、さらに雇用を拡大することです。インフレは失業を減少させるものではなく、逆に失業の主要な原因の一つです。我々は特に若年層の失業問題につき懸念を有している。我々は若年層に雇用機会を提供することに関し、相互に経験と考え方を交換することに合意しました。また、我々は石油への依存度を低下させるために、エネルギーを一層節約し、その生産を拡大し多様化する。我々は世界のエネルギー需要への対応に資するために核エネルギーの増大に必要性につき合意した。我々はこれを核拡散の危険を減少させつつ実施することを約束する。

1977年10月、西ドイツのシュミット首相は、国際戦略研究所IISSの招きに応じて、ロンドンで次ぎのような演説をしました。ソ連はアメリカとの間で第2次戦略兵器制限交渉を進める一方、1977年より中距離核ミサイルSS20の配備を始めた。このような事態は世界の平和にとって憂慮すべきことであり、SALTと併行して、中距離核も含めたヨーロッパにおける軍事力の不均衡をなくさなければ、ヨーロッパの安全が損なわれる。この警告が引き金となり、中距離核戦力議論の火ぶたが切っておちされました。1979年12月、ベルギーのブリュッセルで開かれた北大西洋条約機構NATOの理事会において、次ぎのような決定がなされました。NATOはソ連のSS20に対抗して、108基のパーシング2ミサイルと464基の巡航ミサイルをヨーロッパ5ヶ国に配備すると同時に、中距離核戦力の軍縮交渉を行なう。そして、1980年10月、ジュネーブで米ソ中距離核をめぐる戦域離核をめぐる戦域核戦力制限交渉が始まりました。交渉は1ヶ月間続き、その直後に行なわれたアメリカの大統領選挙でカーター政権の退陣が決まったために、交渉は一旦中止されました。民主党のジミーカーターに代って大統領の座についた共和党のロナルドレーガンは、かねてからタカ派として知られており、ソ連に対してもかなり強硬な姿勢をとっていましたが、1981年11月に次ぎのような提案を行ないました。ソ連がSS20、SS4、SS5を解体すれば、アメリカはパーシング2と巡航ミサイルの配備をとりやめる。これが有名なゼロオプションですが、この提案をめぐり、アメリカでは国防総省と国務省との間でかなりの激しい対立がありました。国務省側がゼロオプションがあまりにも強硬すぎて非現実的態度と見られないようにするためにも、他の提案を検討する必要があると主張したのに対して、国防省は、あくまでもゼロオブションの1本で行くべきだという姿勢を崩さず、結局、国務省の主張が敗退することとなりました。そして、ブレジネフ書記長から、欧州中距離核の配備凍結、削減、全廃、戦術、戦場核の全廃という4段階提案が出され1981年11月にジュネーブで米ソINF交渉が始まりました。

1981年11月30日、ジュネーブにて米ソ間のINF交渉が始まりました。しかしソ連側が、英仏の独自核のなどを含めれば、ヨーロッパの核はすでに均衡していると主張して譲らないのに対して、アメリカ側も中距離核の配備権があると強固な姿勢を貫いたために、両者は激しく対立し、交渉は難航しました。そのうちに、1982年にブレジネフ書記長が死去、後を継いだアンドロポフ書記長が12月になって次ぎのような提案を行ないました。アメリカがミサイルの配備計画を中止すれば、ソ連は英仏核戦争に匹敵するところまでヨーロッパの中距離核戦力を削減する。ソ連はこの段階になってもまだアメリカの中距離ミサイルの配備を認めようとはしなかったのです。しかし、アメリカの姿勢も強硬で、1983年11月14日にはとうとうイギリスのグリーナムコモン基地に最初の中距離核と巡航ミサイルを運び込んでしまいました。そして、これを受けるような形で、11月23日には西ドイツ議会が、アメリカのミサイルを受け入れると決議、米ソの関係は決定的なものとなってしまいました。ソ連は直ちにジュネーブのINF交渉を打ち切り、アメリカに対する対抗措置として、東ドイツとチェコスロバキアにSS21を前進配備するという態度に出ました。丁度その頃、ソ連の軍用機による大韓航空機撃墜事件という衝撃的な事件も起ったために、アメリカとソ連は史上最も冷えきった関係と言われるまでになりました。そのような中で1985年1月、シュルツ国務長官とグロムイコ外相がジュネーブで会い、レーガン大統領が1983年3月に発表したSDI戦略防衛構想も含めた、包括軍縮交渉を開始することで合意しました。ソ連の最高指導者チェルネンコ書記長が死去したのはその直後ですが、1985年3月12日にはゴルバチョフ書記長のもとで包括軍縮交渉が始まりました。この交渉は、宇宙分野、戦略核兵器分野、中距離核戦力の3つから成っていましたが、ゴルバチョフ書記長は驚くほど柔軟な姿勢を見せて1985年にフランスを訪れた際にはINF問題を分離して交渉することとし、英仏の核もこのINF交渉の対象からはすずと明言しました。これが突破口となり、1985年11月にはジュネーブにおいて第1回目の米ソ首脳会談が開かれ、交渉が進んでいるINFについては暫定協定を結ぶために努力するという所まで話しが進展しました。しかし、1986年10月11日にアイスランドの首都レイキャビクい゛行なわれた第2回目の米ソ首脳会談の席上で、ゴルバチョフ書記長が、やはりSDIも全般的な軍縮交渉でなければダメだという強硬な姿勢を示したため、せっかくまとまりかけていたINF全廃条約も消えてしまいました。ところが、1987年2月28日にゴルバチョフ書記長に再びINF交渉を分離するという方針を打ち出してきたため、これを機に急速に話し合いの気運が高まり、1987年12月8日にワシントンで行なわれた第3回目の米ソ首脳会談において、ついに歴史的なINF全廃条約調印が実現しました。

昭和52年11月の閣議決定された第3次全国総合開発計画(三全連)では、定住圏構想が打ち出されました。この構想は、人間と自然との調和のとれた健康的文化的な人間居住の総合的環境を整備することを目的としています。この時まで日本では、2度の開発計画が打ち出されていました。昭和37年に策定された全国総合開発計画は、効率的な産業振興と、過密過疎対策を対象としていました。大平洋ベルト地帯の過大化を防止する一方で、地方にいくつかの拠点都市を作り、そこに産業を集中させる拠点開発方式を採用しました。昭和44年には新全国総合開発計画が策定しました。過密、過疎を解消して国土の均衡ある発展を目的とした高速交通ネットワークの整備と大規模プロジェクト構想を基本としていました。この結果、開発は進んだものの、地価の高騰や公害などの問題も引き起こしました。これに対して三全総の定住圏構想は、地方圏に生産年齢人口が定住できるように、自然環境、生活環境、生産環境の調和のとれた居住環境を整備することを目指すものです。そのためには、安定的な居住が必要で、雇用の場の確保、住宅及び生活関連施設の整備、教育、文化、医療の水準の確保が基礎的な条件となります。特に大都市と比較して、定住する人口の大幅な増加が期待される地方都市の生活環境の整備と、その周辺の農山漁村の環境整備が優先されなければなりません。これまで居住環境といえば、自然環境が中心と考えられていましたが、この構想では生活環境が重視されているという特徴があります。三全総においては、新しい生活圏を確立するために、まず生活圏の最も基本的な単位として50世帯から100世帯程度の世帯から成る居住区を考えます。そして居住区が複数集まる小学校区を単位とするコミュニティ形成の基礎となる地域が成立します。これを定住区と名付け、全国にはおよそ2万から3万の定住区が作られます。この定住区が複合したものが定住圏という考え方です。定住圏は都市部と農山漁村が一体となっており、山地、平野部、海面といった広がりを有する地域で、全国に200から300圏存在しています。

昭和49年以来改正が検討されていた独占禁止法は、昭和52年5月の参議院本会議で可決成立し、12月より施行されました。主な改正点は第1に、独占的状態にある企業に対して、公正取引委員会は営業の一部譲渡を命じることができる点です。第2に、違法カルテルに対する課微金規定を受けるという点です。第3に、株式保有制度を強化することです。独占禁止法は、事業者の公正な自由競争を促し、経済の健全な発展を資することを目的に、昭和22年4月に公布施行されました。その内容は主として、私的独占の禁止、不等な取引制限の禁止、不公正な取引法法の禁止から構成されています。そして、独占禁止法の運用のために、内閣から独立した調整勧告などの権限を持つ公正取引委員会が設置されました。こうして制定された独占禁止法は、占領下の政策の一つと見なされ、後退の歴史を歩むこととなりました。昭和24年の改正、昭和28年の大幅改正がその例です。昭和28年の改正は主として特定の共同行為の禁止規定の削除と不況、合理化カルテルの容認でした。昭和30年代後半以降、日本経済の開放体制の移行により、国内企業の国際競争力の強化の必要が認識されました。そのために産業の再編成政策などにより飽和状態が続きました。独占禁止法を中心として独占禁止政策の運用の大幅な後退が見られ、独占禁止法違反に基づく取締も減少しました。その一方で、昭和40年代に入って食品、薬品公害による被害やヤミ再販などに反対する消費者運動が高まりを見せました。こうしたところに石油危機やそれに伴う狂乱物価が生じ、大企業を中心とした企業行動対する批判が高まりました。このために昭和49年12月、三木首相は閣議において、独占禁止法の強化を指示しました。これを受けて総理府は独占禁止法改正問題懇談会を設置し、各界の意見を踏まえた改正案作りを進め、昭和52年12月になってようやく成立しました。

先進各国の中で、第一次石油危機後の世界経済の不況から、いち早く経済を建て直したのはアメリカでした。1976年には大統領選挙が行なわれるという政治的理由から、積極的な経済拡大策がとられたことが景気の回復要因となりました。しかし、アメリカは予想以上の石油輸入の急増や、物価の上昇により貿易収支は、1977年には310億ドルの大幅赤字に転じて、ドル安の進行が見られました。円ルートは、第一次石油危機後、昭和50年末の305円まで落ち込んだ後、緩やかな上昇に転じました。昭和52年に入っても日本経済の回復は芳しくありませんでしたが、輸出は順調な伸びを示し、昭和52年の経営収支は109億ドルの大幅黒字となり、円高が続きました。昭和52年1月の東京外国為替市場は、1ドル292円80銭で始まりました。3月に280円を割り、6月に270円を切り、円高はつづきました。そして10月14日には、253円の市場最高値を記録し、結局240円で年越しました。翌昭和53年1月の東京外国為替市場は、1ドル237円台の高値で始まり、その後も円高は続き、7月のボンサミットの後、7月24日には200円台の大台を割り込みました。こうした円高は、日本の輸出の伸びを背景として経営収支の黒字縮小が進まないという理由とともに、アメリカのインフレが続いていることなどを反映したものです。その後も円高は続き、昭和53年10月26日には175円50銭を記録しました。そのためにアメリカは11月1日にドル防衛措置を発表しました。
IMFから資金を借り入れ、50億ドルのドル防衛資金を作る。インフレ抑制のために公定歩合の引き下げを行なう。
これによって円は急落し、昭和53年は175円10銭で終了しました。こうした円高は、輸出競争力の低下を通じて、日本経済にデフレ的影響を与えました。昭和53年4月からは、数量ベースの輸出が減少し始め、景気回復にブレーキをかけることとなりました。それにより円高倒産する企業も現れました。円高対策として、昭和53年には経営収支の黒字減らしが行なわれました。4月には40億ドルもの緊急融資が決定され、公定歩合も引き下げられ、昭和53年3月は3.5%の低水準となりました。
お金とトラブルと法律

昭和53年は、長引く不況から立ち直れない産業が大きな問題となりました。特に過剰設備を持ち、製品価格の回復が見込めない。エネルギー費用が急上昇して国際競争力が低下している。発展途上国の追い上げに直面している。などの業種は構造不況業種と呼ばれ、緊急の対策が必要とされました。こうした構造不況業種対策として、昭和53年5月に設備処理を中心とした特定不況産業安定臨時措置法が国会で成立し施行されました。これは、業界からの申し出によって対象業種として政令指定を行なう、主務大臣は設備処理などについて、安定基本計画を策定する。業界の自主的措置だけで設備処理が進まない場合、主務大臣は設備処理についてのカルテルを指示する。特定不況産業安定信用基金が設備処理に伴って必要な資金の借り入れの際の信用保証を行なうなどの内容になっています。平電炉、アルミ精練、合成繊維、造船、合金鉄、紡績などの業種が対象業種に指定され、化学肥料が対象候補業種に指定されました。さらに構造不況業種の企業が地域経済の中心的な位置にあり、関連中小企業が深刻な打撃を受けている、いわゆる企業城下町を救済するために、通産省は昭和53年9月より、函館、室蘭、延岡などの全国10地域を特定不況地域に指定して、政府系中小企業金融の3機関による緊急融資制度を発足させました。こうした措置を拡充するために、10月には特定不況地域中小企業対策臨時措置法、特定不況地域離職者臨時措置法、が成立しました。この2法には、特定不況地域に対して緊急融資などの金融支援と公共事業の上乗せ、40歳以上の離職者の失業給付期間の90日間の延長などの措置が折り込まれていました。対象地域は、造船、合成繊維、非鉄金属、鉄鋼、合板、北洋漁業の中心的な事業所があり、その工業等出荷額が出荷額の3分の1を占める。中核的事業所の縮小に伴い、関連中小企業が深刻な打撃を受けている、かなりの離職者が出ているなどによって決定されました。その後、構造不況業種の調整は進み、アルミ精練のように、計画以上に生産の縮小が実現した業種もありました。

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