ドッジ・ライン

経済安定9原則の立案に当たったドレーパー陸軍次官の推挙により、デトロイト銀行頭取ジョセフ・M・ドッジがGHQ財政金融顧問として来日したのは昭和24年2月1日のことでした。ドッジ公使は3月7日に来日声明を行ないました。そこで当時日本経済を支えていたアメリカの対日援助と日本政府の補助金政策を2本の竹馬の脚にたとえて、これを切断することが経済の安定に結びつくことを指摘しました。ドッジの思想は後に公開されたノートに端的に示されています。
三つの単純な真理がある。第一に生活水準は生産の増加によってしか改善されない。人は自らが生産する以上に消費することはできない。第二に貯蓄は進歩のために必要な前提条件である。第三に国の財政が均衡し、国の支出はその国の経済的可能性を上回ってはいけないという要請である。
このような古典派経済学的超均衡思想によって先に発表された経済安定9原則の具体的実施政策が展開されました。その内容は、第一に昭和24年度予算が1567億円の黒字を計上したこと。この黒字のうち1284億円が既発国債や復金債等の償還に充てられたという超均衡予算の編成です。第二が昭和24年4月に行なわれた単一為替ルート、1ドル360円の設定です。当時の日本は輸出品が1ドル200円から900円、輸入品が100円から300円の複数相場でした。第三は復興金融金庫の新規貸出の停止です。同時に石炭、鉄鋼、銅などの価格統制の撤廃、補助金230億円の削減が行なわれました。第四にアメリカの対日援助見返資金特別会計が設置されました。経済界では復金融資に代わるものとして期待されましたが、実際の運用は半分以上が復金債の償還に充てられました。ドッジ・ラインは昭和24年度から25年度前半の経済安定政策の過程を示すものですが、この結果、日銀券発行高は、昭和23年に40%増であったものがマイナス0.4%に、消費財物価はマイナス10%になるなど物価安定がこの時期急速に進行しました。このような急激なデフレは完全失業者を昭和23年には19万人であったものから、翌24年には38万人、25年には46万人へと増大させ、安定恐慌と呼ばれる状況をもたらしました。また、金融政策面からは、超緊縮財政に対する形でディス・インフレ政策という日銀貸出が行なわれました。昭和24年度の財政の対民間引揚超842億円に対して831億円日銀信用の拡大を行ないました。この結果必要資金は市中銀行融資で行なわれることとなり全国銀行の預貸率が上昇し、オーバーローン現象が発生することになりました。この傾向は昭和25年6月から3年間にわたる朝鮮動乱による特需景気で進行していきました。

戦後社会も数年経つと何かと落ち着いてきました。昭和21年の輸出量額は1億3000万ドルに過ぎませんでしたが、23年になると、外国商社の入国許可なども相次ぎ、2億5800万ドルまで伸び、管理貿易が幕を閉じた25年には、実に8億2000万ドルまで急成長しました。
ドイツと並んで日本を共産主義の防壁とする。あわせて、米国の援助も急速に減らす。という大方針を立てていたアメリカ政府も、この日本経済の自信回復を大いにバックアップしようと考えました。そして、昭和24年2月1日に乗り込んで来たのが当時デトロイト銀行頭取だったジョゼフ・ドッジ特使でした。折から昭和24年度の予算編成中であった日本にやってきたドッジ特使は、徹底的な超緊縮予算を実施させて、一挙にインフレを克服しようと考えていました。そのためにはできるだけ円高にしておいた方が良く、設定しようとしていた単一為替レートをドレーパー陸軍次官やヤング連邦準備理事会調査局次長らの報告も合わせて、1ドル330円にしようと決意していました。
ところが、3月30日ワシントンNACよりドッジ特使あてに次ぎのような緊急電報が飛び込んできました。
330円を受け入れても良い。しかし、当委員会は360円を強く勧告する。
当時のワシントンの空気としては、アメリカ議会の対日援助増大に対する強い批判もあったため、何とか円を安くしておいて、日本側に外貨を稼がせ、経済の自立化を速めようという考え方でした。結局、ドッド特使も最終的にはこのNAC勧告を受け入れ、昭和24年4月25日午前零時を期して、1ドル360円とするという決定を行ないました。そして、ドッジ特使が超緊縮予算を押し付けて帰国した1週刊後の昭和24年5月10日には、今度はカール・シャウプ博士を団長とする税制使節団が来日し、以後3ヶ月にわたる精力的な調査活動を行なった後、昭和24年9月20日と25年10月30日の2回にわたって、日本の税制の根幹を決定するシャウプ勧告を行ないました。結局、このドッジラインとシャウプ勧告によって、日本のインフレも終息し、次ぎなる経済発展への大きな足掛かりができたのです。

吉田政権が総選挙の結果、絶対多数の基盤を作ったばかりのところに、経済9原則の実施指導者ドッジ氏が乗り込んできました。ドッジ氏は経済を計画的に運営することに過度 くらいに自信を抱いていました。当時のGHQのニューディラー達を押さえ、今の占領軍と日本政府にいちばん必要なのは国民に耐乏を押し付ける勇気であると、自分の信念を説き、日本経済が乗っている竹馬の両脚、すなわち価格補給金とアメリカからの援助物資を打ち切る。復興金融公庫からの何百億もの融資は、インフレを助長するだけなので抑制する。所得税は減らすべきではなく、取引税高は廃止すべきではない。などの施策を要求しました。これは1ヶ月前に行なわれた総選挙における民主自由党の公約の9割を反故にするような厳しい改革要求でした。しかし、吉田茂はドッジの指導に従って予算均衡に持ち込むという未曽有の荒療治に取組む決意を固めました。アメリカ通の吉田には、ドッジの背後にはワシントンの全面的な支持があるから、ドッジ・ラインに従って財政支出の引き締めに努力すれば、アメリカから相当の援助金を引っ張りだせるし、またそれが経済復興の早道であるということがわかっていたのです。そして、ドッジ・ラインは吉田学校の優等生である池田勇人蔵相の手によって昭和24年度予算案として具体化されました。この予算案は単なる黒字予算だったばかりでなく、税収入によってこれまでの債務も払って行くという超均衡予算でした。そして、この予算を強行するためには、中央及び地方の公務員約30万人の大量整理を行なう必要があったうえ、空前の超緊縮予算であったため、深刻な不景気を招来し、民間にも大規模な首きりの波が及ぶのは必至の状態でした。そしてドッジ・ラインの具体化は戦後最も長く暑い夏と呼ばれる1949年の夏を招来に至りました。

スターリンのベルリン封鎖は、ヨーロッパ共産主義化の危険が西ヨーロッパ諸国にも迫っているということを西側陣営に強く印象づけました。そこでトルーマン大統領は封じ込め政策の重要な一環として北大西洋条約を結ぶ決意を固め、1949年4月4日に、アメリカ、カナダ及び西ヨーロッパ10カ国で新しい条約を締結しました。各加盟国はいかなる加盟国についても、それが軍事攻撃を受けた場合は、これに結束して対抗するという約束を取結んだのであり、この条約に基づいて作られたのがNATO北大西洋条約機構です。しかし、アメリカ議会は、この条約を推進する上で大いにもめました。それは建国以来、平時の契約関係において、アメリカ合衆国がある種の条件のもとで闘う、ないしはフロンティアがはるか海外にまで広がることを認めたことはない、という大原則があったからです。しかし、上院は82対73でこれを批准しました。そして、アメリカの軍事援助計画に基づくNATO軍用の武器がその月のうちにヨーロッパに届きました。1966年7月には西ドイツの再軍備、独自の核戦力保有問題などでアメリカとイギリスと対立したフランスは軍事機構から脱退、発足当時の軍事的性格から政治的性格を濃くしています。
1991年、冷戦が終結し仮想敵国群のワルシャワ条約機構が解散しました。94年1月にブリュッセル主脳会議で東方拡大を決定します。97年5月にはNATOとロシアの相互協力を定めた基本文書に調印しNATOとロシア常設合同評議会の創設が決定します。99年3月にはポーランド、チェコが加盟し、NATOは19カ国体制となります。そしてかつてはソ連の一員だったウクライナも加盟手続きを始めることを宣言しました。

昭和24年5月25日、通商産業省が発足しました。この新しい通産省と、それまでの商工省との相違点はほとんどありませんが、しいていえば。

1. 通商監を置いた
2.官房に調整的機能を持った課のほか調査統計関係の課を集め、かつ官房長を置いた
3.輸出関係事務は原則として、各生産原局が行なうこととした
4.通商局は主として政策面を、通商振興局は主として実施面を担当することとした
5.資源庁に鉱山保安法の制定に伴って、鉱山保安局が新設された。
6.石炭関係の部局が大幅に縮小された

とくに注目すべきは、それまでは貿易庁として独立していた官庁が、正式に通商局及び通商振興局という名前で通産省に合併されたことです。しかし、通商関係のほとんどの役職ポストは、いぜんとして貿易庁時代のように、外務省からの横滑り組に占領されており、生え抜きの商工官僚達は悔しい思いをしていました。もともと、占領軍は貿易関係のセクションを外務省に持って行こうとしており、吉田首相もまた商工官僚があまりのさばるのを好んでいませんでした。戦前戦中と軍部と組んでさんざん統制を強化したという事があったからです。貿易庁が通産省に合流してからも、外務省との衝突は続き、通商局長の座に通産官僚を座らせるというのは生え抜き組の一種の悲願のようになっていました。商工省最後の工務局長であり、また後に通産省事務次官にまでなった平井富三郎も次ぎのように証言しています。
貿易庁と一緒になときは相当もめて、結局、人事的には外務省の専門家が通商局長をやりましたが。外務省との間で、海外へ出る通産省の若手を増やして、もっと貿易の専門家を出せるように体制を整備する必要がある。とか、通商局長が外務省オンリーと決め込むのはおかしい。適材適所で双方から出し合った方が良いのではないか。というような議論をよくやりました。
しかし、結局すべて外務省側に押し切られ、外務省出身の通商局長が足かけ8年も続きました。そして、昭和31年9月16日になって初めて、松尾泰一郎という通産省育ちの外国通が通商局長の椅子に座り、戦後11年目にしてようやく通産省官僚の悲願が達成されました。

昭和24年1月26日、午前7時頃、奈良・法隆寺の国宝建造物、金堂から出火。金堂には浄土と諸菩薩を描いた白鳳期の壁画があり、内陣の大壁4面、小壁8面、天人図の小壁12面、外陣には羅漢図18面で構成されていました。この貴重な文化財のうち、内陣の大壁4面と小壁8面、外陣の18面がこの出火で焼失しました。当時、金堂は法隆寺国宝保存事業の一環として解体修復中であり、それを機に設立された法隆寺壁画保存委員会の手による模写がほぼ完了していました。また、正確な原色写真も撮影済みであったことは不幸中の幸いでした。出火原因は、壁画模写のための暖房用電気座布団のスイッチの切り忘れでした。模写は昭和43年5月に完成されました。その公開は平成6年11月まで行なわれませんでした。高田管主は、保存されていた壁画の状態がある程度落ち着いたことを確認する必要があったのと、火災当時の関係者がいなくなり、過去を振り返ることよりも未来を見据えようという世代が寺の中心になったという2つの点が上げられると語っててます。つまり事件の重大性があまりにも大きなものであったため、公開すれば関係者が嫌な過去を思い出さざるおえず、関係者が一刻も早く忘れたいと思っているのに公開して話題となってしまっては、その人達を苦しめてしまうという判断からでした。

昭和24年7月5日、国鉄総裁下山定則は午前8時半、大田区上池上野の自宅からいつもどおり自動車で出勤、同9時半、開店早々の日本橋三越本店に入ったまま行方不明となりました。国鉄本庁では、いつまでも登庁しない下山総裁と帰らない自動車に不審を抱き、警視庁へ連絡して極秘のうちに行方を探しましたが、ついに午後5時、ラジオ・ニュースでこれを発表しました。翌6日午前1時半頃、足立区五反野南町の常磐線と東武電鉄の交差点ガード下の線路路上に、約50mにわたって寸断されている死体を発見。衣類その他から下山氏と断定。同日午前0時18分頃同所を通過した下り貨物列車がひいたことが分かりました。同夜は豪雨が降り、死体は雨に洗われていたため、検視は困難を極めましたが東大法医学教室で解剖の結果、生理反応等の点から死後轢断されたものと判断。この頃は国鉄人員整理を開始した直後だったことから、他殺の疑いが強く、警視庁は本部を設けて捜査を開始しました。すると、同日午後、現場から近い末広旅館に2時間あまり休んでいた下山総裁に類似する人物があり、現場付近をうろついていた下山総裁に似た人影を見たという証人も数人現れました。こうして自殺を裏付けるような証拠が増えますが、他殺の方が解剖以外はほとんどなく、ただ、総裁のメガネ、ネクタイ、ライター等が現場周辺より発見できず自殺とは決定できかねませんでした。結局、決定的な決め手を欠いたまま、下山事件は謎につつまれてしまいました。下山氏の洋服の中かから小さな植物の種のようなものが一粒見つかっています。実は現場周辺でも同じ種が見つかっていました。しかも下山氏が行方不明となった日の夕方、下山氏が事件現場付近で草をむしり実を取るといった奇妙な行動をしていたという姿を目撃した女性がいました。事件現場で下山氏を目撃したのは一人だけではありませんでした。もし他殺である場合は死体を現場まで運ばなければなりません。警察は体重と同じ分の土嚢を運んだりしましたが、人目に触れず運ぶのは難しいという判断でした。

昭和24年7月15日午後9時24分、中央線三鷹駅車庫内に入れてあった電車が無人のまま突然全速力で走り出した。待避線を通り、車止めを突き破り、付近の民家に突っ込んで停止しました。このため通行人から死者6名、重軽傷者14名を出しました。この電車は、東京駅から三鷹駅に着いた後、車庫に入り、次ぎの上り電車に使用するため整備を終え、パンタグラフおろしていました。自然にパンタグラフが上がって電流が通じることは考えられず、誰かが故意に操作して動かしたものと見られました。三鷹署では直ちに捜査本部を設置し、捜査に着手しました。16日、容疑者あるいは事件の核心を握るものとして、元三鷹電車区検車係、電車分会執行委員長飯田七三、元中野電車区運転手、同分区闘争委員長山本久一を逮捕しました。さらに8月1日、元国鉄従業員竹内景助、宮原直行、外山勝將、横谷武男、清水豊、田代勇、伊藤正信、の7名を逮捕しました。各容疑者ごとに検事1名という慎重な取り調べを行ない、23日、いずれも電車転覆致死罪として起訴しました。続いて25日共産党北多摩地区委員喜屋武由松、29日、元三鷹電車区事務員先崎邦彦、9月2日、現三鷹電車区整備係栗原照夫の3名を逮捕しました。三鷹事件の1審判決は、一年後の昭和25年8月11日に東京地裁で下され、鈴木忠五裁判長は、事件は竹内の単独犯行であるとして竹内に無期懲役、他の全員に無罪を言い渡しました。2審では竹内の量刑が軽すぎるとして死刑としましたが、他の全員はやはり証拠不十分で無罪としました。そして最高裁では2審判決が支持されました。

昭和24年8月17日午前3時9分、福島県信夫郡金谷川村の東北本線金谷川から松川駅間で青森発上野行き列車が脱線転覆、機関士1名と助士2名が死亡した。当時、人員整理反対闘争を行なっていた国鉄と東芝松川工場の労組員が各10名逮捕され、1審、2審とも死刑5人を含む有罪となりました。しかし、最高裁では仙台高裁へ差し戻し、同高裁では一転して全員無罪となりました。検察側は上告したものの、昭和38年9月12日に最高裁は上告を棄却し、無罪が確定しました。現場はレールの犬クギが抜かれ、継ぎ目も外されており、悪質な列車妨害であったことは間違いないのですが、真犯人は不明のまま真実は歴史のに埋もれる結末となりました。

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