寛容と忍耐の政治

強気一点張りの池田勇人が低姿勢の政治でスタートできたのは、有能な側近達がいたからだと言われています。池田が党総裁に選ばれる前日、側近の一人大平正芳は総裁指名受諾の演説は高飛車でなく低姿勢でやって下さいと進言しています。池田時代の4年4ヶ月の間にはこうした一幕がいくつかあったかのように思われます。池田は人生で何度か挫折を経験し、敗北の苦しみを知っていました。大蔵省に入ったものの、東大出が万能の戦前の大蔵省では京大出の遅く、その上、宇都宮税務署長時代には天疱瘡にかかり、5年間の闘病生活を送っています。その間に夫人を看護疲れで失い、新しい結婚には家の反対に合います。何度か自殺を考え、大蔵省への復帰を諦めていました。そして病気が回復し、大蔵省への復帰も認められましたが、やはり主流にはなれず、大蔵省主税の事務官になっても、重要会議には呼んでもらえない屈辱を何度か味わったそうです。池田がやっと主流に躍り出たのは敗戦とともに、公職追放の嵐が吹き、大蔵省の上層部がとんでしまったからでした。敗戦がなければ池田は大蔵次官にはなれず、吉田のような政治家に発掘され、重用されることもありませんでした。池田側近の一人である秘書官の伊東昌哉は、当時の官邸記者クラブの代表幹事だった戸川猪佐武が、すべり出しはたいへん順調で低姿勢でした。この低姿勢がどこまで続くかというのが私達注目するところです。と池田に語りかけたというエピソードを紹介しています。たしかに低姿勢は付け焼き刃というのがマスコミのみならず、当時のだれしもが考えたところでした。しかし、大方の予想に反して池田の低姿勢を長続きさせた大きな原因は、側近のチームワークの良さであり、それに応えた池田の人格であったといえます。

数ある池田側近の中で池田政治の演出に大きな影響力を持ったのは前尾繁三郎、大平正芳、宮沢喜一の3人があげられます。大蔵省で池田の後輩である3人に共通して言えることは、自民党議員の中では有数の読書家であり、インテリだということです。前尾は少年時代より読書への傾倒ぶりを私の履歴書の中で詳しく語っています。大平もどんなに忙しくても、毎週一度や二度は最寄りの本屋に立ち寄ることにしていると書いているし、宮沢の知性は多言を要しません。その上、この3人はそれぞれ、明確な保守哲学を備えていることが特筆されなければなりません。前尾によれば保守主義とは第一に伝統と秩序を尊重し、その中で創造と進歩をめざす立場である。さらに、過去との連続を保ち、できるだけ徐々に、できるだけ不安と混乱を少なくして変化する必要性を主張する以上、その行動には自己抑制を可能とする倫理性を欠くことのできない要件としています。秩序を伴った自由と政治的平等を尊重する保守主義は当然議会主義、民主主義を養護し、常識と体験の上に立った中庸の道を歩むと総括しています。こうした保守主義の原則の上に立って、前尾は現在の日本の政治で保守主義のとるべき方向を次ぎのように示しています。

1、多数横暴でなく、寛容と忍耐を持ち、最終的には多数決の原理に従うが、あくまで話し合いを尊重する。
2、常に進歩的な政策をとり、技術革新と経済成長に対応する経済政策、これに伴う工業化と都市化に対応する社会政策、豊かな社会に対応する教育政策をとくに重視する。
3、派閥を政策グループに醇化して、政治資金は国民協会を窓口に合理化、近代化する。

前尾によれば保守主義という言葉から何となく古臭い感じがするのは、ともすれば理屈抜きということが政治の本質であるかのごとく誤り考えられたからだとして、これからの保守主義はあくまで筋を通して、行政と立法の限界を十分に考えながら合理主義に徹して行くべきだとしています。

昭和35年10月12日、東京日比谷公会堂で自民、社会、民社の各党首による立会演説会が開かれていました。自民党の池田勇人、民社の西尾末広、そして社会党の浅沼稲次郎でした。西尾の演説が終わり浅沼の演説になると右翼のヤジが盛んになりました。司会者が制止の発言をしましたが、一人の男が壇上の左側より浅沼めがけて駆け上がりました。その暴漢は浅沼に突き当たると同時に周囲の者に取り押さえられました。しかし、時すでに遅く、浅沼は暴漢の持っていた短刀により胸と腹部を刺されており、病院に運ばれましたが間もなく死亡。演説会は中止されました。62歳でした。犯人は元大日本愛国党党員、大東文化大学生山口二矢。高校時代より行動的な少年だったといいます。少年の父は陸上自衛隊一等陸佐。山崎巌国家公安委員長は辞任しました。少年は東京少年鑑別所に移されましたが自殺し、事件の背景は謎のまま現在に至っています。巨体をゆすり地方遊説に走り回る姿から浅沼は人間機関車の愛称で呼ばれ、国会の追悼演説で池田勇人首相は、大衆政治家としてたたえました。社会党内では組織論のない演説主義という批判も強くありましたが、浅沼の死去により社会党は最大の雄弁型政治家を失うこととなりました。上京以来、深川の同潤会アパートに住みついに一戸の邸宅を構えることもせず、下町の人々に愛された清貧の庶民政治家でした。
この年は政治の年で安保条約改定をめぐる与野党の激突、全学連の国会乱入、東大生樺美智子さんの死と続き、アイゼンハワーアメリカ大統領の訪日中止、岸内閣から池田内閣への交代、そして、人間機関車、ヌマさんと大衆から親しまれた淺沼稲次郎社会党委員長の刺殺事件が起りました。

昭和35年10月の総選挙で大勝した池田内閣は、国際舞台へと乗り出していきました。昭和36年6月の訪米がその手始めで、安保騒動によりギクシャクしていた日米関係の修復が当面の狙いでしたが、日本側は日米対等関係を演出することで果たそうとしました。アメリカ側が日本の社会的地位の高まりを認めれば、占領以来国民大衆の心にわだかまりがあった対米不信を一掃できるとの計算でした。安保騒動に懲りたアメリカ側もこの注文に十分に応え、日本重視を示す演出を随所に凝らしました。日米貿易経済合同委員会の設置、沖縄籍船への日の丸掲揚の承認がその好例といえます。一方の池田の方も日本の経済復興ぶりを折に触れて強調していました。アメリカ下院での演説で池田は、援助の要請に来たのでは無いと言い、拍手喝采を浴びました。戦後、ヨーロッパ、中国、日本の復興に多額の援助を続けて来たアメリカ議会に対して、この種の演説が受けいられることは眼に見えていました。対米関係に次いで池田が重視したのは戦後処理でした。経済成長を誇り、国際舞台での発言力を増すためには、第一に戦争で負った借りを返して身ぎれいになる必要がありました。戦後処理は経済大国への道をひた走る前にどうしても避けては通ることはできませんでした。池田はまず昭和27年以来の日米間の懸念であるガリオア・エアロの対米債務の返済問題に取組みました。昭和35年9月より継続して約1年間続いた日米交渉の結果、4億9000万ドルを年利2.5%で15年間で返済するという協定を結びました。また、昭和36年11月の東南アジア4カ国訪問の際にもビルマでは賠償再検討問題、タイでは特別円問題でそれぞれ交渉しました。ビルマではウー・ヌー首相の2億ドルの無償増額をけった池田でしたが、タイではサリット首相が特別円を処理しなければ一切の話し合いに応じないと強固な態度に出た為に、池田も96億円を8年間で支払うことに合意し、話しがまとまりました。ビルマの賠償交渉はその後ビルマで軍事クーデターがあったりして手間取りましたが、昭和38年1月の東京で行なわれた大平外相とアウン・ジー貿易工業相との交渉で無償供与1億4000万ドル、通常借款3000万ドルで妥結しました。ビルマ賠償の解決で東南アジア関係の戦後処理は終わり、日本が身軽にこの地域に経済進出するレールが敷かれたのでした。

戦後処理の中でも最大の難関は日韓と日中関係の正常化でした。それぞれ極東の国際情勢とからむ微妙な問題であるうえ、内政にも敏感にはね返る宿命を持っていました。池田の基本姿勢は日韓には慎重、日中には前向きということでした。日韓問題の場合は下手に手を出せば、南北朝鮮の対立が日本に持ち込まれ、安保騒動に似た政治対決が再現される恐れがありました。逆に中国問題は前向きの姿勢を示すことによって日中関係の打開に意欲的な世論や野党、自民党内の親中派の突き上げをかわすことができました。しかし、アメリカの態度は逆で、一刻も早く日韓正常化を望む反面、日中接近には警戒的でした。この時点ではアメリカはまだアジア地域での共産勢力の封じ込め政策をとっており、日韓正常化はその封じ込め体制を完成するための最後の部分でした。逆に日中接近は封じ込め体制に風穴をあける動きであり、アメリカ側が警戒するのも当然の事でした。昭和36年6月の日米首脳会談と11月の日米貿易経済合同委員会で日韓、日中は重要なテーマでした。特にアメリカは日韓正常化交渉の促進を強く迫りました。内政上厄介な問題ではありましたが、アメリカ側の圧力、韓国からの突き上げにより日韓問題は池田政権にとって避けることのできない問題となっていました。昭和36年には朴正熙が軍事クーデターによって政権を掌握し、11月には来日して日韓正常化の早期実現を迫りました。ここで池田は日韓問題に取組む決意を固めたようです。昭和37年11月の大平外相と朴の会談で有償3億ドル、無償2億ドル、経済協力1億ドルで請求権問題は片がつきました。これで交渉は一気に前進し昭和38年春、交渉全面妥結の一歩手前までいきましたが、韓国で反政府運動が激化し、正式妥協は佐藤内閣の誕生ので持ち越されました。そして中国問題については池田政権は政経分離方式を強力に推進しました。つまり日中関係の正常化に向かってまっすぐ突進することは避け、貿易や人事、文化の面で交流を拡大しようということです。そして昭和35年6月に開かれたアメリカとの首脳会議の席上、池田首相はケネディ大統領に対して、中国と歴史的に特殊な関係にある日本がヨーロッパ各国並の貿易を行なうのは当然であると論法で臨みました。台湾からは強い圧力がかかりましたが、池田首相は断固としてはねのけ、昭和37年11月に日中総合貿易に関する覚書に調印しました。

国民は池田内閣が高々と掲げた経済重視の政策に対して大いに好感を持ちました。一方のこれに対する社会党も刺殺された浅沼稲次郎委員長に代って、書記長の江田三郎が陣頭に立ち、持ち前のソフトムードによって必死に対抗しようとしました。しかし、政治主義を強引に押し出していた岸信介の時代とはうってかわり、低姿勢を看板にのらりくらりと敵の攻撃をかわす池田勇人にはとうていかないませんでした。しかも江田書記長は焦り過ぎたあまり、アメリカとも仲良くする社会党とか、池田政府でも実行可能な政策を作る社会党などのスローガンを掲げ、社会党の柔軟路線を強調しすぎたために、逆に党内は分裂状態となってしまいました。つまり江田の構造改革路線に対する社会党内の強硬派の反発が強くなってきたのです。このような政治的背景を元に行なわれた昭和35年の11月の総選挙は自民党が大勝を博す結果となりました。無所属からの入党者も含めると。自民党はこの選挙により300議席を確保しました。社会党も善戦して23議席を増やしましたが、民社党が23議席を失ったために、結局のところ野党の議席はそれまでのゼロから3議席獲得に成功した共産党の増加分だけという結果に終わってしまいました。

昭和35年11月、池田首相の諮問機関である経済審議会が1年前から審議していた所得倍増計画という名の経済計画が最終答申を提出し、総選挙後の12月に池田内閣がこれを正式に閣議決定して採択したところからいよいよ本格的に動き始めました。しかも池田首相が日本経済は非常な成長力を持っているといういわゆる9%成長論などを発表してから、所得倍増計画は池田内閣の中心的政策とみなされ、月給2倍論といったようなものまで通俗化しました。所得倍増計画は次ぎの3つの要素を持った経済計画でした。第一は計画が長期的、構造的観点を強めていることで、この春の日本経済の長期展望作業が役に立ちました。第二に、自由経済体制下における経済計画の役割についての基本的な考え方の検討が行なわれたことです。第三は従来のトータルないしアベレージ中心の計画から、できるだけ格差などの中身の問題を取り上げたことです。このほか経済成長における人間の要素をとりあげているなども、従来より一歩前進したものです。しかし、この計画のこれまでの計画と異なる一つの大きな性格は、今度の計画が財政面とくに重点を置いたことでしょう。従来は数字と政策の結びつきがはっきりしていませんでしたが、今度はその点は特に注意が払われました。この意味で倍増計画であると同時に倍増政策でもあります。倍増計画は池田内閣の中心的な経済政策とならざるおえず、その上、池田首相の言動とあいまって、一般国民ことに企業界に対して、当分かなりの高度成長は続けられるとの見込みを抱かせました。いわゆる誘導型計画としての効果を発揮しました。そして日本経済は毎年7.8%の成長を続け、目標年度の昭和45年には国民総生産26兆円となり、そのためには民間設備投資は毎年6.9%ずつ増えて3兆6000億円となり、個人消費支出は7.6%ずつ増えて15兆1000億円となります。それが国民所得が倍増したときの日本経済の姿であり、そのためには鉱工業生産は年々11.9%増加し、輸出は10%ずつ増えていかなければなりません。このように所得倍増計画は、昭和30年の鳩山内閣の経済自立5カ年計画や昭和32年12月の岸内閣の新長期経済計画などで考えられたよりも、いちだんと高く成長力を評価しています。

池田内閣の所得倍増政策の策定に当たった中心人物は、当時の経済企画庁総合計画局長大来佐武郎でした。その基本に高度成長路線が敷かれていたわけですが、次のように述べています。
戦後の日本経済の成長率は非常に高く、昭和28年から34年までの平均成長率は約8.3%という高率です。この高い成長を引き継いで、この計画は昭和45年度の国民総生産の26兆円、35年度の推定実績13兆円の倍にすることを目標としていますが、この間の成長率を単純に複利で計算すると7.2%になります。この7.2%という率は世界的にみれば高い数字であり、この成長率を維持するためにはかなりの努力を必要とされ、以下これから予想される成長要因と対比しながら検討します。今後の発展にとってとくに重要な成長要因は、産業構造の高度化と技術革新に結びついて資本及び労働力の動向です。我国の産業構造は、なお第一次産業の比重が高く、第二次産業の相対的遅れが目立っており、その中でも先進国に比例して生産性の高い重化学工業部門の構成比が低い。戦後我国においては第一次産業の構成比は一貫して低下していますが、この傾向は今後一層強まると思われ、資本投下の重点は、重化学工業を中心とする第二次産業に移り、労働力も第一次産業より大量に他の部門に移動することが予想されます。この形での経済成長は今後は一段と進められることでしょう。そして我国の技術水準は近年著しく高まっていますが、先進国との間には大きな格差を残しており、世界的にも技術革新は今後も続くと思われます。このような技術の発展は盛んな近代化投資を持続させ、新製品を生み出すものであり、結局は生産性の著しい向上として現れます。したがって、この面からの成長率はいぜんとして強いものがあります。また労働力の動向についても、今後数年間は量的にも質的にも大きな障害とならないと思われます。このような諸要因は、過去数年間の成長に指導的役割を果たして来たものです。今後もそれが強く作用することを考えれば、さしあたりは過去数年間程度の成長率が期待でき、計画期間中を通じて7.2%の成長率は決して高い数字ではない。

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