女権の主張

チャタレイ裁判の渦中の人、伊東整が前年に婦人公論に連載した女性に関する十二章が単行本化されてベストセラーになりました。自立と解放意識が芽生え始めた女性読者に熱狂的な歓迎を受けましたが、この年日本人は対象的な女性像を知るところとなります。ニューヨーク・ヤンキースのスター選手ジョー・ディマジオと結婚したアメリカのセックスシンボル、マリリン・モンローは新婚旅行で2月1日に来日しました。記者会見の席上ベッドでは何を着て寝るかの質問に、私のネグリジェはシャネルの5番だけと答えて日本男性を興奮させました。
ウィリアム・ワイラーのローマの休日に王女役で出演したオードリー・ヘップバーンは、ボーイッシュでいながら上品で清楚な雰囲気でこの映画をロングランさせる立役者となりました。グレゴリー・ペックの新聞記者との間の短く淡い恋のドラマで、ヘップバーンが食べるソフトクリームと彼女のイタリアン・ボーイという前髪を垂らしただけのショートカットが日本女性の憧れとなり、ともに大流行となりました。2作目の麗しのサブリナにおける細身のトレアドール・パンツもヒールのほとんどないサブリナ・シューズも、彼女のメイクさえもまねをする女性が続出しました。さすがにモンローウォークを模倣する人はあまり居ませんでしたが、ヘップバーンが日本女性に与えたインパクトは、評論家によって女権の主張とはやされました。

トロリーこと三木鶏郎は、戦後日本が生んだ最高のパロディ作家であり作曲家です。そして何よりも素晴らしかったのは、日本の復興をもたらした最大の功労者である吉田茂と常に対峙する姿勢を崩さなかったことです。トロリーのマスコミへのデビューは昭和21年1月のNHKラジオ歌の新聞ですが、一方の吉田茂は同年5月4日、GHQにより公職追放された鳩山一郎の後を受けて5月24日に第一次吉田内閣を組織しています。昭和22年元旦、吉田はNHKラジオの年頭の辞で、労働運動の指導者に対して不逞の輩発言をしてマスコミや世論の好餌となりました。2月1日のゼネストを控えての強気の発言でしたが、トロリーは汽車も通信も電気もそしてストも止められた、とGHQや政府をからかいました。昭和22年10月には演芸・音楽バラエティ日曜娯楽版が開始、投書をもとにした冗談音楽が人気を博しました。昭和26年の講和条約調印へ赴く吉田を、わしは国中で一番頑固といわれた男、だぶだぶのモーニングに蝶ネクタイと揶揄しましたが、政府や国会議員からも随分チェックが入り、28年6月民放へ移行します。29年の吉田内閣終焉時に、白足袋をぬげばやさしいおじいさんとやりましたが、吉田が政界から退く際に自らも番組を廃止し、希代の風刺番組がラジオから消えることとなりました。

敗戦によって壊滅的な打撃を受けた日本の重工業も、戦後発足した通産省の手厚い保護政策のもとで着々と基盤を固め、60年代の急成長への準備を進めていきました。鉄鋼業は昭和29年に第一次合理化計画を作り、欧米の新技術を導入しながら、圧延部門を中心に積極的な近代化投資を行ないましたが、昭和27年にはホット・ストリップ・ミル熱間連続圧延装置、昭和29年にはゴールド・ストリップ・ミル冷間連続圧延装置を導入するなどのみるみるうちに超近代的な設備を完備するようになりました。そしてこの結果、労働生産性は一挙に10倍に高まり、品質の点でも欧米品に劣らぬ薄板をどんどん生産できるようになりました。また、従来の工場のつぎたしでなく、新しい鉄鋼一貫新鋭工場が川崎製鉄千葉工場を手始めに各地に建設されるようになりました。さらに電力業においても、この時期に新鋭技術に基づく本格的な電源開発が始まり、佐久間ダムに象徴される大型ダムや、九州電力の築上工場をはしりとする新型の火力発電所の建設が進んでいきました。そればかりでなく、石油精製、造船、合成繊維などの分野でも近代化投資が急激な勢いで進み、独立後の昭和27年、28年には設備投資ブームが巻き起こりました。

昭和29年1月2日午後2時すぎ、皇居正門二重橋上で、一般参賀に訪れた人波が殺到し、整理が及ばずに大混乱となり、折り重なって死者16名、重軽傷者63名を出す惨事となりました。警視総監は責任を痛感して辞表を提出しましたが却下され、国警皇居警察と東京警視庁側で責任者の処分が行なわれました。東京地検は刑事責任の所在を究明しましたが、丸の内、皇居警察双方の警備責任者の過誤はある。しかし、刑法上の責任を問うことは無理である。よって、不起訴にする。という結論を公表しました。

昭和29年3月1日午前4時頃、ビキニ環礁東方約76カイリ付近で操業中の静岡県焼津港のマグロ船第5福竜丸が南西方水平線上に突如閃光を認め、数分後に大爆音と原子雲を目撃し、約1時間半後、霧雨のように降ってきた白い灰をかぶりました。3日頃全員火傷の症状を呈してきたため直ちに帰国、同14日朝6時、焼津港に入港し、同市立協立病院の治療を受け、比較的重症の山本忠司、増田三次郎の両氏が灰をもって、同15日上京。東大病院の診断を受けた結果、重い放射能症と判明、直ちに入院しました。なお、この3月1日のアメリカの水爆実験により、アメリカ人28名、現地人236名が同時に軽い火傷を負いました。その半年後、無線長・久保山愛吉氏が死亡。三たび原水爆の惨害を受けた日本国民の間に原水爆禁止運動が沸き起り、昭和30年8月以来、毎年原水爆禁止世界大会が広島で行なわれるようになりました。第5福竜丸はその後廃船となり、東京湾埋め立て地に展示館が設けられ、保存されています。

平成3年10月24日に明らかにされた外務省の外文文章によると、アメリカ政府は、実験の機密保持を理由に日本側科学者の死の灰研究発表に対して検閲することを要求したり、灰の管理方法についてクレームをつけるなどの日本政府に対して圧力をかけていたということです。3月17日、アリソン駐日アメリカ大使は外務省の奥村勝蔵事務次官に対して、実験については安全保障上の機密保持を要求し、さらに24日には岡崎勝男外務大臣に、水爆などの情報が非友好国に渡ることを懸念を示し、日本政府の責任の自覚を要求しています。そして次ぎのことを日本政府に要求しています。

1.アメリカ海軍が福竜丸の放射能汚染を除去するか、同船を海に沈める。
2.放射能を帯びた灰や船員の衣類を日本政府が責任を持って保管する。
3.研究者の発表については事前に検閲する。

これに対して日本政府は次ぎのように回答しています。

1.福竜丸は文部省が買い上げる。
2.灰や衣類も文部省が管理する。
3.船員に対する治療の発表は原爆症調査研究協議会を通じて行なう。学術上の発表は文部省が統一する。

文章では、こうした一連のアメリカの要求に吉田茂首相が苦悩した様子が具体的に明らかとなっています。

アメリカ大使館の開発調達班長ハロルドソンは、昭和28年12月に経済同友会代表幹事山際正道と常任理事郷司浩平と会談しました。会談の主な内容は、経営合理化を進めるための日米合同の技術交流を行なうという提案でした。そして、そのためにMSR相互安全保障法資金に基づく援助をするということでした。この提案に応じて、経団連、日経連、日商及び同友会の幹部が29年3月5日に会合し、19日、日米生産性増強委員会が発足することとなりました。その後、6月には事務局を開設し、日本生産性協議会と改めました。このころから、通産省がこの運動を助成することを決めて、生産性本部構想を準備しました。ここで日米両国政府と経営者団体の間で生産性運動に関する話し合いが行なわれることになったわけです。この時点でアメリカ側はFOA対外活動局産業技術援助課長ハーランが担当者となりました。アメリカで対外経済援助担当局が、MSRからFOAに移転したためです。ハーランは、生産性運動は、これまでの政府・財界に加えて、労働界も含めた三者構成で生産性本部を準備すべきことを示唆したと言われています。日本生産性協議会は、29年12月16日の理事会で、日本生産性本部を発足し、自らは発展解消することを決定しました。主な役員は、会長石坂泰三、副会長永野重雄、中山伊知郎、事務理事郷司浩平となりました。経営者と学識経験者が選ばれました。日本生産本部の創立総会は30年2月14日に行なわれました。

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