戦後の世相

1946年、昭和21年の戦後直後の焼跡闇市は大にぎわいでした。とにかくカネさえあればひととおりの物資を確保することは可能でしたが、新円切り替えの物価のインフレは人々の生活を困窮させていきました。この年のNHKは数々のヒット番組を制作しましたが、シリアスな本音に迫る街頭録音はとりわり好評でした。第1回の放送の5月6日のテーマは当事の人々の最大の関心事である、あなたはどうして食べていますか、でしたが、その直後の19日に拳行された食糧メーデーで事件が発生しました。当事の成人の1人あたりの主食配給量は1日297グラムであり、米に換算すると2合強でしたが、さつまいもや大豆などが代用されると、その分の米の配給が減らされるという厳しさでした。野菜もわずか1日75グラム、魚は4日に1度の鰯がせいぜいで、しかも遅配が常態となって人々を苦しめました。特に都市に住む人達は、自宅の庭の一角や焼跡の空地を利用して菜園を作ってしのいだり、農家への買い出しに出かけたりと散々でした。そんななか、食糧メーデーのプラカードに、朕はタラフク食ってるぞ、ナンジ人民、飢えて死ね、ギョメイギョジ。と書かれていました。坂下門に達したデモ隊は天皇との会見を強要したり、鳩山一郎の要請で自由党の首班となった吉田茂の組閣本部へ坐り込むなどの反政府運動を展開しました。このプラカードを掲げた松島松太郎は、当初不敬罪で起訴されましたが、後にGHQの指示により名誉毀損罪となり、懲役8ヶ月の判決が下りました。昭和21年6月21日の帝国議会の施政方針演説で、吉田茂は平和国家建設のための民主憲法制度をうたいつつも、目前の食糧難解決が急務であると述べています。折しも海外在留邦人の引揚げ、復員で600数十万人の人々が内地に帰還し、食糧は1人あたり1200カロリーにすぎず、食と職のない中で、4万人もの女性がパンパンと呼ばれる進駐軍向けの娼婦に転じていきました。こうした世相を最も如実に反映したものが小平事件と称された連続婦女暴行殺人事件です。この年のヒット商品はタバコ巻き器とともに電気パン焼き器でした。

昭和20年8月15日の日本降伏以来、GHQは天皇の神格化のベールを剥ぐことに執念を燃やしました。10月には伊勢神宮、明治神宮を大宗とする国家神道の特権を廃止、皇室と政府からの援助を打きり、さらに皇室の財産15億9000万円を凍結しました。GHQのダイク民間情報教育局長は、それらの処置をまだ押し進めるべきとし、従来の天皇観を一変させるような招書を自主的に出すことを要求しました。これは当時学習院の教師をしていたブライスを通じて、山梨学習院院長、宮内大臣を経て天皇に伝えられました。かねてより、軍部により作られた現人神に内心不満を持っていた天皇はこの案に賛成し、外相の幣原喜重郎が下書きを英文で書き、原案を完成させました。天皇からは五箇条の五誓文を加えるように指示があったそうです。

朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説ニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現人神トシ、カツ日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、ヒイテ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニ非ズ

この画期的な天皇の人間宣言は昭和21年1月1日に公布されました。これにより日本国民は新しい時代の到来を悟ったのです。

当時の大蔵大臣渋沢敬三は、昭和21年2月16日ラジオ放送を通じて、金融緊急措置を発表しました。
昨日までに貯金をされておられた貯金預金信託などは、皆さんが一定の生活を維持されるのに必要なお金、例えば、一家の世帯主が300円、其の他の方は一人100円宛というふうに、ごく限られた金額の払い出しを認められる外は、原則的に当分の間、自由な払い出しは禁止することになったのであります。又皆さんが今日お使いになっていた10円以上のお札は、来る3月2日いっぱいで、無効になるのであります。
と述べました。金融緊急措置令は終戦直後から始まった物資不足による悪性インフレーション、換物運動による預金引き出し、その結果として普通銀行の担保物件不足による金融恐慌の不安、占領軍司令部指令による政府大蔵省の財産税構想の徴収手段などの必要性を背景に、昭和20年10月末より密かに検討されていました。終戦当初、政府は預金封鎖を行なわないことを明言していました。しかし、半年間で倍以上のインフレと、都銀の日銀借り入れによる担保不足の危機感は事茲に至っては甘い考えは許されず、となる政策を必要としました。緊急措置の結果、物価は昭和21年3月以降半年間はほぼ安定しました。しかし、日銀信用の造出が政府と金融機関より引き続き行なわれ、昭和22年2月からの復金融資の開始による復金インフレ期へと転じました。ただ、日銀券の発行高は、昭和21年2月の618億円より3月には152億円と一時的に減少しました。また、預金残高は都市銀行で、20年末の64億円から、新円一本化した23年末で2957億円となりました。同時に預金の内容が、普通預金と当座預金の比率が15%から30%に上昇し、定期預金は30%から15%へ低下しました。

1946年3月5日、アメリカ、ミズリー州フルトンの町にあるウェストミンスター・カレッジにおいて、トルーマン大統領を前にし、イギリスのウィストン・チャーチルは次ぎのように演説しました。
バルト海のステッテンから、アドリア海のトリエステまで、ヨーロッパ大陸を横切って鉄のカーテンが降りてしまった。
これが有名な鉄のカーテンという言葉の始まりであり、第二次世界大戦の終了後1年ともたなかった米ソ関係を象徴的に表す冷戦時代の幕開けでした。具体的には、1945年2月11日のヤルタ協定、それに続くポツダム宣言によって、スターリンのソ連がヨーロッパにおける膨大な権益を既成事実として定着させ、ついには共産主義をめざす社会主義体制で一面に塗り込め、その外側の自由主義諸国とはほとんどコミュニケーションできないようにしてしまったということです。かくして鉄のカーテンの内側では何が起っているのか全く分からない状況の中で、社会主義の東欧と自由主義の西欧の間に冷たい風が吹きすさぶこととなりました。

昭和21年4月10日、第22回衆議院議員臨時総選挙が行なわれました。この選挙により保守3党は次のような議席を確保しました。

日本自由党−139議席
日本進歩党−93議席
日本協同党−14議席

この他に保守側からは、日向民主党、宮城地方党、北海道政治同盟、などの地方政党や、農民党、農本党、協同民主党などのほか、多数の無所属の当選者が出ました。このような保守陣営の混乱ぶりとは対照的に、革新陣営の中から生まれた日本社会党が一挙に98人という大量当選者を出し第3党に躍進しました。

民主党−145席
自由党−140議席
社会党−98議席
国民協同党−63議席
共産党−6議席
農民党−4議席
無所属−9議席

この総選挙は敗戦後最初の国政選挙であると同時に、旧憲法下、帝国議会の最後の総選挙でした。しかし、帝国憲法下でのものではあっても、占領軍の命令、指導によって選挙法規は大幅に改正され、大選挙区、制限連記制という区制、投票方法以外は、今日の選挙制度の原型となる民主化された選挙形態となりました。選挙法改正による最大の変化は、婦人が初めて選挙権をもったこと、有権者の年齢が25歳以上から20歳以上へと引き下げられたことで、これにより昭和17年の選挙では全人口の20%にすぎなかった有権者数は一挙に50%にまで増えました。西欧代議制を日本の政治制度に取り入れて以来、初めて成年の国民の全てが参政権を得て、革新ともいえる改正でした。また、それまでは選挙の常態であった官憲の選挙干渉など、候補者へのさまざまな圧迫が取り除かれたことも重要な変化でした。

昭和21年5月3日、東京市谷に極東国際軍事裁判が開廷しました。これより2年、日本の平和に対する罪が問われることとなります。昭和23年4月16日に公判は終了し、同年11月4日から12日にかけて判決が下されました。A級戦犯25名のうち東条英機ら7名は死刑、荒木貞夫ら16名は終身刑、その他有期刑は2名でした。判事国はアメリカ、中国、イギリス、ソ連、オーストラリア、カナダ、ニュージーランド、オランダ、フランス、インド、フィリピン、の11ヵ国から各1名ずつで構成され、裁判長はウェッブでした。A級戦犯らの訴因は、全部で55項に及んでおり、これらは昭和3年から20年にわたる犯罪についての被告の責任を問うものでした。第1種は平和に対する罪、第2種は殺人、第3種は、通例の戦争犯罪、人道に対する罪の3つの分かれていました。キーナン主席判事が、無責任なる軍国主義を直ちに日本から駆逐しようとした意図にとどまらず、それを世界から駆逐しようと決意したと言っていることに対して、はたして現代の分明にそれを要求する資格があるかどうかと疑問を呈している声も多くあります。11名の判事の中でただ1人、全員の無罪を主張したインドのパール判事は、この裁判を利刑であると決めつけています。そして時が経つにつれて、東京裁判を冷静に見ようという動きがでています。

鳩山一郎を追放すべきかどうかについては、占領軍の内部でも意見が分かれていました。1つは鳩山の反軍国主義や国会重視の姿勢は日本の民主主義を育てて行く上で役に立つという判断に立つものでした。しかし、もう1つのいわゆるニューディーラーと呼ばれる進歩派の中には、鳩山が書記官長や文部大臣を務めていたころの言動は充分追放に値するという強硬意見を吐くものもありました。昭和21年4月10日にはGHQから鳩山の資格審査を行えという要求が出されてきました。そして、さらに4月16日になると、スターズ・アンド・ストライプス紙が、鳩山の資格審査は不十分であるという非難めいた記事を載せ、対日理事会の席上でも中国代表の朱世明が鳩山問題を取り上げました。そうなるとGHQとしても鳩山追放に踏み切らざるを得なくなり、昭和21年5月4日付けでパージせよちいう覚書が手交されました。4月10日の総選挙で第1党となったばかりで、まさに内閣を組織しょうとした矢先の出来事で、この追放劇は誕生したばかりの日本自由党にとっては衝撃でした。しかも鳩山一郎に続いて、三木武吉、河野一郎も相次いで追放されたため自由党の指導部は文字どおり骨抜き常態となってしまいました。結局、日本自由党は、この穴埋めをするために、大量の官僚を導入せざるを得なくなり、それが後の党人脈対官僚派の衝突の要因となってしまいました。

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