不逞の輩

昭和21年11月26日、国鉄総連、全逓、全官労、全公連、全教協の5者による15名の委員より成る、全官公庁共同闘争委員会が設けられ、議長に国鉄の伊井弥四郎、事務局長に全逓の長谷武磨を選出しました。そして12月3日に同委員会は、共闘宣言の下で、次ぎのような10項目の共同要求を打ち出しました。

1. 越年資金の支給
2. 最低賃金制の確立
3. 俸給、諸手当の現金支給
4. 勤労所得税の撤廃
5. 総合所得税の免税点を3万円に引き上げ
6. 労調法の撤廃
7. 差別待遇の撤廃
8. 団体協約の即時凍結
9. 寒冷地手当ての支給
10. 不当解雇反対

しかし、これに対する吉田内閣の反応はニベもないものでした。かろうじて中労委の調停によって、第1項の越年資金についてだけは、赤字補填の要求あるから、下級者に重点的に配分すると回答しましたが、他の項目については全く無視の態度をとったのです。全官公は怒り心頭で、そこに油を注いだのが12月7日に50万人の労働者を集めて拳行された生活権擁護内閣打倒国民大会でした。倒閣実行委員会が結成され、高野実、細谷松太、加藤勘十、伊藤津、の4人が委員に選ばれ、総同盟、産別会議、社会党、共産党の4者を集めた政党と組合を貫く共闘体制ができあがり、全官公庁共闘が推し進めている対政府の闘いを全面的に支援することとなりました。昭和22年は激動の中で幕を開け、そして吉田茂首相は次ぎのような年頭の辞を放送しました。
昨秋以来、労働争議、ストライキなどが頻発し、生産減退、インフレ及び生活不安定を激化、いわゆる経済危機を醸成せしめつつある現状であります。しかるにこの時に当たって、労働争議、ストライキを頻発せしめ、いわゆる労働攻勢、波状攻撃などと称して、市中に日々デモを行ない、人心を刺激し、社会不安を激化せしめてあえて顧みざるものあるいは、私のまことに意外とし、また心外堪えぬところであります。この悲しむべき経済事態を利用し、政争の目的のためにいたずらに経済危機を絶叫し、ただ社会不安を増進せしめ、生産を阻止せんとするのみならず、経済再建のために挙国一致を破らんとするがごときものあるにおいては、私は我が国民の愛国心に訴えて彼らの行働を排撃せざるを得ないのであります。しかれども、私はかかる不逞の輩が我が国民中に多数ありとは信じませぬ。我が経済の現状を確認し、政府諸政策の真相につき十分の了解が生ずるにおいては、由来愛国的情熱に富める我が国民は、この経済克服に一致協力、経済再建に邁進せんとする国民運動の発生することを確信して疑わぬものであります。

昭和22年の吉田茂首相の年頭の辞ででてくる、不逞の輩という言葉が労働者の怒りをあおりたてる結果となりました。そして、全官公庁共闘は1月9日、拡大闘争委員会を開き、2月1日からゼネストに入るという方針を確定しました。1月18日に開かれたストライキ決行宣言大会の席上で読み上げられた宣言文には次ぎのように書かれてありました。
祖国再建の悲願に燃ゆる我々は、その基礎たる生活権を獲得せんとして、旧臘来隠忍2ヶ月にわたり、血涙を飲んで平和裡に交渉を続けて来た。最低賃金制の確立をはじめ、基本的人権を主張する我々の要求は正当である。しかるに政府は一顧をあたえざるのみか、ついに血迷える首相は、われら勤労大衆を呼ぶに不逞の輩をもってした。事態はまさに最悪の段階に至っている。我々は祖国復興のため、かかる頑迷なる政府の挑戦に対して、反撃をあえて辞さないであろう。我々は今や相互の団結を確信し、何時たりとも指令一下整然として歴史的なるゼネストに突入し、共同の全要求貫徹まで断固として闘い抜くことを宣言する。
この全官公の勇ましいゼネスト宣言に鼓舞されて、民間の組合も次々と立ち上がり、先の4者共闘が中心となり作り上げた全闘(全国労働組合共同闘争委員会)の組織は日にましにふくれあがり、昭和22年1月15日の正式発足の時点で、総同盟、産別会議、中立の別にかかわらず、実に54組合もの多数が参加し、総計450万ないし500万の労働者がいっせいに立ち上がる情勢となりました。

終戦後、極端なインフレによる労働者の不満を背景として、昭和20年に相次ぐストをうって高まりを見せた労働戦線は昭和22年に入って全官公庁労組共同闘争委員会を核として総結集し、400万人が一丸となって賃上げを要求し、2月1日を期してゼネストに突入することを決定しましたが、この空前の規模のゼネスト計画は決行前夜、マッカーサーの中止命令により突然中止しました。中止命令の根拠をマッカーサーは次ぎのように述べています。
ゼネストで生じるマヒ状態は、日本国民の大多数を事実上の飢餓状態に陥れ、社会的階層のいかんを問わず、この基本的な問題に直接関係のあるなしにかかわらず、あらゆる日本の家庭に恐るべき結果が生ずるであろう。
これに対してやむなくスト中止をラジオで指令した。全官庁共闘委員長伊井弥四郎は次のように語っています。
幾百万の労働者は怒りに燃え、しかもあと3、4時間で立ち上がろうとしていた時だけに、胸がさかれる思いで放送室に入りました。だから、労働者農民万歳、われわれは団結しなければならない、一歩後退二歩前進というラジオでの最後の言葉は、今は弾圧されたが、日本の労働者はいずれまたより大きく強く立ち上がるという確信と、労働者階級に対する励ましであり、かつアメリカに対する怒りの言葉であったわけです。

イギリスの前首相ウィストンチャーチルの鉄のカーテン演説や、アメリカ国務省の政策企画局長ジョージケナンの封じ込め論文を受けた形で、いわゆる冷たい戦争的状況の中でアメリカはヨーロッパにどのような姿勢でのぞむべきかを明確にしたトルーマン大統領の宣言で、1947年3月12日に連邦議会の演説を通じて明らかにされました。当時のヨーロッパ諸国は第二次世界大戦の後遺症のために、経済的な苦しみのどん底にあえいでおり、社会的混乱も酷く、そのような情勢の中でソ連の共産主義的浸透が大いに心配されていました。特にイラン、トルコ、ギリシアへの政治的介入には目にあまるものがあり、ギリシアなどでは、アルバニア、ユーゴスラビア、ブルガリアなどの東欧圏より侵入してきた共産ゲリラ軍の手によって何千というギリシア人の子供達が強制労働に引張って行かれたといいます。ギリシアに対しては、かねてよりイギリスがさまざまな援助をしていましたが、この頃になるとイギリス自身が極端な財政危機にあえぐようになっていたため、とても他国に援助できる状態ではなくなっていました。このようなヨーロッパ情勢を踏まえて、トルーマン大統領がアメリカ議会に対して行なった演説が、トルーマンドクトリンとしても知られるトルーマン宣言でした。
アメリカの外国援助の主たる目的の1つは、我国及び他国が弾圧を受けない生き方を達成できるような条件を創り出すことにある。武装した少数のもの、あるいは外からの圧力で服従させようとする意図に抵抗している自由な国民を支持することこそ、我国の政策でなければならないと強く思う。内外からの全体主義の圧迫に対抗して、その独立、民主的制度、人間の自由を保持しようとしている自由な諸国民はだれよりも優先的にアメリカの援助を受けることになろう。

戦後2回目の総選挙が近付くにつれ、保守各党は政権の主導権を握る為に、さまざまな策謀を用いました。特に大日本政治会の流れをくむ、日本進歩党は常に保守陣営の中でも最右翼と見られていた為、革新寄りの敗戦直後の政治風潮の中で、このままでは負けるという焦燥感を強く持っていました。そこで昭和22年3月25日に自由党や国民協同党や無所属からの参加者も迎えて、総勢145名の代議士を擁する民主党を結成しました。この時点では数の上で自由党をもしのぐ大政党に生まれ変わったのです。そして綱領の中にも、次ぎのように、かつての進歩党よりもはるかに革新的な文句が折り込まれていました。

一、我らは新憲法の精神を堅持し、民主的政治体制を確立し、平和国家の建設に緊密な革新政策を断行する。
一、我らは総合的経済計画に基づき産業を民主化してその急速な復興を図り、大衆生活の安定を期する。
一、我らは個性の完成を目標とする教育の振興を図り、宗教情操をかん養して大衆の教育の向上に努め、世界の文運に寄与する。
一、我らは国際信義の回復に努め進んで平和世界の建設に協力する。

修正資本主義や官僚主義の打破を目指したこの政党は、当初は合議制でスタートしました。しかし4月25日の総選挙では124議席で第3党に転落しました。片山連立内閣には参加したものの炭鉱国管問題で24人が離党、23年2月には芦田内閣を組織しましたが、昭電疑獄で辞職し、24年の1月23日の総選挙では68人となり、ついに分裂しました。

東西両陣営の対立を冷たい戦争という抽象的な言葉で最初に表現したのは、バルーク案で知られるアメリカの老政客バーナード・バルークだと言われています。バルークは1947年4月にアメリカのサウスカロライナ州にて次ぎのような演説を行ないました。
諸君、欺かれないようにしましょう。我々は冷たい戦争のさなかにいるのだから。
しかし冷たい戦争という言葉が本格的に世間に広まったのは、ジャーナリストのウォルター・リップマンが1947年にザ・コールド・ウォーという著書を発表してからのことです。リップマンは後にトルーマン大統領によって封じ込め政策として具体化されることになるジョージ・ケナンの論文ソ連の行動の源泉よりもっと厳しい対ソ観を示しており、冷たい戦争を集結させるためには、ただ相手を封じ込めておいてその内部崩壊を待つだけではダメで、そのような政策をとっていたら、結局、外交上のイニシアティブをソ連に渡してしまって、アメリカは後手後手にまわらざるを得なくなるであろう。と述べています。ケナン論文というのはマーシャルプランが発表されて間もなく、アメリカの外交専門季刊誌のフォーリン・アフェアーズに匿名で掲載された次ぎのような論文でした。アメリカが予見できる未来において、ソ連の政権と政治的な親交を結ぶことが期待できないことは明らかである。政治の分野ではソ連は我々のパートナーではなくライバルである。西側全体から見れば、ソ連はまだはるかに弱い相手である。ソ連の権力はそれ自体の中にみずから崩壊の種を宿している。ソ連の社会は欠陥を含んでおり、やがてはみずからの将来の力を弱めることとなるだろう。こうした見通しからして、かなりの自信をもってアメリカが強固な封じ込め政策をとることは正しいであろう。それはソ連が平和で安定した世界の利益を侵そうという兆しを示したあらゆる時点において、我々が不変の対抗力をもって立ち向かうことである。
そして後に駐ソ大使にもなるジョージ・ケナンのこの論文こそ、トルーマン宣言やマーシャル・プランの底流にある当時アメリカ政府の基本的な考え方であるソ連の封じ込め政策の理論的根拠となったのです。

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