消費ブーム

40年不況を乗り越え、日本経済が経済大国への道を歩み始めるとともに、消費ブームが巻き起こりました。物が大量にでまわり、価値観の多様化する中で消費構造は高度化していきました。労働市場では昭和42年に有効求人倍率が1を超え、人手不足が激しくなり、完全雇用が実現されました。勤労者世帯の月収は昭和40年の6万8000円から昭和44年には10万円を突破するようになりました。春闘の上げ率も2ケタに達する高い伸びを示し続けました。労働時間の短縮も目立ち、昭和35年から10年間で、平均15時間も減少しました。物の豊かさは耐久消費材の普及に代表される。カラーテレビ、クーラー、冷蔵庫、かどの家電製品が一般に普及しました。それに応接セット、食堂セット、ベッドなどの住生活の洋風化も進みました。自動車の大衆化が進み、ドライブインが登場し始めました。カー、カラーテレビ、クーラーの3つが3Cと呼ばれ、かつての3種の神器である白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫に置き換わりました。こうした40年代前半の消費ブームのさなかで、昭和44年には本格的なショッピングセンターの誕生とボーリングブームが目立ちました。それまでにも都心部には小規模なショッピングセンターは建設されていましたが、都市郊外の大規模なアメリカ型のショッピングセンターが登場してきたのです。昭和44年3月には、関西に香里園ショッピングセンターがオープンし、10月には玉川高島屋ショッピングセンターが建設されました。これらは大型店鋪が核となり、多数の専門店が入居する形式をとった郊外型店鋪でした。自動車で来店するための駐車場も完備されているほか、買い物だけではなく娯楽施設も設けられています。昭和44年に入って大型レジャー化も進みレジャー産業の本格的な展開も見られました。手軽なレジャーとしてボウリングの繁盛は目覚ましいものがありました。昭和44年3月には全国で760以上のボウリング場があり、約1万7000レーンを持っていました。夕方にはゲームをするのに2時間待ちなどの状態がザラでした。昭和48年の最盛期には全国で3779箇所、12万3700レーンにも上りました。こうした消費ブームを背景に国民の中には中流意識をもつものが増え、昭和44年には自分の生活が中流以上にあると考える人が9割にも達しました。

昭和44年は卸売物価、消費者物価が異常な高まりを見せ、インフレとの闘いが要請された年でした。卸売物価は昭和44年2月より昭和45年4月まで15ヶ月連続して上昇しました。この結果昭和44年度の卸売物価は年度平均3.2%、年度中に5.0%の上昇率となりましたが、神武景気とスエズ動乱で物価が大幅に上昇した昭和31年度以来の高い上昇でした。40年から43年までの卸売物価は年率1.6%と先進国の中でも比較的安定した動きでした。それが、昭和44年度には著しい上昇があったのは、需給要因、海外要因、及び賃金コスト要因がありました。需給要因としては国内需要に加えて輸出需要の伸びが需給ひっ迫を引き起こしました。海外要因では海外製品のインフレが輸入価格の上昇を招き、賃金コストでは日本の完全雇用の実現により、労働組合の賃上げ交渉力が強まった点が指摘できます。大企業性製品は賃金コストの上昇を生産性上昇に吸収しえても、ほぼ同程度の賃上げを実現した中小企業製品やサービスの価格上昇を招きました。消費者物価も昭和44年度には前年度比6.4%の上昇となりました。これは40年度から43年度の年率4.6%を上回る上昇です。40年代の消費者物価は、野菜、果物、鮮魚などの農水産物やパン、豆腐などの中小企業性製品、理髪パーマ代、クリーニング代などの個人サービスの価格上昇による生産性格差インフレが目立っていました。しかし、44年度には卸売物価の上昇の影響を受けて、大企業製品消費財の値上がりも加わりました。昭和44年にはこれまで比較的おちついていた卸売り物価が上昇を続けたために、政府も物価対策に力を入れました。3月には物価対策関係閣僚協議会が設置され、5月には物価安定政策会議が発足しました。物価対策閣僚協議会は当面の物価対策として、食料品価格の安定、公共料金の抑制、流通機構の合理化、競争条件の整備、輸入自由化などを重点項目に決定しました。この結果、昭和44年産米の生産者米価、消費者米価は据え置かれたほか、再建途上にある国鉄運賃以外の公共料金は極力抑制されました。金融面においても昭和44年9月に公定歩合が年5.84から6.2へと引き上げられ、引き締め政策に踏み切られました。これは物価上昇を理由に金融引き締めが行なわれた最初だといえます。財政面からも総需要を刺激して物価上昇を加速しないように、財政政策の運営は慎重に行なわれました。

1968年1月5日に共産党のノボトニー第一書記が辞任し、ドプチェクが昇格し、3月22日にはノボトニーは大統領も辞任し、後継にスボボダ大統領が就任。人間の顔をした社会主義の民主化運動が、ドプチェク、スボボダのコンビで進められ、人々はチェコスロバキアにもようやく春がやって来たと喜んでいました。しかし、こうした動きが周辺東欧諸国に波及することを恐れたソ連のブレジネフは、1968年8月20日、ワルシャワ条約軍のチェコスロバキア侵攻を指示し、民主化を死守していたドブチェクら幹部を拉致しました。翌1969年4月17日、チェコスロバキア共産党はドプチェク第一書記を解任し、フサーク第一書記を選任しました。追い討ちをかけるようにドプチェク氏を除名し、プラハの春は冬に逆戻りしていきました。ドプチェクは1989年のビロード革命で復活し、12月から2年間にわたり連邦議会議長をつとめ、分裂後の1992年6月の総選挙では、スロバキア社会民主党党首として連邦議会議員に当選しスロバキアの象徴的な存在でしたが、1992年9月1日に交通事故に合い、重体のまま11月7日プラハ市内の病院で死亡、享年70歳。フサークは大統領も兼務し、東ヨーロッパの優等生としてブレジネフの信頼を獲得しましたが、ゴルバチョフ政権誕生以来はソ連との関係も冷えがちで、経済不況の影響もあり、1987年12月にはヤケシュに書記長の座を譲り、さらにビロード革命では市民フォーラムからの退陣を迫られ、12月10日の連立政権発足と同時に大統領を辞任し、完全に政界から引退しました。フサークはドプチェクの後継だったために民主化を弾圧したようなイメージがありますが、心の中は違っており、1951年から60年までは民族主義者として投獄されていました。そして63年に復建した後は68年に副首相に就任し、ドプチェクの民主化路線を支持していました。しかし、ソ連の軍事介入を目の当たりにして、ソ連との協調なくしてはチェコスロバキアは生き残ることはできないと考え、民主化弾圧に転じたのでした。退陣したあとはカトリック教会で告別の儀礼を受けて過去のあやまちを懺悔しました。

アメリカの消費者運動や環境保護運動の先頭に立って活躍しているハーバード大学出身の弁護士ラルフ・ネーダーの元で活動している若者達のことを言い、ネーダーと同じくハーバード・ロウ・スクール出身の優秀な若手弁護士も多く、立身出世だけにとらわれない70年代アメリカの知的青年達の生きざまを象徴的に表しています。レイダーの異名をとるだけあって、彼らの調査活動や告発の仕方は際立っており、最近では政府や大企業も一目おいています。それまでの成果のうち主なもので、超音速旅客機プロジェクトの中止、自動車排気ガス規制、タバコの有害性の告発と広告の規制、ジャンボ機の欠陥の指摘などがあります。
ラルフ・ネーダーは1934年コネチカット州のウィンステッドに生まれ、ハーバード大学のロウ・スクールを卒業するとワシントンDCに赴き、大企業の利益に奉仕する法律家達、特にスーパー・ロウと呼ばれる有力弁護士達とは正反対の道を歩みはじめました。ハーバードで身に付けた法律家の専門知識を消費者のために役立てようとしたのです。そしてその運動に共鳴した若くて優秀な弁護士達が次々と後に続き、徹底的な企業悪の告発に乗り出しました。彼らが最初に取り上げたのは巨大な自動車産業の儲け主義でした。そして膨大な調査の結果、どんなスピードであっても車は危険だと題する欠陥車問題を攻撃したレポートをまとめあげ、たちまちのうちにベストセラーにのしあげました。GMをはじめとする大手の自動車メーカーは、さまざまな手を使い脅したり、訴訟に持ち込んだりしていましたが、結局、企業期の全面的な敗北に終わり、膨大な金を払うことになりました。ついにアメリカで初めて消費者というパワーに社会的発言力が公に認知されたのです。勢いづいたネーダーは、他の産業についても次々と告発レポートを発表し、やがて1960年代末期から1970年代にかけて起ってきた環境保護運動とタイアップするようになり、たちまちのうちに市民運動はアメリカの政治を動かすパーワーを得たのです。

昭和40年代に入って米の超過供給がはっきりとしてきました。とくに昭和44年には、米の過剰を象徴する3つの新たな制度政策が打ち出されました。第一は自主流通米制度の創設です。現行食管制度下では、生産者は政府以外に米を売る事を認められていませんでしたが、44年産米より、一部の優良米などに限って指定卸売業者などに米を直接販売することが認められました。価格数量については当事者間の自由な交渉に委ねられますが、流通ルートなどは特定されているなどの自由米と政府米との両方の性格を持つもので、自主流通米と呼ばれました。自主流通米制度は、所得の伸びによっておいしい米に対する消費者の要求が強まってきたため、良質米の生産拡大と価格形成に市場原理を導入することを目的として創設されました。米も量を確保する時代から質を求める時代へと変わったのです。自主流通米は年々増加し、昭和57年産米では、約700万トンと政府管理米の半分以上を占めるまでになりました。
第二に生産調整対策の発足があげられます。古米の在庫が700万トンを超えた中で、転作、休耕に対して奨励補助金が交付され、古米の在庫減らしが図られました。
第三に戦後初めて生産者米価を据え置いたことです。米過剰時代が到来したのには、需要、供給両面の要因があります。需要に関しては、一人あたりの年間米消費量が高度成長期を経て食生活が豊かになり、約10kg減少して、110kg程度となったことが指摘てせきます。供給面からも過剰が導かれました。昭和30年には、水田10アールあたりの平均400kgが生産されていました。耕地面積は300万haでした。しかし、昭和44年には、平均450kgに上昇し、耕作面積は330haとなったのでい。こうした動きは最近ので続いており、現在の水田面積は270haと減少しましたが、10アールあたりの収穫量550kgに増加しました。米の生産供給能力は昭和44年に1380万トン、最近も1350万トンと微減に止まっています。一方で一人あたりの米消費量は73kgにまで減少しました。米の年間需要量は1000万トン程度なので、過剰能力は拡大しています。昭和44年以降も米をめぐる制度改正の努力が続けられ、昭和47年には政府売渡米価への品質格差導入、昭和54年には政府買入米価への格差導入、さらに昭和56年には食糧管理法の改正により、流通制度面の自由化への移行に重点が置かれました。

通称は成田空港で、東京国際空港(羽田空港が)内外の航空旅客の増加により飽和状態となったために、昭和41年7月の閣議により、千葉県成田市三里塚に新空港の建設を決定、新東京国際空港公団が発足し、昭和44年4月に着工しました。当初は昭和46年4月の開港の予定でしたが、三里塚、芝山連合空港反対同盟を中心とした地元農民や支援の労働者、学生らの反対運動により用地買収や工事が遅れ、強制代執行を2度実施し、昭和47年6月の開空予定を宣言しました。ところが、ターミナルビルの建設、燃料パイプライン埋設工事の大幅な遅れのために、佐々木運輸相は昭和47年8月、パイプライン完成までは鉄道やタンクローリーで代替輸送することとし、昭和48年3月の開港を宣言しましたが、これも不可能となってしまいました。結局、燃料輸送は鹿島、千葉両港から成田市内の空港公団資材置場まで鉄道で運び、それから空港まで8.2kmの臨時パイプラインにより代替輸送することとなりました。この工事が完成し、航空局のフライトチェックが終了すれば、昭和48年秋以後の開港が可能となります。新空港の総面積は1065haで羽田の3倍、昭和51年度には旅客540万人、貨物41万トンを扱う予定でした。第1期工事では4000m滑走路1本を完成、第2期工事は2500mの平行滑走路と3200mの横風用滑走路を建設します。新空港の最大の問題点は空港への交通の便でした。東京都心までは67kmで世界一遠い空港となり、京成電鉄の空港線が完成したものの特急で一時間、高速道路では一時間半もかかってしまいます。

リビアはアフリカ大陸の最北端に位置し、しかも地中海をへだててヨーロッパ大陸とも向かい合っているこの地域には、昔からさまざまな人種が流入し、原住民ともいうべきベルベルと同居する形をとっていました。とくに7世紀の半ばよりイスラム教とともに侵入してきたアラブは、11世紀の中旬になって急速にベルベルとの同化を深めていきました。そのために現在のリビア人のほとんどはアラブ系で占められていますが、今でも西部のガダミスやガットにいるトゥアレグ族やトリポリタニア海岸平野の定住農民の一部は、いぜんとして純粋なベルベル語とその文化や習慣を守るベルベルです。リビアの沿岸地帯は、古来以来征服軍の通路に当たっていたため、その時々の強者の支配下に組込まれてきました。そして、16世紀半ばよりエジプトから北アフリカ一帯をオスマン帝国の支配下となったために、リビアもその勢力下に入りました。しかし、1711年になってオスマン軍人から土着化して地中海で海賊行為を行なっていたアフマド・カラマンリーがリビアの支配権を握るようになり、その後1年間にわたってカラマンリー朝となりました。ところが19世紀に入るやヨーロッパの列強が一斉にアフリカ植民地化に向かうようになったために、リビア諸地域で部族反乱が激発に至り、第一次世界大戦後にイタリアが植民地化した際にも激しい抵抗運動が展開されました。そして、1942年にはイタリアを打ち破ったイギリスとフランスに分割統治されることとなりましたが、第二次世界大戦後の1951年に、ムハンマド・イドリース・アッサヌーシーを国王とする連邦国家として独立宣言を発し、翌1952年に行なわれた国連決議に基づき、国際的にも独立国家として認知されるようになりました。しかし、イドリース国王は依然として旧宗主国の影響を受けていたため、1969年9月にリビア革命が決行され、1941年生まれの青年将校カダフィが王制を倒して指導者としての地位に就きました。1970年から1971年にかけて、カダフィは外国軍事基地の撤去やイタリア人資産の凍結、国際石油資本施設の国有化などのさまざまな改革を推進していきました。これによりリビアは従来の社会主義的解放理論とは異なるイスラム社会主義とも呼ばれる急進的な革命政策が推進されるようになりました。

佐藤内閣の最大の課題は戦後日本の懸案と言われていた沖縄問題の解決でした。昭和40年1月10日から13日の首相就任後初の来日で、佐藤栄作は早くも沖縄返還をジョンソン大統領に申し入れ、共同声明の中にも大統領は施政権返還に対する日本政府及び国民の願望に対して理解を示し、極東における自由世界安全保障上の利益がこの願望の実現を許す日を待望していると述べたというくだりが明記されました。そして昭和42年の1月には分離返還よりも施政権の一括返還が望ましいと語り、全面返還の方向以外にないことを明確にしました。これに対してアメリカ政府は表向きは脅威と緊張の存在する限り沖縄にとどまると述べていましたが、実際にはそのような方法がかなり無理な状態となってきていることを認識していました。そして昭和43年2月にアメリカの下院アジア大平洋問題小委員会に出席したライスシャワーも1970年を日本の野党勢力は日米関係を破壊する年にしようとしているので、同年は問題の年である。したがって大統領選挙が終わった年の1969年中ならば取扱いも安易になるため、沖縄問題を解決すべきだと思うと明確に証言し、70年安保を目前にひかえて沖縄返還問題に決着をつけるのは日米共同の利益につながるという基本方針がしだいに固まってきました。問題は核抜きの問題ですが、昭和44年の3月10日の参議院予算委員会の答弁で、佐藤栄作も核抜きでいくとという方針を明らかにしました。当時、アメリカの核戦略は戦術核による核局地戦争を想定した柔軟反応戦略から戦略核兵器による大量報復戦略に変わりつつありました。1969年1月に発足したニクソン政権の大統領特別補佐官であったキッシンジャーはこの大量報復戦略の推進者でした。この戦略に立てば小型核兵器を装備したB52やポラリス潜水艦を沖縄に配備する必要性は薄れます。佐藤が核抜き、本土並みでゆけるとの確証をつかんだのは昭和44年1月の日米京都会議でした。日米の学者や安全保障問題の専門家を集めて、日米関係のあり方を総合的に検討する会議でしたが、議題の中心は沖縄返還をめぐる安全保障の問題でした。ウォールステッター・シカゴ大学教授は、敵地に接近した基地に戦術核を配備しても抑止力とはならないとの議論を展開し、これが会議をリードする議論となり、中国本土に近い沖縄に戦術配備は不必要で、核抜き本土並みは可能だとする空気が支配的となりました。昭和44年4月、外務省の東郷アメリカ局長が渡米し、交渉にあたった結果、返還後の沖縄には日米安保条約を全面的に適用し、沖縄のためだけの特別の取り決めは作らない方針が確認されました。そして昭和44年11月19日からの日米首脳会談は核抜き本土並みでの1972年返還が決定されました。

核抜き本土並みの沖縄佐藤内閣は、その余韻をかって、これまでの常識を破って昭和44年12月7日公示、27日投票という師走選挙を断行しました。沖縄返還の興奮さめやらぬうちに選挙をやりたかったわけです。選挙期間中にアメリカ側は沖縄のメースBの引揚げや、日の丸掲揚の自由化など共同声明の具体化を次々と発表し、自民党を間接的に応援しました。結果はこれまでにない保守の圧勝でした。自民党は選挙後直ちに入党した保守系無所属を加え300議席を獲得し、原敬内閣以来の絶対多数を手にしたのです。100議席を割った社会党の敗北はみじめでした。自民党はこの勢いをかって1970年6月の日米安保条約固定期限切れに臨みました。この選挙の結果を国民が1970年代も引き続き日米安保体制の維持を望んでいることを示すものとして受取り押しまくったのです。革新勢力は闘争を盛り上げようとしましたが、社共両党の不協和音、共産党と新左翼の対立などがあり、60年安保を上回る闘争どころか、極めて低調なものに終わりました。保守は70年安保を余力を残しつつ、悠々乗り切ったのです。 保守の屋台骨までゆさぶられた60年安保とは大違いでした。沖縄返還ということはあったにせよ、日米安保体制を実質的に強化し、乗り切ったことは保守戦略の明らかな勝利でした。

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