東西ドイツ分裂

1945年6月、ドイツを占領したアメリカ、イギリス、フランス、ソ連の4カ国の間で、占領期間中はドイツを1つの経済単位として扱い、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連による各占領地域に同じ政策を行なうという約束ができていました。この約束をもとにベルリンに設けられたのが連合国管理理事会という機関であり、4カ国とも一流の人材を送り込みました。にもかかわらず、理事会の運営は発足後の2、3ヶ月もたたないうちにうまくいかなくなりました。ポツダム会談に出席していなかったフランスが、いっさいの協定にしばられないと言い出したからです。そのために、4つの占領地域で各国で独自の政策で行なうようになり、やがて東西ドイツが分裂してゆく要因を作ってしまいました。
アメリカは占領下の1700万人のドイツ人が平和な暮らしを送っていけるようにしようと積極的な政策を行ないました。非ナチ化の審査をパスしたドイツ人に対して政府を作ることを許し、ドイツ経済を復活させるためにありとあらゆる援助を与えました。しかし、ソ連の方は旧ドイツ領の東半分を占める人口2200万人の占領下の住民に対して、徹底的な社会主義化政策を断行しました。大地主の土地を細分化して再分配し、ユンケル貴族の土台を根こそぎにし、また工業機械や設備を賠償として持ち去ってしまいました。そのために、ソ連が治める東ドイツと、アメリカが治める西ドイツとの格差が日増しにハッキリし、1946年の12月には、農業地帯を持つアメリカ地域とルール工業地帯を持つイギリス地域とが経済統合することとなったため、連合国管理事務所は有名無害と化してしまいました。

1947年12月、ドイツ分裂を何とか打開しようとロンドンで4カ国外相会議が開かれましたが、これも決裂し、もはやドイツ統一の見込みがまったくないということが明らかになってきました。そこで、アメリカ、イギリス、フランスの西側3カ国は、それぞれの占領地区に独自のドイツ政府を樹立させ、西ドイツを一人歩きさせることにしました。しかしソ連はこれを4カ国協定違反であると激しく避難し、1948年3月にはついにドイツ管理理事会を退場してボイコットしてしまいました。問題のベルリン封鎖が断行されたのはその直後の4月1日からのことで、ソ連は西ベルリンに出入りするすべての鉄道や道路の交通規制を行ないました。そして、1948年6月24日には、とうとう西ドイツから西ベルリンに通じるすべての陸上、水上ルートを完全に遮断するに至りました。アメリカ軍当局はこのソ連の暴挙に対して、一時は装甲車と戦車で封鎖を突破しようと考えていましたが、そのようなことをしたら第3次世界大戦にもなりかねないというフランスとイギリスの必死の説得によって何とか阻止することができました。そして、それに代わる手段としてベルリン大空輸が断行されたわけですが、いちばん忙しい時には45秒に1機という割合で西側3国の飛行機が西ベルリンの空港に着陸し、11ヶ月の間に、総計27万7728回の空輸が行なわれ、234万3300トンの物資が補給されたため、ソ連も封鎖の失敗を認めざるを得なくなり、1949年5月12日ついにベルリン封鎖は解除されました。そして、1949年8月に西側3国の占領地区で総選挙が行なわれ、9月にはついにドイツ連邦共和国が成立しました。これに対して、ソ連地区でも5月に人民議会の選挙が行なわれ、10月にドイツ民主共和国政府が樹立され、ついに二つのドイツが誕生したのです。

昭和24年2月1日に来日したドッジに続いて、同年5月に来日した、コロンビア大学教授のカール・シャウプはドッジ・ラインを税制面で裏付けるために、3ヶ月の調査を行ない、昭和24年9月15日、税制の改革案を発表しました。ドッジの改革が歳出面であったことに対して、シャウプの改革は歳入面からのものでした。

1、所得税中心主義をとり、累進課税体系を整備する
2、法人税と配当所得課税の調和を図る
3、地方自治強化のために、付加税制度の廃止、国庫補助金の削減、財源調整機能を強化する、などでした。

この勧告は昭和24年の補正予算から取り入れられ、25年から本格的に導入され、その後の日本の税制の機軸をなすものとなりました。しかし、導入の過程では付加価値税の実施が延期されるなどして中身そのものが骨抜きされることになりました。このことを受けて、昭和25歳には再びシャウプが来日し第2次勧告を行なうこととなりました。

1949年10月1日、中華人民共和国の中央人民政府の樹立が宣言されて、毛沢東が政府主席の座につきました。新しい首都は北京に移されました。こうして、中国共産党が名実ともに中国大陸の覇権を握ったことになりましたが、新国家成立後最も力を注いだのは土地改革でした。そして1952年までに4億の農業人口の間で土地改革が完了、1953年から、いよいよ第1次5カ年計画に着手しました。1954年9月20日、第一期全国人民代表大会は中華人民共和国憲法を採択し、その中で中国は一歩一歩と社会主義改造と社会主義建設をなしとげていると明確に規定しました。以上のような政治討論と第1次5カ年計画の成功に刺激されて、1956年には、大部分の私営商工業が自発的に公私合営に切り替えを行ない、また農村においても協同化運動が怒濤のごとく押し進められ、1億2000万の農家の9割以上が農業生産協同組合に加盟しました。このような所有性の面における社会主義革命の勝利のさなかに、中国共産党が11年ぶりに開いた全国大会が八全大会第1回会議であり、1956年の9月15日から27日までの間に北京でさまざまな討論と報告が行なわれました。七全大会のときの党員は121万人でしたが、それから11年たった八全大会の時には1073万4384人と、約9倍に増えていました。そして、1958年5月の八全大会第2回会議で社会主義建設の総路線を打ち出し、同年8月からいよいよ人民公社化の運動が開始されました。

1946年の7月から再開された中共と国民党との戦闘は3年半も続き、この戦いの過程で国民党はどんどん押しまくられ、1949年1月8日には内戦を調停してくれるよう、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連の4カ国に対して必死に要請しましたが、時すでに遅く、いずれの政府からも拒絶されてしまいました。当時、国民党政府の首都は南京に置かれていましたが、蒋介石総統は陥落するのは必至と見て、1949年1月21日、職務を李宗仁に譲った後、双発のアメリカ機に乗り込んで、南京から210マイルばかり離れたところにある生まれ故郷の浙江省奉化にある先祖代々の家へと飛びました。そして、その間にかねてから台湾に送り込んでいた腹心の陳誠が受け入れ態勢を整えてくれるのをひたすら待ちました。そして1949年6月上海が中共軍の手に落ちたのと同時に、蒋介石は50万人の陸、海、空軍将兵を引き連れ台湾へと逃げ込みました。ついに中国大陸全土が共産党の支配下となったのです。そして中共軍は1947年10月に中国人民解放軍と改称されました。

昭和24年11月3日、湯川秀樹は日本人として初めてノーベル賞を授与されました。敗戦からようやく立ち直ろうとしていた日本人の心に自信を取り戻させたのがこの受賞でした。その後幾人かのノーベル賞受賞者が日本にも出ましたが、社会に与えた衝撃や影響力は湯川秀樹の比ではありませんでした。
明治40年、東京都に生まれた湯川は7人兄弟の3番目として、両親と祖父母の12人家族の中で育ちました。父親は学者でした。当時、学者の家庭は決して裕福とは言えず、彼は物をねだれない悲しみを経験したそうです。父親は決して子供に対して勉強しろ、出世しろとは言わずに、むしろ母親の方が子供の教育に熱心だったようです。三高を経て、京都大学理学部物理学科へ進んだ彼は、昭和10年に中間子の存在を予言する、素粒子の相互作用について、という論文を発表します。さらに昭和22年には、非局所場の理論、などを発表します。昭和14年には大坂大学助教授を経て、京都大学の教授に就任、昭和18年には文化勲章受賞、戦前より輝いた存在でした。しかし、日本の学会の体質は相変わらず出る杭は打つというもので、湯川にとっては居心地の悪いものだったと思われます。海外への頭脳流出と騒がれながらも、昭和23年には、旧知のオッペンハイマー教授の招きにより渡米し、プリンストン高級研究所の研究員となりました。そして、昭和24年にノーベル賞を受賞し、25年にはコロンビア大学の教授へ転出しました。

アジア地域に最も多くの植民地を保有していたのはオランダとフランスでしたが、アメリカと違って、両国とも第二次世界大戦終了後も独立を供与する気持ちはまったくありませんでした。そして、戦後ますます高まりを見せた民族独立の気運の中でも、ごく簡単にかっての植民地地域を支配できるものと思い込み、警察行為という名目で弾圧をかけました。しかし、これが逆効果となり、民族主義者達の独立党派を刺激する結果となり、思いもかけぬ泥沼戦争に引込まれていくこととなりました。特にオランダの誤算は大きく、ジャワ、スマトラ、ボルネオ、セレベスの4つの島と数千の小島郡から成り立っている植民地の支配権を断固として放棄しようとはしませんでした。しかし、この地域には、すでに第二次世界大戦前から民族主義の指導者がおり、政治団体もあったので、日本の降伏とともに旧日本軍の武器を大量に入手し、35万人の武装青年を中核としたゲリラ隊を組織していました。そして、1945年8月17日には、アーメッド・スカルノとモハメッド・ハッタという2人の青年指導者の手によって独立宣言が発せられ、その後4年間にわたって、オランダはこの新共和国のゲリラ隊と戦わざるを得なくなりました。独立の気運に燃える若者達の反抗はすさまじく、結局、1949年12月27日にはオランダのハーグでインドネシア共和国を承認する条約に調印する結果となりました。

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