総選挙

昭和22年4月25日、戦後第2回目の総選挙が行なわれました。新憲法が定められ、帝国議会が国会と名を変えた直後の代議士選挙であったため、第1回衆議院議員選挙と名付けられました。この選挙で第1党となったのは社会党でした。
社会党143議席
自由党131議席
民主党126議席
国協党31議席
共産党4議席
農民党4議席
諸派16議席
無所属11議席
この結果からも明らかなように、革新政党の議席はこの選挙の結果、一挙に全体の31.5%にも達しました。しかし、第1党となった社会党が単独で政権を打ち立てることができるかというと、それが難しく、第2党の自由党との差がわずか12議席にすぎず、第3党の民主党の票が自由党に合体した場合には257議席となり、保守2党だけで過半数を制してしまうからでした。このために社会党の西尾書記長などは、総選挙後の社会党議員総会の席で、第1党が必ずしも首班をださなければならないわけでしない、と発言する有り様でした。したがって鳩山一郎から自由党を受け継いだ吉田茂総裁にしてみれば、保守が連合して引き続き政権を担当することなどは、さほど難しい問題ではありませんでした。しかし、憲政の常道を大義名分とする吉田茂はあえてその道を選ばず、社会党首班内閣に政権を譲ることとしました。後に吉田は回想十年の中で、次ぎのように述べています。
民主党と組んで保守連立で行けという議論が出たり、甚だしきは、民主党から引き抜きをやって第1党を作れといった説まで出たが私は第一位の社会党に席を譲って、この際わが国の民主政治のルールを確立することに決めていた。

社会党は民主党と国協党との連立内閣を組織することとなり、昭和22年6月1日に片山哲を首班とした片山内閣を発足させたのでした。片山内閣の寿命は、昭和23年3月10日までのわずか9ヶ月間でしたが、社会党の主導で政権を握っていたという事実があるという意味においては重大な事件でした。閣僚の割り振りは、片山哲、西尾末広、森戸辰男、平野力三、水谷長三郎、鈴木義男、米窪満亮の7人を社会党から出したのに対し、民主党も芦田均ををはじめとして7人を得、国協党は三木武夫ら2人を送りました。国務の和田博雄は当時まだ参議院緑風会に席を置いていましたが、これを社会党に加えても閣僚の割り振りは8対7対2でした。議席数による閣僚ポストの按分分配は、後に自民党政権で派閥に対する閣僚分配の暗黙の原則として用いられるようになります。片山連立内閣は、社会党右派勢力が資本家代弁層に迎合し、社会主義の初心を忘れた反動的内閣であったという批判が、当時もその後も左翼陣営からは出されますが、連立内閣とはこうした冷厳な数の論理が適用される場であって、社会党の主導権は、結局国会での30.7%、政府与党内での47.7%の議席率という数字に制約されるものでしかなかったのです。

1947年6月5日、マーシャル国務長官はハーバード大学の卒業式で、ヨーロッパ諸国が経済復興の具体的計画とその受け入れ態勢を作るならば、アメリカはこれを援助する用意があると演説しました。これが後にマーシャル・プランとして具体化することになるアメリカのヨーロッパ援助計画の始まりですが、あくまでもヨーロッパ自身が努力することが前提でした。マーシャル国務長官のハーバード大学演説は直ちに西ヨーロッパ諸国から熱狂的な支持を受け、イギリスのベビン外相らが中心となり、その年の7月には早くもヨーロッパ経済復興会議が開かれました。これに対して、始めのうちはソ連とその衛星諸国も感心を示していましたが、結局参加することはなく、西ヨーロッパの16カ国によってマーシャル・プランの受け入れ機構を作りました。そして、これを受けて、トルーマン大統領は1947年12月、正式にマーシャル・プランを会議に提出し、4年間の総見積額220億ドルのうち、アメリカが170億ドル支出するための対外援助法を制定するよう求めました。議会におけるこの法案の支持者の筆頭はバンデンバーグ上院議員であり、反対派の筆頭はタフト上院議員でした。議会で激しい議論が交わされていた最中、1948年2月、チェコスロバキアで共産主義者のクーデターが起り、親米派のベネシュ首相を窓外放り出しという古典的なプラハ式の追放をしてしまい、チェコスロバキアにも鉄のカーテンが降りてしまいました。そのためにアメリカ議会の空気は急激に変わり、1948年4月3日に対外援助法が大多数の賛成で可決されました。マーシャル・プランによって、1951年末までに総額120億ドル、1961年7月までには800億ドルという大金が西ヨーロッパ諸国の復興援助のために支出され、ヨーロッパの復興は急速に進みました。

パキスタンは同じインド西大陸の圏内にありながら、ヒンズー教徒の強いインドとは対照的に、回教徒が圧倒的多数を占めていました。回教徒はインド人口の3分の1にも達しており、食物、衣服、冠婚葬祭、などの生活様式がヒンズー教徒とは全く異なっていました。そのために1906年には回教徒だけの政党としてインド回教徒連盟が発足し、1942年の撤退要求のために国民会議派に大弾圧が加えられたのを機に、回教徒連盟は一挙に党員を200万人にまで拡大しました。そしてパキスタンという言葉はインド回教徒の合い言葉となっていき、インドが独立するのを機にパキスタンの独立も達成しなければならないという決意のもとに、回教徒連盟はアリ・ジンナー総裁の方針に基づき、合憲的方法に別れを告げ、1946年8月16日を直接行動の日と定め、銃をもっても目的を達成するという方向で動き始めました。そして回教徒の多いカルカッタ市内では殺戮が展開され、死者5000人、負傷者1万5000人にものぼり、15万人にも及ぶ難民が出る騒ぎとなりました。しかも、その後も事件はインド全土に広がる勢いを見せ、ベンゴール、ビハール、ボンベイ、ユーピーなどの各州に飛び火し、イギリスはもはや事態を収拾できないと認識し、それまでの基本政策を大幅転換し、インドへの独立供与を急ぐという方針を打ち出しました。そしてデリーで会談が行なわれる運びとなりましたが、統一を目指すインド国民会議と、分離を目指す回教徒連盟との対立が激しく、なかなか進展が見られませんでした。特に回教徒連盟の態度は強固で、分離か内乱か、というところまで緊迫していました。その中で新しくインド総督となったマウントバッテン卿は、内乱を避ける方法はインド国民議会が統一の主張を譲ることしかないという判断を打ち出しました。これにより会議派のネール議長も会議派は実際的考慮をはらい、インド分割を受諾する決議を採択したと発表し、1947年8月15日、英領インドはインド連邦とパキスタンの2つの独立国家に分離することとなりました。

インドはイギリスにとって最も重要なアジアの拠点でしたが、インド人は早くから独立を求める姿勢を示しており、イギリスとの間に緊張感がみなぎっていました。そこで、1885年にはイギリス人のオクタビアン・ヒュームにより、全インド国民会議という名のインド人政治家との討論会が組織され、インドを徐々に立憲政治に馴らしていこうとする政策がとられました。しかし、目算とはうらはらに、この組織はインドの独立を求める全インド国民会議派として一人歩きをし始めるようになり、1906年12月にはカルカッタで開かれた会議派の大会において独立の達成という目標が採択されました。そしてかねてから人気を集めていたカラムチャンド・ガンジーが南アフリカから帰国し、1919年に国民会議の指導的地位に就くに及んでインド人の独立意欲はますます高まりました。ガンジーの打ち出した非暴力主義は、それまでのテロリストによる過激路線と大きく異なっていた為、農民層までまきこんだ広範な国民運動として発展拡大していき、ガンジーはインドの父としての地位を確立していったのです。そして、非暴力主義者を中心とする根強い独立運動がしだいにイギリスを脅かすこととなり、第一次大戦から第二次大戦の間だけでも3回にわたる大規模な反英非協力運動が展開されました。第1回はガンジーみずから計画指導したもので、1920年から22年まで続きました。第2回はガンジーが計画し、彼が最も信頼する会議派の愛国者ジャワハルラル・ネールが会議派議長として指導にあたり、インドの完全独立を求め1930年から34年まで続きました。第3回ではさらに厳しさを増し、即時イギリス勢力の撤退を迫った運動で、撤退要求運動には会議派の党員600万人の力を背景にものすごい反英闘争が展開されました。第二次世界大戦の英雄チャーチルは強硬なインド独立反対論者でした。しかし、戦争が終わるやいなやイギリスの総選挙で敗れ、アトリーの保守党が政権に就きました。アトリー首相は直ちにインドに独立を与えると約束しました。しかし、その後も内外の複雑な事情を反映して、なかなかイギリスの公約は実行に移されず、1946年2月になってようやくイギリス政府が動きだし、1947年8月15日、イギリス、会議派、連盟の局面打開が行なわれ名実とも独立国家として歩み始めました。初代首相兼外相にはネールが就任し、その後17年間にわたりインドはもちろん、第三世界のリーダーとして活躍しました。

アメリカの封じ込め政策に対するソ連の反撃の核として、1947年10月5日に結成されたのがコミンフォルムです。戦前にもコミンテルンという名の国際共産主義活動の本部が組織されましたが、第2次世界大戦中にソ連と西側の話し合いが進む中で解放されました。再びコミンフォルムが結成されたのは、その後の米ソ関係がいかに冷戦の度合いを深めて行ったかを著実に物語るものです。1947年10月5日、ポーランドの首都ワルシャワにソ連及び東欧諸国、それにフランスとイタリアの共産党の代表が集結し、いまや世界に2つの陣営が形成された。マーシャル・プランはアメリカの帝国主義の世界的拡張政策の一部であめ。そしてこれに協力した西ヨーロッパ諸国の社会主義者達は裏切り者である。という過激な宣言が採択され、お互いに情報や体験を交換したり、相互の活動を調整するために共産党情報局を設置することが決定されました。そしてコミンフォルムは、単なる情報機関であり、第2次世界大戦中に解放されたコミンテルンのような執行機関ではないと主張しましたが、西側陣営は、これをコミンテルンと同じ国際共産主義活動の本拠であると断じて、警戒の度をいっそう強めました。そして、コミンフォルムは1956年4月に解散されましたが、それまでに世界各国の共産党に対して指導的な役割を果たし、冷戦初期の段階できわめて主要な働きをしました。

ガットとは貿易と関税に関する一般協定のことで、1947年10月30日、ジュネーブの会議で調印されました。1930年代の世界恐慌という過ちを二度と起こすまいと、国連の下部機構として、プレトン・ウッズ体制を補完する国際貿易機構として誕生しました。ジュネーブに本部を置き、加盟国は現在96カ国、ガットルール適用国は31カ国となっています。日本は1955年に加盟し59年以降理事国を務めています。ガットの目的は自由、無差別の原則のもとで、関税や輸出入制限など貿易上の障害を軽減、撤廃して世界貿易及び雇用の拡大を図ることです。毎年1回、全加盟国が集まる総会のほか、毎年数回、主要国が集まる理事会と重要問題が生じた場合、各国の貿易担当相が参加する閣僚会議があります。1959年以来続けられて来たケネディ・ラウンド及び東京ラウンドによる関税一括引き下げ交渉に続いて、新ラウンドが始まろうとしています。その中心的な課題はセーフガード緊急輸入制限新協定の交渉ですが、保護主義的傾向が強いため、発展途上国の反発が強くなってきています。

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