ヨーロッパ統合

20世紀に入ってから2回も起った世界大戦のために、第2次大戦後のヨーロッパは18、19世紀における世界の支配者的な地位から一挙に滑り落ちることとなりました。このヨーロッパの落ち日を食い止めるためには、ヨーロッパ諸国が一致団結して一つの統合された経済圏を確立する以外にはないということは誰の目にも明らかでした。ヨーロッパ統合案を最初に打ち出したのはオーストリアのグーデンホーフェ・カレルギーで、彼はすでに1922年という早い時期からヨーロッパ合衆国の結束を促す汎ヨーロッパ構想を提言していました。そして、これを強力に支持したのがフランスの外務大臣ブリアンであり、1929年9月の国際連盟第10回総会にヨーロッパ統一案を提出しました。しかし、各国の微妙な思惑の違いがあったため、ブリアン構想はあえなく消え去り、代って登場したファシズム国家同士のベルリン、ローマ枢軸により、ヨーロッパは一挙に第2次世界大戦へとなだれ込んでいきました。そして、この戦争の結果、第2次大戦まではまだかろうじて世界の工場、世界の銀行の地位を保っていたヨーロッパもついにその座をアメリカに譲こととなってしまいました。自由主義諸国の工業生産高の中に占めるアメリカの比率は、1938年には48%でしたが1949年には60%に跳ね上がり、アメリカの優位は決定的になっていきました。そこで、1946年9月、イギリスの前首相チャーチルがチューリヒ大学の演説でヨーロッパ連合を作ろうと呼び掛け、これをきっかけとして2年後の1948年3月17日にはついにブラッセルでイギリス、フランス、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクの5カ国による西欧連合条約が調印されました。しかし、その前後からアメリカの強力な指導のもとにマーシャルプラン、NATOが実施されたため、一時期ヨーロッパ独自の統合計画は頓挫の状態にありました。

自主的なヨーロッパ統合の計画が浮かび上がってきたのは1950年代に入ってきてからで、まず1952年にシューマンプランと、戦後間もなく生まれたベネルクス関税同盟という2つの経験を基礎にしたEECという機構が作られました。これは、OEEC16カ国の中のフランス、イギリス、西ドイツ、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクの6カ国が話し合って作られたもので、イギリスは参加しませんでした。そして、1958年11月末を持って、ECCヨーロッパ共同市場とイギリスの話し合いは打切られ、同時にイギリス、ノルウェー、デンマーク、スウェーデン、スイス、オーストリア、ポルトガルの7カ国がストックホルムに集まり、EFTAヨーロッパ自由貿易連合という別組織を作る条約に調印、翌1960年の5月に発足しました。しかし、EFTAに比べEECの経済発展のほうがはるかにめざましかった上に、アメリカのケネディ大統領がヨーロッパ団結という立場から、イギリスに対してEECへの加入を強く説得したため、マクミラン首相もついに決断を下し、1961年7月31日にEEC加盟についての交渉に入ることを正式に発表しました。そして、イギリスもEECに加盟し、ここにヨーロッパ統合の新しい一歩が踏み出されました。統合の動きは1980年代に加速し、1991年12月11日の首脳会議で、ローマ条約を改正したマーストリヒト条約が合意、さらに翌92年2月7日の調印を経て、93年11月1日に発効むし、99年1月を目標にヨーロッパ連合(EC)として、経済、通貨統合、共通外交、安全保障政策なども統一した考えでいこうとしています。

アメリカが宇宙開発でソ連に遅れをとった大きな要因は、ヴァンガード人工衛星を世界に先駆けて打ち上げると予告しておきながら、軍用ミサイルの開発の遅れに気をとられ、人工衛星を後回しにしたからだと言われます。しかし、ソ連の相次ぐスプートニク衛星の成功にアメリカ世論は激昂し、陸軍が開発していたエクスプローラ1号を打ち上げることになりました。そして、1958年1月31日にようやくアメリカとしては最初の人工衛星の打ち上げに成功しましたが、ソ連よりも3ヶ月も遅れをとったうえに、重さも14kgと、ソ連の83.6kgに及ばないものでした。人工衛星の運搬手段であるロケットの推進力が桁外れに違っていたのです。そして、ソ連は翌1959年には、早くも月を狙って3つのロケットを発射し、アメリカをさらに圧倒しました。つまり、1959年1月2日に発射した第1号は、月の周辺5000から6000kmをかすめて、人類史上最初の人口惑星といわれるメチタとなりました。また、9月12日に発射された第2号は、ついに月面に命中し、10月4日発射の第3号も、月の裏側をまわって、これも人類史上初の月の裏側の写真を70%まで撮影することに成功し、その模様は直ちに地球に電送され世界中を驚かせました。アメリカが初めて人工惑星の打ち上げに成功したのはソ連のメチタから遅れること2ヶ月後の1959年3月3日のことで、パイオニア4号と名付けられました。

昭和33年3月9日、関門国道トンネルが開通しました。延長3461m、対向2車線の自動車道路と下段が人道からなる2階建2式構造。ルートは関門鉄道トンネルの北東約5kmにあります。関門鉄道トンネルは関門海峡をくぐって本州側の下関と九州側の門司両駅を結ぶ日本最初の海底鉄道トンネルで、全長は下り3614m。昭和11年9月起工、下り線は昭和17年6月、上り線は昭和19年9月に開通。戦時中の重要物資輸送のため工事が急がれ、これによって、それまで船舶に頼っていた九州炭輸送が陸送に切り替えられるとともに、浮いた船舶は軍用にふり向けられました。同じ主旨のもと、関門国道トンネルも昭和12年に着工しましたが、戦時中断され昭和27年再開、昭和33年に開通しました。

国家公務員に対する勤務評価は、昭和27年以来、国税、調達、農林などで実施されていましたが、昭和31年末愛媛県に端を発した教職員の勤評問題は全国統一闘争に発展しました。この反対闘争は、総評の支援を得て、文部省と対決するに至り、戦後最大の全国闘争となりました。日教組は9月に評定書提出となるとの情勢分析に基づき、3月8日、全国第3次統一行動、同20日、第4次統一行動を実施し、約26万人が参加しました。日教組が第5次統一行動を行なった翌日の4月23日、東京教委が勤評規則と評価書を決定し、これに対して都教組が日教組結成以来始めて、いっせい休暇を実施しました。これに対して警視庁は、4月26日、公務員法37条争議行為の禁止違反容疑で日教組本部など77ケ所を捜索しました。また5月7日に勤評制定を予定された福岡県でも、4月30日、福岡教組がいっせい休暇を実施し、ここで闘争は緊迫した情勢となりました。そこで日教組は、組織結成以来2度目の非常事態宣言を発し、6月上旬、山形県上ノ山市で第17回定期大会を開きましたが、役員選挙をめぐる混乱から無期休会となりました。再開大会は、7月27日、東京で開かれ、抗争の集点だった書記長に宮之原前副委員長を決定し、評価阻止の闘争方針を確認しました。7月15日、灘尾文相が日教組幹部と会見しましたが、解決の緒は見い出されませんでした。8月6日、日教組中央執行委員会で、9月中旬の正午、授業打入りを最低とする全国統一行動を決定。また8月15日には総評などの支援で、勤評反対民主主義を守る国民大会が和歌山で開かれました。このとき行なわれたデモ行進で、警察官、右翼との紛争が起り、十数人の負傷者が出ました。そして8月23日から行なわれた全国委員長、書記長会議で9月15日に第1次統一行動を実施し、正午授業打ち切り、十割休暇闘争、組織員子弟の登校拒否を行なうことを決めました。一方文相は登校拒否戦術を重視し、学校教育法違反で罰する旨の声明を出しました。この間、首相談話の発表、学長グループの斡旋などが行なわれましたが、いずれも決裂し、9月15日闘争は実施されました。結果は、十数都府県で行なわれた程度でしたが、その波紋は大きく、反対闘争はさらに長期にわたって続けられました。

社学同の機関誌プロレタリア通信の呼び掛けにより、昭和33年の12月10日、共産主義者同盟ブントと名乗る学連新党が誕生しました。「我々は一切の革命的空文句を拒否する。たとえ我々が正しい思想、正しい理論、正しい綱領をもって武装されたとしても、またそれらがいくら多量のビラ、新聞の配布によって支えられようとも、革命理論の物質化する実体が存在せねば全くのナンセンスである。組織は真空の中では成長しない。労働者階級の闘いが生起する課題に最も労働者的に、最も階級的に応えつつ、闘争の先頭にたって闘うことによって、その党は革命的方針を渇望する労働者にこたえることができる」日本共産党の中央とたもとを分けたブントはこのように宣言して、60年安保闘争に向けて進撃していきました。そして、昭和34年6月5日に開かれた全学連の第10回大会でブントは見事に学連の主導権を奪い、北海道大学の唐牛健太郎を委員会に選出しました。当時の全学連には、32年1月に創設された日本トロツキスト連盟の後身である、日本革命的共産主義者同盟や、その主流派として大きな勢力を誇っていました第四インターなども名を連ねていました。しかし、60年安保闘争のヘゲモニーは、完全にブントの手中に落ちたのでした。

昭和33年12月23日、東京タワーが東京芝公園に完成しました。本体257m、アンテナを含めると塔の高さは332.65mで鉄塔の高さでは、それまでの世界一を誇っていたパリのエッフェル塔を抜いて世界一となりました。使われた鋼材は約3600トン、塔の基礎は四脚となっていて、床面積約6600平米、ここに6階建ての近代科学館があります。この塔はテレビの総合電波塔であると同時に、パトカーや消防などの官庁用電波の放送にも使われています。昭和34年の入場者数は520万人で入場料は大人120円でした。東北や九州からの修学旅行には必ず訪れました。昭和34年3月には2600人の団体客が訪れたために、エレベーターでは処理できずに展望台までの563段を案内係をつけて歩いてもらうというエピソードもあったそうです。

南北問題第二次世界大戦後の国際関係は、主として東の社会主義圏と西の自由主義圏の対立という構図の中で推移してきましたが、やがてアジアやアフリカの新興諸国の動きが活発になるにつれて、南の発展途上項と北の先進諸国の対立という新たな問題が浮かび上がってきました。そのきっかけとなったのが、イギリスのロイド銀行の会長で駐米大使を勤めたこともあるオリバー・フランクスがアメリカの国務省を訪ねた時の提言で。1959年の12月に次ぎのように発言しました。
今後、北方工業圏の諸国は、一致協力して南方未開発諸国を援助するために、国際機構を樹立するべきである。
オリバー・フランクスによれば、これからの世界は東西問題ではなく南北問題を軸として回転する。12年前の世界がヨーロッパの復興を軸にして動いていたとすれば、これからは、地球上の北方工業圏と南方の未開発圏の関係の正常化を軸として働いて行く、発展途上国は悪循環にとりつかれている。この悪循環を断ち切る方法は2つあり、一つは独裁であり、もう一つは外資であるが、後者は開発の実行と自由の保持をのもとに可能とする。ということでした。そしてこの新たな提言をもとに設立されたのが、国際開発機構であり、以後南北問題は世界の工業先進国の共通の課題となるに至りました。

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