第一次保守合同

昭和23年3月15日、芦田内閣の発足からわずか5日後に自由党は民主クラブと第一議員クラブ無所属の議員を集めて、所属代議士152人の民主自由党を結成しました。もちろん第一党です。吉田は結党の趣旨を次のように述べています。
われら同憂の同志ここに政見政策を同じくする政党政派の一大結集を計り、以って他面、政治経済をその軌道に上し国家再建の業を遂げんとする所である。
民主党の大部分は芦田支持にとどまり、自由党より脱落する者もあり、自由党が当初めざした保守の大同団結にはほど遠く、それでもそれでも第一次保守合同と呼ばれる保守の部分的結集がまがりなりにも結実したわけです。

1948年4月1日、スターリンはベルリン非共産地域の封鎖を講じました。東ドイツの領内に離島のように浮かんでいた、かつてのドイツの首都ベルリンに通じるすべての道路を封鎖すれば、アメリカ、イギリス、フランスなどの西側諸国がいやおうなしに押し出されるに違いないというもくろみでした。しかし、アメリカ占領軍のルシアス・D・クレー将軍は、ベルリンを失うことは全西欧軍の占めている立場を失うこととなるとトルーマン大統領へ警告しました。そして、これを受けて直ちにアメリカ及びイギリス空軍による大空輸作戦が始まりました。陸上の道路が閉鎖されても、空からの輸送路は封鎖できないという考え方に基づき、輸送機による大がかりな空輸組織が作られ、実に321日という長期間わたってベルリン市民に食糧や燃料、衣類などのあらゆる必要物資を供給し続けたのです。そして、250万トンの物資が投入されたばかりでなく、この都市で生産されたものもどんどん飛行機で運び出され、ベルリン市民は何事もなかったかのようにそのまでの生活を続けました。この西側の決意の前にはスターリンもなすすべを知らず、1949年5月12日ついにベルリン封鎖を解除することとなりました。

1948年5月14日、イスラエル共和国として独立宣言を発したパレスチナのユダヤ人国家は、当初さまざまな苦難の壁にぶち当たりました。なにしろ、三方を敵対国であるアラブ諸国にふさがれてしまっており、国土の南半分を占めるネジェブ地方は全く水のない砂漠地帯であるため、食糧1つ自給できない状況でした。そこでユダヤ人は、北から水を引くためのかんがい工事に全力をあげ、キブツという名の協同組合を作り、ネジェブ砂漠に集団的な移住を行ない、とうとうこれを緑の沃野に変えることに成功しました。しかし、建国当初は、海外から入ってきた移民のためにふくれあがる一方の人口を養う食糧もなく、工業開発を行なうにも必要物資をすべて海外から輸入に頼らざるを得ず、国民は厳しい困窮生活を強いられました。当然、国際支出は大赤字でしたが、アメリカに根を張っていたユダヤ人社会からの援助で乗り切り、1953年からはかつてユダヤ人迫害の根拠地となっていた西ドイツからの賠償支払いも始まり、発展の道をたどっていきました。

パレスチナの支配権を握っていたのはイギリスですが、第一次世界大戦の際のバルフォア宣言によって、イギリスは早くからパレスチナにユダヤ人の国家を作ることを約束していたにもかかわらず、イギリスはアラブ人の戦争協力を確保するために、第一次大戦後パレスチナをアラブ人に与えるという1915年のマクマホン書簡の約束も捨てませんでした。つまり、イギリスはユダヤ人とアラブ人の双方に対してパレスチナを与えるという二重の約束をしており、これがパレスチナ問題の深い要因となっています。そして、第一次世界大戦後はイギリスがパレスチナの委任統合に当たった為に事態は治まりましたが、第二次世界大戦が終わるやいなや、強く独立を求めるシオニズム運動を背景として、イギリス人に対するユダヤ人のテロリズム活動が激化してきました。困ったイギリス政府はアメリカに援助を求めましたが、アメリカの国内事情もあり、トルーマン大統領は逆にユダヤの肩を持ち、パレスチナに毎年10万人のユダヤ人の難民を移住させるよう求める有り様でした。そこで1947年2月にはイギリスは、1948年5月15日限りで、パレスチナの委任統治を辞めたいと国連に訴えました。これを受けて、国連には特別委員会が設けられ、真剣な討議が繰り返されました。そして、1947年11月に、1948年10月までにパレスチナをアラブ人のパレスチナとユダヤ人の国イスラエルに分割して独立させよという結論を打ち出しました。しかし、この決定に対してヨルダンやエジプトなどのアラブ諸国が猛反対し、アラブ解放軍を組織し、武力を行使してもパレスチナをユダヤ人に渡さないという強固な姿勢を示しました。そしてパレスチナ問題をめぐって、ついに両者の間で激しいゲリラ戦が展開されるに至ったのです。ユダヤ人は1948年5月14日の夜にイギリスの委任統治の期限が切れるのを待って、最大都市のテルアビブでイスラエル共和国の建設を宣言しました。これはアラブに対する実質上の宣戦布告でもありました。数時間後にはアラブ連盟もイスラエルに宣戦布告を行ない、ここにアラブとイスラエルの本格的な戦争が始まりました。しかし、パレスチナに入ったアラブ解放軍は弱く、あっという間にイスラエル軍に粉砕され、第一次パレスチナ戦争は1949年の1月をもって休戦状態に入りました。そして、この戦争の結果パレスチナ住んでいたアラブ人が難民となり、アラブ諸国へパレスチナ系のアラブ人の難民が流入しました。一方の建国間もないイスラエルにも、世界各国に散らばったユダヤ人が祖国を求めていっせいに流入し、アラブ人対イスラエル人の対立の構図が決定的なものとなりました。

1948年、ダビッド・ベングリオン初代首相の命令により、建国されたばかりのイスラエルに次ぎのような3部門からなる情報機関が設立されました。
第一部 軍情報部、イスラエル語で情報局を意味するアガフ・モディンという言葉を略してアマンと呼ばれる。
第二部 外国省政治部、イスラエル及びイスラエル人に関する情報を世界的な規模で収集することを主要任務とする。
第三部 治安部、イスラエル語のシュルート・ビタホンを省略したシン・ベトという名で呼ばれる。
しかし、この三部門の間には、海外活動の権限や情報の精度をめぐりたえず内紛が起りました。そのために、もっと一元的な首相直属の情報機関、アメリカCIAのイスラエル版が必要であるということになり、モサドという名称をもった公式機関が創設されました。
1951年9月1日、首相の指令としてテルアビブの各省庁の大臣と、全国の政治指導者らに情報の一元化に関する特別命令が流されました。新しい機関が組織されることになったのです。この機関は外国からあらゆる情報を集め、必要とあらば特殊活動も行ないます。この新組織の名は中央情報特殊機関と呼ばれ、一般には簡単に機関すなわち、モサドとして知られることとなった組織です。そして、その後のモサドは今日に至まで、ソ連のKGBやアメリカのCIAに勝るとも劣らない世界最強の情報機関としてさまざまな活動をしてきました。イスラエルでは他のどの国よりも特殊作戦が重視されてきました。ところが今日に至まで、そのような特殊作戦に対し、どの機関が最終的管轄権持つのか、明らかになったことがありません。モサドは結成された当時、議論されたあげく1つの妥協がなされています。軍情報部がすべての特殊作戦を計画するか、最終決定の前には必ずモサドの了解を得る事と、決められたのです。こうした作戦の実行は、軍情報部が担うこととなったのです。 

昭和23年6月23日、昭和電工社社長、日野原節三が逮捕され、昭和電工汚職事件は政界を巻き込む大掛かりな疑獄に発展しました。日本最大の肥料会社だった昭和電工は、肥料、鉄鋼、軽金属などの5部門15工場を持っていましたが、経済再建のために特別な立方によって設けられた金融復興金庫から、同社再建のため前後3回にわたり合計26億3863万円の復金融資を受けました。このため昭和22年3月、昭和電工社社長、森睦が財界追放となり、当時の日本水素社長だった日野原節三が昭和電工社長に就任しましたが、日野原の社長就任並びに同社の復金融資、昭和22年末の第三次融資をめぐって前例のない大規模な贈収賄が行なわれ、ひとたび国会の問題となるや、もみ消し運動のため贈収賄が行なわれ、さらに日野原社長収容とともに刑務所関係にも贈収賄が行なわれるなど最後まで検察の食い止め工作が行なわれました。警視庁による同社の富山、大町工場のカーバイト横流し事件に端を発し、捜査の進展に従って昭和23年6月13日、日野原社長の逮捕。捜査は東京地検に移され、地検には昭電特捜部が設けられました。捜査の進展に従い、芦田首相をはじめ、政財官の三界にわたって大物が相次いで収容され、時の芦田内閣はついに総辞職し、かっての帝人、明糖、5私鉄疑獄を凌駕する昭和の一大疑獄が明らかになりました。しかしながら、昭和27年の一審判決、33年の控訴審判決、37年の最高裁判決まで、日野原、重政、栗栖が有罪となっただけで起訴された37名のほとんどが無罪となりました。しかも有罪を受けた者も全員が執行猶予つきで、この事件は芦田内閣を崩壊させただけのものとなりました。

スターリン主義に対して東欧圏の中で最初に批判の矢を放ったのはユーゴスラビアです。東ヨーロッパの衛星諸国はスターリンの独裁政治のため、独立国とは名ばかりの抑圧的な支配のもとに置かれていました。ところがチトーの率いるユーゴスラビアの共産党だけは、かろうじて民族の自立性を求め、独自の共産主義国家の建設をめざしていました。スターリンはこれを反ソ的かつ日和見的であるとして激しく非難し、1948年の6月には、ついにコミンフォルムからユーゴスラビアを除名してしまいました。スターリンの死後、ソ連の実権を握ったフルチショフは、政敵であるモロトフの強硬な反対を押し切って、何とかユーゴスラビアと仲直りしようと図りました。そして、1955年の夏に首都ベオグラードを訪問し、その反礼として翌1956年にはチトーがモスクワを訪問するという雪解けムードが生まれました。しかし、ちょうどそのころ、東欧圏で相次いで起った非スターリン化の動きのため、ユーゴを特別扱いすることは社会主義体制を維持してゆくためにはあまり好ましいことではないという考え方が強まり、せっかくの友好ムードもやや冷たくなりました。そしてその後もユーゴは独自の社会主義政策をとり続け、東欧圏の中でも最も強く中立国的色彩を打ち出しましたが、チトーの死後分裂してしまいました。

朝鮮半島は日本の支配下に置かれていましたが、カイロ宣言によって日本の降伏後、朝鮮を独立させるという基本方針が確定しました。そして1945年の12月16日から28日までモスクワで開かれた米・英・ソ外相会議で、いよいよ本格的に朝鮮をどうするかという具体的な方策が話しあわれ、米ソ合同委員会が設置されました。しかし、この段階で、早くもアメリカとソ連の意見が激しく対立し、統一政府を樹立する話し合いは暗誦に乗り上げてしまいました。そこで、アメリカはソ連と直接交渉する方式をあきらめ、問題を国連の場に持ち込みました。これを受けて国連はソ連の強い反対があったにもかかわらず、あえて押しきり朝鮮委員会を設置しました。そして、民主的な選挙を行なうよう勧告が出されましたが、北朝鮮側はあくまでも委員会への協力を拒みました。そのために1948年8月15日に南朝鮮だけが国連朝鮮委員会の監視のもとに選挙を行なうことを受け入れ、ここに李承晩を初代大統領とする大韓民国が発足し、同年12月には国連総会でもこれを朝鮮の正統政府として承認することを決議しました。一方の北朝鮮もこれと対抗するかのように、1948年9月9日に、ソ連の援助のもとに朝鮮民主主義人民共和国を樹立し、ここに終戦当時に引かれた北緯38度線が一種の国境線のような形で定着してしまいました。

昭和23年9月18日、全国の国立私立大学142校の代表者が東京大学に集まり、3日連続討議の末、全学連を結成しました。しかし、前年の2.1ゼネストでマッカーサー司令部から大弾圧を受けたばかりの日本共産党は、大学法案阻止などをスローガンにかかげて無期限ストなどで闘おうとする全学連に対して、しきりにブレーキをかけました。日本共産党の青年学生対策部は、このような情勢の中で全学連がゼネストや無期限ストのような戦術で闘うことは、弾圧を受けて多くの犠牲を出し、学生運動が破壊される危険がありる。それよりも、学生の身の回りの要求をとりあげる地道な活動によって力を蓄え、党内外の民主勢力との統一闘争をつとめることに努力すべきだ。
しかし、それから4年後の昭和27年になると、サンフランシスコ平和条約締結直後の政治情勢のなかで、日本共産党は早くも戦術を大幅に変え、国家権力を一挙に奪取するために、激しい軍事路線を打ち出しました。しかし、それもつかの間、翌28年3月のスターリンの死をきっかけに、日本共産党は再び軍事路線を否定しはじめ、昭和30年7月、六全協を開催して、党内からあらゆる極左冒険主義を締め出してしまいました。若者達の失望は大きく、党中央と学生党員グループの対立は次第に激しくなり、昭和33年6月1日、全学連は遂に第11回大会の議決として次のような共産党批判を発表しました。
六全協後、党中央は学生運動に対して、指導をまったく放棄してきた。のみならず、学生運動の発展を妨害する役割すらはたしてきた。こうした学生運動に対する誤った指導は学生運動のみならず、労働運動、平和運動に対する誤った指導となってあらわれている。日本革命運動と日本共産党の真の党建設をすすめるうえで、現在の党中央委員会はあまりにも無能力である。
当然共産党中央はこのようなはねあがりの学生達に対して強烈な報復攻撃を加えました。6.1議決の翌日、はやばやと常任幹部会、書記局、統制委員会の合同会議を開いた彼らは、次ぎのような幹部会決定を発表しました。
事態は明らかに一部少数の反党的挑発分子の計画的煽動によってひきおこされたものであり、このような行為は明白に党規則に違反し、党の組織原則を無視した絶対に容認できないものである。
そして党中央は、この幹部会決定をテコにして、7月17日から、全学連グループに対する除名処分を開始し、12月までの6ヶ月たらずのうちに72名という大量処分を行ないました。しかし、学生党員グループも党中央の一方的報復攻撃に負けてばかりはおらず、除名処分が始まった直後の昭和33年8月、いちはやく社学同合同フラクを結成し、党中央に対する反撃に打って出ました。そして警職法反対闘争のために、全国62ケ所数十万人の学生を結集し、戦後最大規模のストライキ・デモを敢行しました。それにより警職法案は流産の憂き目となってしまいました。

    copyrght(c).SINCE.all rights reserved