価格体系

昭和48年1年間に石油価格は4.5倍になり、卸売物価は前年比15.9%上昇、消費者物価11.7%上昇と大幅な物価の上昇が見られました。昭和49年に入っても卸売り物価は31.3%、消費者物価24.5%と物価は一層の高騰を示しました。石油価格の大幅な上昇はエネルギーコストの上昇を通じてさまざまな商品、サービスの価格に転換されていきました。石油危機以前の安価なエネルギー価格を基礎にして成立していた価格体系は、エネルギー高価格に対応した新しい価格体系へと移行する必要がありました。日本は自由経済体制をとっているため、市場の需要と供給によって物価も決定されますが、狂乱物価時代には政府の指導によってエネルギーや公共料金などの価格が凍結されていました。そうした価格もいつまでも凍結させておくわけにもいかず、情勢に合わせて段々と価格を上昇させるなどの新価格体系への移行が進められていきました。政府は石油危機後、石油需要適正化法により石油製品元売り価格を抑制したほか、国民生活安定緊急措置法によってLPG、灯油、ちり紙、トイレットペーパーの4品目の標準価格を定めていました。そして昭和49年3月には鋼材、塩ビ等の品目に対する値上げの事前承認の採用、百貨店、スーパーなどに対する値上げ抑制の要請などを行ないました。昭和49年中は、総需要抑制策が堅持されましたが、個別物資対策が長期間継続されると、プライスメカニズムの有効性を損ね、長期的には、かえって市場混乱要因となる可能性もでてきました。そのため需給が緩和し、指定を解除しても価格の上昇の恐れがなくなった物については、個別的な価格対策を取り外し新価格体系への移行を目指していきました。昭和49年3月には、石油製品の元売り価格の値上げを認めました。5月にはちり紙、トイレットペーパー、6月には灯油の各標準価格の指定を解除しました。9月には買い占め等防止法による24品目の指定物資のうち、製材、絹糸、生糸などの10品目の指定が解除されました。公共料金についても事業の収支悪化が著しく、抑制が困難なものは料金等の改定が認められました。物価は昭和50年春には安定化し、昭和50年中には、特に卸売り物価は前年3.0%の上昇と沈静化しました。このために、個別物資の指定等の強制的な手段による価格統制は、全品目について解除され、新価格への移行がなされました。

経済大国となった国は間違い無く軍事大国となり、世界に覇権を唱えたものでした。しかし、吉田茂に端を発する経済中心外交は、経済力に見合った軍事力の整備をかたくなに拒否し続けてきました。昭和39年に始まった佐藤時代に日本は第2次世界大戦時代の同盟国であった西ドイツをGNPで追い抜いて、自由世界第2位の確固たる地位を築きました。しかし、日本は相変わらず自国の安全をアメリカに委ね、自らは自衛隊の整備を最小限にとどめる努力を重ねました。まやかしといった批判はあっても非核3原則という世界に類を見ない原則を打ち立て、自らの手足を縛るなどの、やや自虐的な政策をとってきました。佐藤は吉田学校の優等生として、師の教えを忠実に守ったといえます。在任中は何かと批判されることが多く、国民的な人気にも乏しい佐藤でしたが、佐藤後の自民党政権が浮き足立ちドタバタ間が否めなかったことを考えると、佐藤のリーダーとしての非凡さが明らかとなってきます。日本人は見落としていましたが、こうした佐藤の長所を世界はよく見ていたというべきかもしれません。奇跡の復興によって培われた圧倒的な経済力は、使い方を一歩間違えると世界の波乱要因となることは必至でした。その力を平和目的に向けたことは間違い無く佐藤の功績でした。ベトナム戦争を支援した、中国を敵視したとして、この受賞に疑問を投げ掛けた左翼・進歩派陣営の批判は、世界における経済的地位の大きさを無視した的外れのものでした。よりにもよって軍国主義者呼ばわりされた佐藤前首相の平和賞受賞は、平和の意味を改めて考えさせられました。日本人の考える平和と他の多くの国々が考える平和の意味の違いであって、誰もがこの受賞を意外という感想をもらしていました。日本人にとっては政治家の平和賞受賞などは考えられないことでした。とりわり左翼の衝撃は大きかったようです。昭和50年6月3日、佐藤は急死してしまいました。公権力の行使を委ねられた者は、そのときどきにどういった考えのもとに決断をしたかを後日明らかとすべき義務があるという考えを持っていた佐藤は、回顧録を書くべき準備を進めていたそうですがかないませんでした。

1974年12月22日、ニューヨーク・タイムズ紙が次ぎのようなスクープ記事を発表したのをきっかけとしてアメリカ国民の間にCIAの違法活動を糾弾する声ががぜん高まってきました。CIAは1947年の中央情報局設置法によって、国内の諜報活動を禁止されているにもかかわらず、さまざまなスパイ活動を行なって来ました。これまでに判明した事実だけでも、CIAはアメリカ国内のベトナム反戦派らの反政府の人々1万人以上に対して、電話の盗聴、手紙の検閲、家宅への不法侵入などの大規模な違法の国内諜報作戦を続けてきました。これはケネディ、ジョンソン政権当時も小規模に行なわれて、現にジョンソン夫人相手にベトナム反戦をぶった黒人女性歌手アーサー・キットも対象となりました。しかし本格化してきたのはニクソン政権になってからで、反戦を主張するハト派国会議員までがスパイの対象となりました。これによってアングルトン防諜部長は即刻クビになり、すでにイラン大使として転出していたリチャード・ヘルムズ元長官に対しても、解任要求が出されたりしてCIAは大騒ぎとなりました。これに対しウイリアム・コルビー長官は記者会見で、そのような違法な国内スパイ活動はすべてニクソン政権以前に起ったもので、現在のフォード政権下ではCIAは一切の国内における非合法活動を停止していると発表しました。しかし、このゴルビー報告もすでに新聞や雑誌で暴露された事件だけで、国内活動の非合法性に対する反省はいっさい見られないというので、たちまち非難を浴びてしまいました。そこでフォード大統領は、1975年の新年が明けるやいなや、ロックフェラー副大統領に命じて、CIAの非合法活動を調査するための特別委員会を設置しました。

1975年11月15日にフランスのパリ郊外のランプイエで開かれたランプイエ・サミットを第1回として、毎年1回アメリカ、イギリス、ドイツ、日本、イタリア、カナダ、フランスの7つの参加国の持ち回り主催で首脳会談が行なわれています。カナダが加わったのは1976年に開かれた第2回のプエルトリコ・サミットからでした。また、ECも第3回のロンドン・サミットからオブザーバーとして参加が認められ、1978年に開かれた第4回のボン・サミットから正式メンバーとなりました。1981年に開かれた第7回のオタワ・サミットをもって7ヶ国による主催が一巡したため、1982年の第8回のベルサイユ・サミットから2巡目に入りました。本来は先進資本主義諸国間の政治・経済的な対立や摩擦を解消して共同歩調をとることを目標として発足したもので、経済サミットの別名まで付けられているように、きわめて経済的な色彩の濃い首脳会議でしたが、西側団結の象徴として政治的な意味も次第に強くなって行きました。
G7はグループ・オブ・セブンの省略形で、G5にカナダとイタリアを加えた7ヶ国蔵相会議のことを言います。1975年9月のG5があまりにも大きな影響力を持つようになったために、サミットのメンバーであるカナダとイタリアから、5ヶ国で決めることにクレームがつきました。そのために、1986年5月の東京サミットで新たにアメリカ、イギリス、フランス、西ドイツ、日本、カナダ、イタリアの7ヶ国で構成されたG7が設けられることとなりました。しかし、それとは別にG5各国はいぜんとして5ヶ国だけの会も存続するという考えを持ち続け、1972年のルーブル合意の際にイタリアとカナダを招待しませんでした。そのためにイタリアは同時に開催されたG7をボイコットするとともに、5月に開かれる予定のヴェネチア・サミットの主催国としての義務も放棄しかねない様子を見せ、大きな問題となりました。

1975年1月4日、CIAの違法活動を調査するために、フォード大統領直接の指示によって特別委員会が設置されました。合衆国内部におけるCIA活動に関する調査委員会と名付けられたロックフェラー委員会は、8人のメンバーによって構成されていました。しかし、この委員会はあくまでもアメリカ大統領の権威と合衆国の国益を守るためのものであって、これを通じてCIAの違法活動が公とされるとは誰も思っていませんでした。そこで、大統領府の調査委員会とは別に、上下両院の議会筋の委員会がほとんど同時に発足することとなり、フランク・チャーチ上院議員の率いる、上院CIA調査委員会やルシアン・ネッジ下院議員の率いる下院CIA調査特別委員会などの12の委員会と、それに加えて司法省の調査委員会を含めた合計13の委員会がいっせいに調査に乗り出しました。ところが、下院の調査委員会はフォード大統領の与党である共和党側委員会の非協力的な態度もあって、公聴会が流会したり、ネッジ委員長が不信任案をつきつけられて辞任するなどの発足当時からつまづき続け、国民の期待は民主党リベラル派の総帥フランク・チャーチ委員長の率いる上院調査委員会の上にすべて集まることとなりました。フォード大統領が国益をふりかざして、CIAの違法行為を隠そうとすればするほど、ペンタゴン・ペーパーズ事件やウォーターゲート事件を通じてアメリカの良心に目覚めたアメリカの選挙民の心は、共和党から離れていくにちがいないと考えたチャーチ委員長は、さらに厳しくCIAの外国要人暗殺計画を追及し始めました。そして、ロックフェラー委員会の調査委員もつとめたダグラス・ディロン元財務長官をルムンバ首相暗殺計画の証人として詰問したのを手始めに、元ケネディ大統領補佐官のマクジョージ・バンディ、元国防長官ロバート・マクナマラ、元CIA長官リチャード・ヘルムズ、当時のCIA長官ウィリアム・コルビーなどを、次々と証人台に立たせ、ついにキンシンジャー国務長官までを議会へと呼びつけました。

日本経済は昭和49年にマイナス成長となった後、昭和50年に入っても景気回復は見られませんでした。昭和49年12月9日にスタートした三木内閣は、物価の安定を主要な公約に掲げ、総需要抑制策を維持しました。当時の不況は深刻さを増しており、不況対策を求める声は日増しに強まっていきました。このために政府は昭和50年2月14日の第1次不況対策を皮切りに、4次にわたる不況対策及び4度の公定歩合の引き下げを行ない景気浮上に努めました。昭和50年2月14日の第1次不況対策は中小企業向けの融資の円滑化、住宅金融公庫の融資等10項目から成っていました。その後の1ヶ月後の第2次不況対策が実施されました。内容は1次対策と大きな差もありませんが、公共事業の上期前倒し、地方債の追加発行などの財政面の措置がとられたことは注目されます。政府の総需要抑制政策が景気刺激に転じた一つの現れです。さらに6月には第3次不況対策が決定されました。住宅建設の促進、公害防止投資への融資拡大、公共事業の上期契約率を70%に高める事などを内容とするものでした。こうした3次にわたる不況対策に加えて、日本銀行は昭和48年以来9%という高水準にあった公定歩合を4月に0.5%引き下げ、8.5%としました。さらに6月、8月と公定歩合をそれぞれ0.5%引き下げ、7.5%としました。このような財政金融両面にわたる各種対策もあって、昭和50年半ばには、夏以降の景気は回復に向かうだろうという見る向きも多くありました。実質GNP成長率は、昭和50年1月から3月のマイナス成長を底に回復の兆しを見せ、紘工業生産、稼働率、失業数などの経済指標も上向きに転じ始めました。しかし、産業界などを中心として景気の実態は統計数ほど向上していないという声が強まり、政府は9月になって第4次不況対策を決定しなければなりませんでした。第4次不況対策は昭和50年に公共事業として8000億円追加、住宅金融公庫融資枠に2600億円追加、公害防止投資への融資の追加などからなり、総事業費は2兆円、需要創出効果は約3兆円という意欲的な内容を持っていました。しかし、その実態は、赤字国際の追加発行などの補正予算の成立が必要であり、その成立が遅れた為、昭和50年中に発動される余地は大きくありませんでした。

1973年秋の第1次石油危機をきっかけとして、世界経済は第2次世界大戦後最大の危機に貧していました。繁栄をおう歌していた西側先進諸国も、相次いでインフレと不況の二重苦にあえぐスタグフレーション状態にのめりこんでいました。このような状態を危惧したフランスのジスカールデスタン大統領は、アメリカ、西ドイツ、日本、イギリス、イタリアの5ヶ国の首脳に呼び掛け、自由主義体制を守り抜くために話し合う機会を持とうと提案しました。そして、1975年11月15日から17日までの3日間にわたってランブイエという古城で開かれたのがランブイエ・サミットであり、その席上で同じような会議を毎年1回づつ開くことが決定されました。第1次石油ショック後の深刻な不況を反映して、第1回目のサミットである、ランブイエ会議では、着実かつ持続的な経済成長を達成するために協力する。為替相場の乱高下を防止するために協力する。などの経済問題についての話し合いが行なわれました。その一部は次ぎのようなものでした。
我々がここに集うこととなったのは、共通の信念と責任を分かち合っているからである。我々は個人の自由と社会の進歩に奉仕する開放的で民主的な社会政府に対して、重い責任を負っている。これに成功するためには、地球上のあらゆる民主主義社会を強化することになる。経済の成長と安定は工業世界全体及び開発途上国の繁栄を助長することとなる。世界経済の成長はエネルギー源の増大する供給可能性に明らかに結びついています。我々は経済の成長のために必要なエネルギー源を確保する決意である。共通の利益は、節約と代替えエネルギー源の開発を通じて輸入エネルギーに対する依存度を軽減するために、引き続き協力することを必要としている。

昭和48年の石油危機は、それまで安価で安定的な石油供給の中で経済成長を続けて来た日本にとっては予想もしていない事態でした。一変したエネルギー情勢に対処し、長期的なエネルギー戦略を打ち立てる必要性は重要でした。政府は昭和50年に総合エネルギー対策閣僚会議を設置し、今後10年間に日本が行なうべき方策をまとめた、総合エネルギー政策の基本方針を決定しました。その内容は昭和48年度にエネルギー全体の77%を占めていた輸入石油依存度を昭和60年に63%にまで引き下げる一方で、エネルギーの安定供給確保のために国民に相応の負担を求めるものでした。基本方針として、水力や国内石炭などの国産エネルギーと原子力の活用、石油安定供給確保、省エネルギーの推進、核融合やサンシャイン計画など新エネルギーの研究開発、以上の決定をしました。具体的には原子力発電ではウランの安定的確保、廃棄物処理の技術開発、安全規制の充実、石油については石油関連企業の体質強化、輸入地域や方法の多様化、90日備蓄の推進、その他適正な価格形成と資金調達制度の改善などが目標とされました。こうした決定を受けて昭和50年12月、企業に備蓄を義務づけた石油備蓄法が成立しました。そもそも日本では、経済面の安定保証という考え方は一般的ではありませんでした。この法律制定の背景として日本の石油備蓄のぜい弱さがあるといえます。石油危機勃発時の日本の石油備蓄は60日分しかありませんでした。石油の安定供給にはランニングストックと呼ばれる45日分の在庫が必要なため、取り崩しが可能な実質的な備蓄としては15日分あっただけでした。これが石油危機時には4、5日分までしかなく、円滑な石油供給が脅かされました。石油備蓄法により、昭和51年6月、政府は昭和52年から55年度の石油備蓄目標を策定しました。昭和54年度末に90日分の石油を備蓄する制度が発足し、昭和50年度末に70日分、その後1年ごとに5日分ずつ積み割る計画で、備蓄原油への利子補給、備蓄設備への融資等の政策的措置がとられました。

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