ソ連の雪解け

フルシチョフの登場により、ソ連国内にもようやく温かい陽射しか差し込み、外交関係を含めて雪解けが訪れたかのように思えました。そのきっかけとなったのがフルシチョフによって口火を切られたスターリン批判で、まず1956年2月に開かれたスターリンの死後最初の共産党大会で、フルシチョフとそのシンパはスターリンの対外戦略を公然と否定する3つのテーゼを掲げました。

1.戦争はどうしても避けられないものではない。
2.資本主義体制をとる国と平和は共存できる。
3.暴力革命一本槍ではなく、議会その他を通じて平和に革命を成功させることが可能になってくる。

特にフルシチョフの最も信頼する協力者だったアナスタス・ミコヤンはスターリンの個人崇拝を厳しく批判し、いわゆる集団指導制を強く主張し、レーニンに帰れと呼び掛けました。またフルシチョフは第20回の党大会で秘密演説を行ない、スターリンの暴虐きわまりない非人道的な犯罪の数々を暴露しました。そして、これをきっかけとして一般国民の中にも雪解けを求める声が沸き起り、中には共産党による一党独裁をやめるべきだと主張する知識人も表れました。そして、ソ連国内ばかりでなく、東ヨーロッパの衛星諸国にも雪解けの嵐は急速に広がり、ポーランドなどでは政変が起り、それまでは鉄の支配を行なってきたスターリン主義者達が一掃されました。しかし、ハンガリーにまで革命が起るに至って、さすがにフルシチョフも雪解けの行き過ぎ対する警戒心を抱くに至り、知識人を先頭とする自由を求める運動に弾圧を加えるようになってきました。一方のクレムリンの内部でも激しい権力闘争が表面化し始め、フルシチョフも権力の座から追われるのではないかとという状態になりました。しかしフルシチョフは1957年6月に最大ライバルであったマレンコフ・カガノヴィッチ、モロトフらに反党グループの烙印を押して追放、ついに独走態勢を整えました。

1956年2月14日に開催されたソ連の第20回党大会で突如スターリン批判が公然と行なわれたので、それまでスターリン主義一辺倒の権力支配を行なってきた東ヨーロッパの衛星諸国は大混乱に陥りました。特にスターリン主義的な権威支配のひどかったポーランドとハンガリーは知識人達が一斉に立ち上がり、自由化を求める激しい市民運動が盛り上がってきました。1956年6月28日に起ったポーランドのボズナニ暴動はその典型的なもので、30日間も続きました。ボズナニ市はポーランド西部、バルタ川に臨む工業都市です。10世紀に創建され司教座がおかれるなど、ポーランド文化の一中心地をなした伝統ある都市です。ここで工場労働者の反乱が起ったのです。重工業優先政策による労働の強化と消費物資の不足が、スターリン批判をきっかけに爆発しました。それをきっかけとしてポーランド共産党の指導部内の反スターリン主義派が立ち上がり、1956年10月19日には党中央委員会総会を開き、スターリン主義指導者たちのために追放されたゴムルカを第一書記に復活させ、指導部からスターリン主義者を一掃する計画を進めました。そして、これに対抗するためスターリン主義者たちも軍事クーデターの準備を進めたため、10月19日の党中央委員会総会は、まさしく両派の決戦場と化す形成となってきました。しかも、開会当日にソ連からフルシチョフ、ミコヤン、モロトフ、カガノヴィッチの4巨頭が突然ポーランドを訪れ、反スターリン派は好機とばかりに直接4巨頭と会見して、ポーランドの指導部からスターリン主義派を一掃することがポーランドの社会主義体制を救うただ一つの活路であると直訴しました。その結果、フルシチョフは彼らの主張を全面的に受け入れる決意を固め、ポーランドの指導部からスターリン主義派を一掃してしまいました。これにより一発即発の危機をポーランドの政治情勢は暴動と内乱を回避することができました。

昭和31年度の経済白書は、もはや戦後ではないと宣言して、日本の復興ぶりを次ぎのように自画自賛しています。
戦後10年、日本経済は目覚ましい復興を遂げた。戦後直後のあの荒廃した焼土に立って、生産規模や国民生活がわずか10年にしてここまで回復すると予想したものは、おそらく一人もあるまい。国民所得は戦前の5割増しの水準に達し、一人あたりにしても戦前の最高記録昭和14年の水準を超えた。工業生産も戦前の2倍にも達し、軍需も含めて戦時下の水準をはるかに上回っている。
しかし、戦後ゼロから再出発した日本経済が、そんなに奇跡のように、一挙に回復飛躍するわけもなく、1955年体制の入口で日本経済は体勢挽回のきっかけをつかみ、それから約5年間かけて、1960年代の入口までに日本の奇跡を現実にしたといえます。黄金の60年代に突入するまでに、日本経済はなおも数回にもわたる山谷を超えながら奮闘していったのです。

昭和31年7月29日、イギリスの植民地南米ドミニカへ日本人の最初の移民団が出発しました。敗戦に伴い急激に増える人口に危機感をいだいた日本政府は移民策を打ち出します。そしてドミニカ移民を募集しました。応募したのは延べ249家族1319人。カリブの楽園をキャッチフレーズに人々は希望を抱いて地球の裏側に渡りました。しかし、移民の条件だった肥沃な広大な土地の無償譲渡などなく、与えられたのは移住した家族すら食うことができない小さな土地。しかも農地ではなく荒れ地。移住者は帰国することもできずに辛酸をなめました。日本政府に騙されたとして平成12年7月18日、移住者は日本国政府を相手にして東京地裁へ提訴。政府が移民に際して提示した条件は1世帯あたり300タレアの土地の無償譲渡、入植予定地は中程度の肥沃度でしたが、与えられた土地の広さはその3分の1以下で石や塩の不毛の荒れ地。しかも所有権はなく耕作権だけ。囚人が送り込まれているために役人に24時間監視されるという有り様。掘っても掘っても石ころだらけ。地表を塩が覆っているとんでもない場所もありました。将来を悲観し10人が自殺します。移住者が怒るのは日本政府が移植予定地がとんでもない所だということを知っていたのではないかということでした。昭和30年11月、応募開始の3ヶ月前、日本政府はドミニカ政府に入植地は水が不足しており、灌漑施設の充実を要求します。しかし、ドミニカ政府から期待した反応はありませんでした。逆に灌漑施設の整備は不可能で日本人の移民の受け入れを延期すべきとの声が出る始末でした。すでに移民計画を大々的に打ち出している日本政府は後に引けず、無謀な決断をします。外務省は乾燥地ではあるが、日本人移民にとって栽培は容易に可能と表明します。そのうえ、土地の譲渡についてはドミニカ政府が示したのは最大で300タレアというもので、一律300タレアと要項に記されていることとは大きな差でした。そのうえ所有権がないことは日本側の資料にも明記されていました。外務省は完全に移民者を騙したわけです。
日本政府は余剰人口を減らしたいという意向がありました。これに対して、ドミニカは隣国ハイチとの間で国境紛争があり、ハイチの侵入に悩まされており、その盾として移民を使おうと思っていたようです。それがどこまで信憑性があるかは不明です。

昭和36年、ドミニカ政府が混乱すると、さすがに日本政府もあわてました。移民した人に帰国又は他国への転住を打ち出します。この政策によって8割以上の家族がドミニカを去りました。当然費用は政府の負担です。ここで残留者は47家族276人となります。このとき政府は残留者に対して資金提供を約束したといわれますが、結果はなにもしませんでした。平成10年、衆議院外務委員会で本年7年、ドミニカ政府から日本人移住者に750haの土地を無償譲渡する用意があるとの発表があると表明します。この土地は粘土状の赤土で灌漑施設もなく、現地農民は放牧地として使っていたという荒れ地でした。所有権もありませんでした。政府は結果的に移住者に対して3度の嘘をついたのです。我慢の限界に達した移住者達は政府を相手取り31億円の損害賠償を求める訴訟を起こします。裁判での争点は移民が国策か否かという点でした。政府は否定しますが、裁判が進行する中で国策とする証言が次々と出て、とうとう平成16年3月、小泉首相は政府の責任を認めました。しかし、平成18年6月7日、東京地方裁判所判決では国の不法行為は認めたものの、損害賠償請求は消滅したと原告敗訴の判決を言い渡しました。ドミニカ移住は国の政策だったことを認定し、国の賠償責任も認めましたが、不法行為の被害から20年が経過すると賠償請求権が消滅する除斥期間を適用して時効を理由に原告の訴えを退けました。原告は控訴の動きをみせましたが、小泉首相はすばやく移民者への支援策の検討を指示し、それを受けて政府は、原告170人を含む全移住者1319人に対して1人あたり最高200万円の見舞金を支給する和解案を決定します。7月21日、小泉首相は原告団代表に面会し政府として公式に謝罪。政府のこの方針を受け入れて原告団は控訴を取り下げ、同年11月ドミニカ移住者への特別一時金支給法を成立させ戦後最大の移住悲劇といわれたドミニカ移住問題は終結しました。

第二次世界大戦後まもなく起った東西冷戦のあおりを受け、日本は完全講和を結ぶことはできず、アメリカを中心とする西側諸国を中心に講和条約を結ぶこととなりました。戦争末期のドサクサに北方領土に侵攻し、あわよくば北海道を連合軍として占領することをもくろんだソ連にとっては、日本が西側にしっかりと組込まれたことを苦々しくしく思ってました。いつまでも戦争状態にしておくわけにはいかないことは、日本はもちろんのことソ連にとっても同様でした。しかし親アメリカの中心人物である吉田がソ連との関係を打開することは難しかったのです。昭和29年12月10日に内閣を組織した鳩山一郎が日ソ国交回復を内閣の最重要課題にしたのは当然でした。しかし日ソ関係は容易に雪解けを迎えるにはあまりにも難しい問題がありました。その最大のものが北方領土です。ソ連とのいくたびかの交渉の後、日本の領土となっていた千島と樺太の所有権をサンフラシスコ平和条約で放棄したものの、国後、択捉、歯舞、色丹の4島は日本固有の領土であり、北海道が日本の領土と認められているかぎり、北海道に附属しているこの4島は当然日本の領土であるというのが日本の主張であり、理がありました。しかし1956年10月19日に発表された日ソ共同宣言は、日本の要求は歯舞、色丹の両島を平和条約締結時に返還するとうたうに止まり、しかもその後のソ連の最高指導者はこの返還すらも反古にする有様でした。共同宣言の内容は10項目からあり

1.戦争状態の終結
2.外交関係の回復
3.国連憲章の尊重と内政不干渉
4.日本の国連加盟支持
5.抑留日本人の返還と消息不明者の調査
6.賠償など戦争請求権の相互放棄
7.通商航海条約締結交渉の開始
8.日ソ漁業条約と海難救助協定の発効
9.平和条約の締結交渉の継続と同条約締結後の歯舞、色丹両党の日本への返還
10.批准条項の10である。

これにより1956年12月12日、第二次世界大戦後、11年間続いた日本とソ連の戦争状態は終了しました。サンフランシスコ平和条約に調印しなかった共産圏諸国との国交に窓が開かれると同時に、日本はソ連の支持を得て国連に加盟し、国際社会に復帰することが可能となったのです。これだけでも共同宣言の意義はあり、鳩山はその責務を十分に果たしたといえます。なぜ平和条約の締結ではなく、共同宣言になったかというと、それは領土問題でした。日本側が国後、択捉までの返還を要求したことに対し、ソ連側が拒否し問題の決着がつきませんでした。

ポーランドはゴルムカを中心とする反スターリン主義派の勢力が強かったために、何とか流血の惨事を回避することができました。しかし、ハンガリーの場合は事情がまったく違っており、激しいスターリン批判の嵐の中でもスターリン主義者達はポーズだけの自由化で事態の収拾を図ろうとしました。そのため、知識人を先頭とする一般国民の反発をかえってあおりたてる結果となり、ポーランドの政変のニュースが伝わるとともに、非スターリン化を求める動きが活発となり、1956年10月23日の夜には首都ブタペストでついに大規模な暴動が起りました。これに対して、ハンガリーのスターリン主義指導部はソ連軍にデモの鎮静を求め、翌24日には、ソ連軍と市民とが武力衝突する事態が生じました。そして、ブタペストのこの解放革命はあっという間にハンガリー全土に広がり、ナジ首相がハンガリーの中立化を宣言するに至り、11月4日、ソ連もやむなく20個師団もの大軍を投入し、徹底的に弾圧しました。一瞬のうちに、ブタペストの街頭は市民の血で染まり、人々はあらためてソ連の本質を思い知らされました。雪解けの口火を切ったフルシチョフといえども、社会主義体制を脅かすものに対しては容赦なく鉄の鞭を振るったのです。

昭和31年11月8日、国際地球観測年計画に参加する日本の南極観測隊が、海上保安庁の宗谷で東京晴海桟橋を出発しました。この観測隊は予備観測隊で、その目的は南極の本観測を実施する基地を選定して、できれば越冬を行ない、本観測の遂行を容易ならしめることが第一。次ぎに船上で気象、電離層、宇宙線、極光、夜光などの観測を行ない。資料の少ない観測データを豊富ならしめることにありました。このため観測隊は出発後、気象、電離層、宇宙線、夜光、極光、地磁気のAグループと、測地、地下探査、海象、地理、地質等のGグループに分け、船上あるいは停船時の氷上、オングル島などで観測を実施しました。全航程4万4000km、前人未到のリュツオホルム湾深く入り、オングル島に上陸、昭和基地を建設して西堀越冬隊長以下11名の越冬隊を残し、予想外の成功をおさめ、昭和32年4月24日、168日ぶりで、日本の出桟橋に帰りました。尚、東京水産大学練習船海鷹丸も随伴船の役割を果たして、宗谷と同じ日に無事帰港しました。

昭和31年12月23日、鳩山一郎の後を受けて石橋湛山が内閣を組織したのは、石橋が72歳の時でした。鳩山退陣後の自民党総裁選挙は昭和31年12月14日、岸信介、石井光次郎、そして石橋の3名でした。第一回の投票では、岸223票、石橋151票、石井137票でした。しかし、石橋と石井の2、3位連合の決戦投票で7票差で石橋が勝ちました。岸には河野一郎がつき、石井には池田勇人、そして石橋の影の参謀は石田博英でした。外相岸信介、蔵相池田勇人、法相中村梅吉を擁したこの内閣は1000億減税、日中貿易の拡大などを打ち出しましたが、翌年の1月に石橋自身が肺炎で倒れ、予算案の審議に出席できないことが明らかとなり、2月23日に総辞職するに至りました。辞任の意志を固めた時に、石橋は石井の手を握り、何事も運命だよと言って目を閉じたそうです。吉田の対米、鳩山の対ソ、そして石橋は対中とくるはずでした。石橋は中国のナショナリズムを理解したただ一人の日本人といっても過言ではなく、中国問題に当たる人として、石橋以上の人物は考えられませんでした。その後の岸内閣が中国への態度を硬化させたことを考えると、日本の中国政策もっと違ったものになっていたかもしれません。

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