40年不況

昭和40年の景気の落ち込みは極めて厳しいものでした。山陽特殊鋼やサンウェーブなどの1部上場企業が倒産しました。5月には山一証券の経営危機が表面化し、不況のピークがやってきました。経済の変調は昭和39年の後半から起っていました。それには幾つかの要因があり、昭和39年10月の東京オリンピック開催に伴う大規模投資や消費の効果がなくなったことです。次に中長期的な要因で、高成長を実現しつつある日本経済の需要と供給の不一致によるものです。昭和35、36年の好景気の後、37年には反動があり、37年度の成長率は5.7%と低かったのですが、38年度には12.8%と高い成長に戻りました。これは池田内閣が公共投資を増やし、不況の進行を押し止める政策をとったことや、39年のオリンピックを前に、新しい需要が盛り上がったことも影響しています。この頃の企業は、銀行からの借入金によって設備投資を行なうようになっており、借金依存度は高くなっていました。そこで成長率が低下し、売り上げが落ちてくると、企業の負担は大きくなりました。さらに投資の結果である供給力の増加に需要がついていきませんでした。そして、経済政策が不適切だったことが指摘ではます。財政当局は、景気停滞のために税収不足が予想されたため、昭和40年1月より財政支出の1割削減を実施していました。金融も引き締めぎみに運営をしていました。こうした政策は、ケインズ的な景気調整政策と全く逆の方向だといえます。景気調整政策がまだ経済政策として正確に認識されていなかったからだと思われます。佐藤内閣は昭和40年6月内閣改造を行ないましたが、これとともに経済政策は急転しました。公共事業や財政投資融資支出の促進が行なわれ、7月には財政支出の1割削減も解除されました。補正予算では税収減少を補充する国債が発行されることとなり、金融面では7月より日銀の窓口規制が緩和されました。こうした経済政策の転換により、景気は急激な立ち直りを見せました。特に目立ったのが輸出の増加であり、昭和40年度には金額ベースで19%の伸びとなりました。非製造業の設備投資の伸びも大きく、運輸、通信、電力などが増加して16%増となりました。一方の製造業では7%減となりました。株価は上昇して市場は回復し、生産出荷も増加しました。こうして昭和40年10月を底に景気は上昇局面に転じ、昭和45年6月に至る好景気に入りました。これがいざなぎ景気です。

昭和40年度正負予算は一般会計で3兆6581億円と収支均衡予算でした。政府は収支均衡を維持するために、40年1月より財政支出の1割削減を実施していました。しかし、40年不況という景気の落ち込みの中で、法人税などの税収減、公務員給与引き上げなどによる歳出増が見られ、赤字が予想されました。40年不況は厳しく、これまでのように民間設備投資や個人消費の伸びをもとにした自立的な回復に頼っては、浮上は望まれないと思われました。また、財政支出の削減は景気にマイナス影響を与えるものでした。政府は歳出の大部分を税収で賄うという均衡財政政策に固執していました。しかし、昭和40年6月に内閣改造があり、7月に財政支出の1割削減が解除されたところから流れが変わってきました。政府は7月27日の経済政策会議で国債の発行を含む一連の対策を発表しました。国債の発行はインフレを招くという観点から反対も多かったのですが、政府は社会開発推進、大幅減税、景気の調整の観点から国債の発行は必要だとして、市中消化、建設国債を原則とすることなどの歯止めを用意すればインフレの心配は必要無いとしました。しかし、財政法4条では、国の歳出は公債または借入金以外の歳入をもって財源としなければならないと規定されています。国債発行は財政法の建前に合わないので、臨時立法か、特別措置法をとる考えだと説明しました。昭和40年の歳出は年末に国会を通過した第三次補正予算によって、赤字総額が2590億円に達しました。政府はその赤字と同額の国債発行によって埋めることとし、国債発行のための昭和40年度における財政処理の特別措置に関する法律案は、年内に衆議院を通過し、昭和41年1月19日公布施行されました。こうして昭和28年度に例外的な減税国債が発行されてから12年ぶりに、戦後初の赤字国債が発行されることとなました。その後国債は41年度7300億円、42年度8000億円と毎年発行されていきました。昭和40年の国債発行は現在における巨額な累積残高を招く契機となりましたが、不況期に国債を発行して財政支出の拡大、減税による景気刺激というケインズ的な政策を行なったという点では画期的な出来事でした。

1955年にアメリカアラバマ州のモントゴメリーで、白人乗客には理由を問わず席を譲らなければならないというアラバマ州の法律を忘れる程疲れていたために、リンチを受けた上に逮捕された黒人女性のローザパークスに同情して、381日間に及ぶバスのボイコット運動を組織して以来、キング牧師の人種問題に対する姿勢は終始一貫していました。黒人も白人も人間として平等であり、アメリカ市民として白人の社会の中で完全に同化して生活していけるように非暴力的な手段で、根気強く人種問題を訴えて解決していこうというものでした。とかと、メンフィスにおけるキング牧師の死は、かねてより非暴力的な手段による同化という思想を生温く感じ、苛立っていた、より若い世代の黒人達の不満を一挙に爆発させました。我々は人種差別主義社会の黒人なのだ。我々は政治機構や社会制度が人種差別主義に根ざしており、また経済機構が人種差別主義によって養われてきた社会に生きている黒人大衆なのだ。というマルコムXの思想に根ざす戦闘的黒人運動の流れは、すでに1965年の初期のブラックパンサーパーティの結成以来、若い黒人達の間に徐々に浸透しはじめていきました。1965年2月にアラバマ州ロウンデス群で初めてブラックパンサーパーティの前身である、ロウンデス郡自由組織が創設されたときに、学生非暴力調整委員会を代表して現地にかけつけたストークリィ・カーマイケルは次ぎのように述べています。警察の残忍さに抗議するかわりに、保安当局を乗っ取ることを決めたのだ。黒人がこの地方の権力を取得すれば、もはや抗議する必要もなくなる。ブラックパワーの誕生でした。キング牧師の支持者は同じ黒人といっても中流階級の中年以上に属する大人達でした。しかし、彼らの2世にあたる若い世代の黒人達は、始めから都会で生まれ育ち、南部のよりみじめな生活を知らず、もの心ついたときより黒人のスラム街で暮らし、黒人労働者としてしか社会的に受けいられない現実とのギャップに不満と苛立ちを覚えてきた世代が、ブラックパンサーの流れに急速に吸収されていきました。1968年4月4日のマーチン・ルーサー・キング暗殺事件後の1週間だけでも、黒人暴動による死者は38人にのぼり、負傷者3550人、逮捕者1万5225人を数え、時のジョンソン大統領はハワイで行なわれる予定だった南ベトナム首相との会談をとりやめ、ホワイトハウスからテレビで全国民に対して繰り返しアメリカ合衆国の危機を呼び掛けました。しかし、非暴力による同化の限界を知った黒人達の、特に若い世代の黒人達の暴動はおさえることができないほど過激化していきました。

昭和40年2月10日、社会党衆議院議員岡田春夫は、衆議院予算委員会で、自衛隊統合幕僚会議の昭和38年度統合防衛図上研究、三矢研究の存在を暴露しました。内部限りの極秘研究を何者かが野党第1党の有力代議士に渡し問題にしたのです。この研究は朝鮮半島で再び北朝鮮が38度線を越えて侵攻したときに、半島有事の際に自衛隊、アメリカ軍、そして何よりも日本政府がどう動くべきかについてシュミレーションを行なったものです。これによると、第1動での朝鮮半島での情勢緊迫から第7動の日本へのソ連の武力侵攻までの各段階での軍事的、政治的、国際法的、国内法的な問題点を具体的に検討しています。自衛隊の行動だけでなく、有事立法についても言及しています。国家総動員対策を最初に掲げ、それだけでも大騒ぎになるのは明確なのですが、非常時の場合は超法規措置もうたっています。たとえば、70件から80件の有事立法を委員会省略即座に本会議に上程する等国民の防衛意識を背景にしてとか、軍事法廷と思われるようなものの設置までをうたっていたために、社会党は実施的な自衛隊のクーデター計画として追求したのでした。当時の佐藤栄作首相は驚き、そして怒りましたが、それは機密が漏れたことに対する憤りであり、有事を研究することをけしからんとしたわけではありませんでした。佐藤は自衛隊が軍事侵攻を受けた時の研究をするのは当然と、当たり前の見解を示し、問題を防衛庁の機密文書管理の不備についての責任を問うたのでした。しかし、新聞等のマスコミがあまりにもセンセーショナルに報じたことで、その後の与党はこの騒ぎに懲りて、以後真面目な有事議論研究の道を閉ざしてしまいます。それは昭和52年の福田内閣にまで続き、本格的な有事法政の成立は、昭和15年6月まで待たなければなりませんでした。

1961年より始まったベトナム戦争は、1965年2月のアメリカによる北ベトナム爆撃強化により、急速にエスカレートしていきました。その年の4月24日、草の実会や声なき声などの市民グループの呼び掛けにより、約1500人がベトナムに平和ををスローガンに、デモ行進を行ないました。ベ平連はベトナムに平和を、ベトナムはベトナム人の手に、日本政府はベトナム戦争に協力するなという3つのスローガンを掲げ、月1回の定例デモや討論会などを行なって各地に同様の輪を広げて行きましたが、約2万人の募金、約250万円でニューヨークタイムズ誌に反戦広告を出したり、アメリカの反戦運動家を招いて日米市民会議を開くなどの、これまでの左翼反戦運動のスタイルには見られないユニークな活動で多くの関心を集めました。特にベ平連が注目を集めたのは、1967年10月に横須賀に寄港していたアメリカ空母イントレピッド号から4人のアメリカ水兵の脱走を手助けしたことでした。ジャテックと呼ばれた組織によるこの脱走兵への手助けは、ベ平連が単にアピールの組織ではなく、それを実践する組織だということを印象づけました。しかもこのベ平連は、それまでの反戦運動のように、既成の左翼組織などと結びつきがなく、執行部組織や政治的綱領、会員名簿もなく、ただベ平連の集会やデモに参加するものがベ平連の集会やデモに参加するものがベ平連という。ベ平連を名乗り、あるいはベ平連とつながりを持つ市民グループは、1968年から1969年にかけて、全国で250を数えるまでになりました。しかし、その後は1973年1月27日にベトナム和平協定が成立し、その後の1年後の1974年1月27日、ベ平連は東京都内で最後のデモを行なって解散し、8年の運動に幕を下ろしました。

証券業界は昭和40年不況以前より余剰株式を抱えており、ダウ平均株価は昭和36年7月の1829円をピークに昭和38年以降さえない動きを続けていました。そのために、39年、40年と余剰株式棚上げ機関を発足させ、株式の需要の正当化に勤めていました。こうした矢先、昭和40年5月21日、報道協定の枠外にいた西日本新聞紙上に山一証券問題がスクープされました。同社の経営が行き詰まり、富士、三菱、日本興業銀行による再建計画に基づき店鋪、人員の整理を行なうというものでした。山一証券の再建問題は5月の新聞報道以前にも噂に上っていました。山一証券は昭和35年の岩戸景気のころより、第2部市場や新規上場銘柄などの株式を多く引き受け、資本調達に力を入れていました。しかし、その後そうした銘柄は値下がりし、第2部市場の商いは減少しました。そのために、山一証券は手数料収入よりも自己売買に重点を置き、投機的な経営体制に望みました。昭和40年当時、借入金は700億円に達し、金利負担は年間80億円、累積赤字は100億円以上でした。山一証券の騒動に対して、政府及び日本銀行は、5月28日、日銀は山一証券に対して、日銀法25条を発動し、無制限無担保の融資をすることを決定しました。この時の大蔵大臣は田中角栄、日銀総裁は宇佐美洵でした。この特融については日銀側は消極的でしたが、もし行なわれなければ大パニックに陥るところでした。これを回避したのは田中大蔵大臣の決断と実行でした。田中はこれを機に金融界に絶大な影響力をもつこととなります。日銀法25条は、日本銀行は主務大臣の許可を受け信用制度の保有育成の為必要な業務を行なうことを得、という規則です。日本銀行の特別融資の発動は、昭和6年の金融恐慌以来34年ぶりにとられた異例の措置です。具体的には、日銀は、証券界が必要とする資金について、銀行を通じて特別融資を行なう事、当面山一証券に対する特別融資として、日本興業銀行、三菱銀行、富士銀行の関係3行を通じて行なうこと、特別融資の措置を含めて証券金融については抜本的対策を講じること、などです。株式市場は、日銀の特融発動という異例の措置で持ち直しかけましたが、不況が続いたことから株価は再び下落しました。しかし、7月27日の経済対策会議の後、株価は反発し、7月31日には1100円台の大台を回復しました。そして8月27日には1200円台を突破し、8月に入ってからは連日1億株以上の大商いを記録しました。こうして証券市場は急速な立ち直りを見せ、40年不況から脱却しました。しかし山一は追い風をいいことに根本的な内部改革を怠り、旧体制を続けることとなります。そして平成9年11月24日自主廃業という形になり、平成11年6月1日、山一証券は東京地裁に自己破産を申請。負債超過額は2000億円余。この年の4月末に日銀が実施した特別融資4890億円の一部は焦げ付くことが確定しました。

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