アフリカ統一機構

1963年5月25日、アフリカ統一機構が発足しました。米ソの冷戦でアフリカが両方の草刈場になることを恐れての団結でした。しかし、各国の成り立ちによる対立が絶えませんでした。すなわち、旧宗主国と争いの末に独立を勝ち取った国とほとんど旧宗主国の都合により独立を与えられた国との間には、長年侵略してきたヨーロッパ諸国に対する接し方が根底から違っていました。そして、社会主義との接し方にも落差がありました。自由主義諸国対社会主義諸国という冷戦の構図にアフリカだけが無縁というわけにはいきませんでした。コンゴやガーナの軍事クーデターなよる右寄りの路線にはかなりのアフリカ諸国が危険な匂いを感じながらも、内政不干渉の原則が足枷となり、有効な対策を行なうことができませんでした。その後次々と起る内戦にもこの原則に足を引張られました。米ソ冷戦が熱戦の寸前までいったアフリカの角侵攻やキューバ危機に際しては3つに分裂し、もはや組織の体をなさず完全に死に体になってしまいました。にもかかわらず完全に組織が消滅しなかったのは、人々の国際機関が果たす安全保障への期待でした。それは国際連合と同じで、しばし無力となってしまう国際連合ですら解体という声が起きないのは、こうした国際機関、国際組織が国際平和に果たす役割が小さくないということが誰しも分かっているからです。アフリカ統一機構は1982年8月の西サハラ問題で、その無力さを国際社会にさらしてしまいましたが、90年3月のナミビア独立によりアフリカ大陸から植民地がなくなったり、94年5月には南アフリカで黒人のマンデラ大統領が就任するなど、発足当時に機構がめざしたことが実現されたことは、アフリカ統一機構の存在があればこそと評価できます。やがて、リビアのカダフィ大佐による99年9月のアフリカ連合の提唱も、アフリカ統一機構の貴重な経験を踏まえてであり、その歴史的意識は決して低くはありません。2000年7月9日、アフリカ連合の発足とともにアフリカ統一機構はその役割を終えました。

1963年5月8日、ユエに駐屯していた南ベトナム政府軍は、折からの釈迦の誕生日を祝っていた仏教徒達に突然発砲し、9人死亡14人負傷しました。カトリック教徒のゴ・ジン・ジェム一派が軍隊に出勤を命じて仏教徒を弾圧しようとしたのです。この事件は全国的な仏教徒の抗議行動を招き、ゴ・ジェム政権に対する国民の信頼を一挙に失わせました。事態の意外な展開に驚いたアメリカ政府は、フレデリック・E・ノルティング大使に命じてジェム大統領と会談させて、仏教徒の不満を解消し、大衆の信頼を回復するためユエ事件の責任を素直に認め、犠牲者に補償を行ない、南ベトナムにおける信教の自由を再認識するよう厳重に求めました。アメリカ政府がこのようなことを言うのは、明らかに内政干渉の疑いがありました。しかし、もともと独立国家の政府の体をなしていない南ベトナムの政権に対しては、アメリカ側はそれまでも常にそのような態度で接してきました。そして膨大な軍事援助費をもらっている手前、たいていの場合ジェム政権はやすやすとアメリカの指示に従ってきました。しかし、この事件だけは従来のようにはいきませんでした。狂信的なまでのカトリック信者であるゴ・ジン・ヌー夫人は、アメリカ政府の命令を聞くどころか、逆に6月8日、仏教徒は共産主義者の手先によって煽動されている、と火に油を注ぐような強硬な非難声明を出しました。そして、そのすぐ後で起ったクアン・ドク師ら仏教徒の僧侶の抗議のための焼身自殺については、僧侶のバーベキューにはからしをつけて食べたらうまかろうなどと、傍若無人の発言を繰り返しました。

1963年9月2日、ケネディ大統領はテレビを通じて記者会見の席上、次ぎのような発言をしました。
南ベトナム政府が救われる道はもはや一つしかない。政府の顔ぶれを替えることだけである。
さすがに替えるべき顔ぶれがゴ・ジン・ジェムやヌー夫妻だとは言いませんでした。しかし、その2週間後の9月17日になると、ホワイトハウス当局はロッジ大使あてに、ヌー夫妻の影響力を大幅に減少させるために、できれば長い休暇をとらせるといった形でも良いから努力してほしい、と打電してきました。これは命令ではなかったので、ロッジ大使ははっきりと返事はしませんでしたが、その3日前の9月14日、大使館あてにワシントンから連絡してきた南ベトナムの商品輸入に必要な資金1850万ドルを提供するという援助計画は無期延期となったという決定だけは、ジェム政権にはっきりと通告しました。11月1日、クーデターが開始されました。午後1時半将軍達が指揮する第一師団はまず警察本部、放送局、空港などを占領し、大統領官邸と特殊部隊の兵舎を攻撃し始めました。ところがヌー顧問は、この攻撃を偽のクーデター計画の一環だと思い込んでいたため、反撃するなと部下の司令官に命じました。大統領官邸以外では、すべての抵抗は3時間たらずで鎮圧されました。そして午後4時30分、将軍達はラジオを通じて、ジェム兄弟の辞任を要求しました。大統領官邸は完全に包囲されていましたが、将軍達はジェムとヌーの出国の安全だけは保証しました。これに対してジェム大統領は話し合いを申し入れましたが、将軍達は拒否しました。ミン将軍は官邸砲撃開始を命令し、部隊が邸内に侵入し始めました。しかし、ジャム大統領はいぜんとして降伏しようとはしませんでした。一夜明けた11月2日、大統領はついに参謀本部のドン将軍を電話で呼び出し、空港までの身の安全が保証されるならば降伏してもよいと申し出ました。それから間もなく、ジェムは無条件降伏を申し出て、近衛兵に抵抗中止の命令を下しました。しかし、大統領とヌーはすでに官邸から脱出していました。2人の姿を最初に発見したのは、大統領の長年の政敵だった人物が指揮していた機甲部隊でした。そして、装甲車で参謀本部に連行される途中に銃殺されてしまいました。

1963年11月22日、第35代合衆国大統領ジョン・F・ケネディが、テキサス州ダラス市のエルム通りで射殺されました。事件発生直後から様々な謀殺説が噂されていましたが、今日に至まで、ついに真相は明らかにされず、疑惑は深まる一方でした。この事件は一人の狂人の発作的な犯行ではなく、計画的に仕組まれたものであることはさまざまな物証が何よりも雄弁に物語っています。にもかかわらず、これらの事実を隠蔽してしまおうとする力が働いていることも否定できない事実です。ケネディが暗殺された時、偶然その一部始終を8ミリフィルムで撮影していたアマチュアカメラマンがいました。全部で22秒あるフィルムの存在をかぎつけたライフ誌は、事件直後10万ドルにのぼる巨額の金を支払って独占掲載権を手に入れました。このフィルムは様々な真実を物語っていました。ケネディと同じ車に乗っていたテキサス州知事のジョン・コナリーが、いきなり右肩を下にして座席にくずれるように倒れました。彼の頬は苦痛でふくれあがったようになっており、髪もばらばらに乱れていました。つまり、コナリーはケネディが撃たれてから約1秒後に苦痛の反応を示しているわけです。ところが、FBIのオリンピック選手級のライフルの名手が実験した結果、犯人と目されたリー・ハーベイ・オズワルドが持っていたマンリッチェル・カルカノ銃は、どんなに急いでも、弾丸をつめかえてから再び発射するまでに、4秒以上の時間を要することがわかりました。FBIはオズワルドの前歴を詳細に洗いましたが、海兵隊にいたころの彼がそんなに銃の名手だったという証拠はどこからも出て来ませんでした。オリンピック級の射撃の名手必死にやっても4秒以内には絶対に発射できなかったというライフル銃を手にして、軍隊時代にはむしろ劣等生に近かったオズワルドが、わずか1秒たらずの間に弾丸をつめかえ、ケネディとコナリーという標的にしっかりと命中させるなどということはとうてい考えられない、というのが疑惑の第1点でした。しかし、暗殺事件特別調査委員会の見解は異なっており、ケネディとコナリーを撃った弾丸は2発の異なった弾丸ではなく、同じ弾丸で、ケネディに当たった弾丸が、大統領の喉元を貫通して、引き続き側にいたコナリーの手首に当たった。これが事件の真相である。連邦最高裁判所のウォーレン裁判長が委員会を勤めていたため、この委員会はウォーレン委員会と呼ばれ、1964年12月、調査開始から数えてわずか1年目に発表された最終報告書では、当時様々な背後関係が取りざたされていたにもかかわらず、ケネディを撃ったのは、事件直後に逮捕され2日後に自らも殺されたリー・ハーベイ・オズワルドただ1人であり、背後関係はいっさい認められないと断定し、委員会そのものも解散してしまいました。

1963年11月22日、ケネディ大統領が撃たれたと聞くやいなや、リンドン・ベインズ・ジョンソン副大統領は、専用車の運転手に直ちにラブフィールド空港に急行するように厳命しました。合衆国憲法の規定によれば、大統領が死亡した場合、副大統領が直ちにそのポストを継承することになっています。ジョンソンは一瞬ラブフィールド空港で待機している大統領専用機のことを思いました。ケネディが死んだ瞬間から自分がその飛行機に乗り、一路ワシントンに引き返す間も、その機上から自分の口で3軍に向かって号令することになります。世界最大の軍事国家アメリカ合衆国の大統領はまた、陸海空3軍の最高司令官でもあります。そのポストに一刻でも空白が生じるということは、敵側の攻撃に絶好の口実を与えることとなります。ケネディ暗殺の至急報を受取った時点で、全米に散らばる500基のICBMは、いつでも発射できる緊急態勢にただちに切り替えられ、核弾頭を満載した1300機のSAC機も、滑走路に出てエンジンを始動させ始めました。そして、海の奥深く潜航していた10隻のポラリス潜水艦にも緊急指令が発せられ、それぞれ16個の核弾頭を積んだミサイルが、何時でも発射できる態勢に入っていました。これらすべてのボタンを最終的に握っているのは、合衆国大統領ただ1人しかいません。核時代の戦争は一瞬のうちに終わってしまう終末戦争で、敵側の陣地より発射された核ミサイルが、全世界に散在しているアメリカのミサイル基地、及び全米50州の主要都市を叩いてしまえばそれで終わってしまいます。アメリカ側は核のボタンを握っている合衆国大統領の決断が下されないかぎり、1発の報復攻撃を加えないうちに全滅してしまいます。大統領に空白は許されないのです。ジョンソンは新しい大統領としての責任の重さをひしひしと感じていたそうです。ラブフィールド空港に着いたジョンソンは、来る時に乗って来た副大統領専用機の前を通り過ぎ、大統領専用機に乗り込みました。そしてケネディ大統領の棺が横たえられた空軍1号機の中で、おごそかに宣誓式が行なわれました。
私はここに、アメリカ合衆国大統領の職務を忠実に履行し、全力をあげて憲法を維持し、保護、防衛することを厳粛に誓う。
急拠ラブフィールド空港に呼ばれたサラ・T・ヒューズ連邦地裁判事の前で、右手をあげて宣誓するリンドン・B・ジョンソンはついに第36代の合衆国大統領に就任したのです。

1963年11月22日、リンドン・B・ジョンソンはダラスから急拠ワシントンDCに向かう飛行機の上で、第36代合衆国大統領になるための宣誓を行ないました。1964年の選挙で大勝をおさめてからというもの、ジョンソンはみるみる自信をつけ、ベトナム戦争をエスカレートさせていきました。ジョンソンの口癖は偉大なる社会の建設でした。それは次ぎのような考え方に基づくものでした。
新たな地平線が我々を招いている。この国は、やはり大きな実験の国なのだ。しかし、我々の軍事力がどんなに強くても、また我々の経済力がどんなに大きくても、高邁なものを追求しないかぎり我々は偉大な国民とは成り得ない。一世紀の間我々はこの大陸に定住し、開拓することに骨を折って来た。ついで半世紀の間、我々は全国民に対して豊かな状態を作り出すために限り無い創意を集め、たゆまぬ努力を重ねてきた。この次ぎの半世紀に直面する問題は、その富みと国民生活の充実向上とアメリカ文明の質的進歩のために活用する知恵と、我々が持っているかということである。偉大な社会は、すべての人のための豊富と自由に係っている。それは貧乏と人種的不公平の終止を要求する。しかし、それはほんの手始めにすぎない。偉大な社会は、安全な港や安息所、最終の目的や、すでにでき上がった真実なようなものではない。それは、我々の生活の意識とそのすばらしい労働の成果がマッチする運命に我々を引込む、絶えず繰り返される挑戦である。
私は歴史の判決を疑わない。今から30年後のアメリカ人が今の1960年代を振り返り、戦争に対する不和の勝利、貧乏に対する繁栄の勝利、人間の悪に対する善の勝利、無知に対する英知の勝利を目指して進んだ、アメリカの大躍進時代と呼ぶ事を確信する。しかし、現実は決してジョンソンが思い描いた理想のようにはいきませんでした。ベトナム戦争の泥沼が偉大な社会へのだい躍進を足元からすくってしまったからです。戦争計画を秘密にしておきたいあまりに、ジョンソンは必要な増税もせず、軍部に対して財政当局に正確な見通しを伝えないように指示していたのです。戦争経費についてジョンソンがこのような態度をとった理由は、彼が最悪の事態が起らず戦争が短期的に終結すると思っていたからであり、また、戦争経費の問題が公然化すれば、偉大な社会計画が御破算になることを恐れていたからです。この結果ジョンソン政権の経済計画は嘘で塗り固められ、アメリカ経済は異常な混乱状態に突入しました。そして偉大な社会計画の法案は通過したものの、その予算的裏付けは微々たるものとならざるを得なかったのです。

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