昭和20年の世相

1945年・昭和20年8月6日、広島にTNT火薬2万トンに匹敵する爆発力を持った原子爆弾が投下され、日本の敗戦は決定的なものとなりました。8月15日の終戦より間もなく、27日には連合軍の第一陣が日本へ上陸しました。次いで30日には連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥が厚木飛行場へと降り立ちました。彼のファッションは右手にコーンパイプを持ち、濃色のレイバンのサングラスをしていましたが、専用機のバターン号より降り立つマッカーサー元帥の役者ぶりが話題となったものです。連合軍兵士達は次々とやってきて、ジープを駆り当時の日本社会にさまざまな影響を与えました。彼らの進駐に先がけて、8月23日、進駐軍を迎える国民の心得が発表されましたが、その骨子は鬼畜として恐れていた彼らから、特に女性の身を守るための警句でした。日本女性として自覚を持ち、外国人に隙を見せてはならず、ふしだらな服装、特に人前で胸をあらわにすることを禁ずるなどでした。今にしてみれば笑い話ですが、当時は兵士達の暴行事件も少なくは無く、事件報道に対してもGHQのプレスコードで規制されていたものの、異国人達の脅威が日本人に与える不安は決して小さくはありませんでした。その一方ではチューインガムを噛み、チョコレートやタバコをジープの車上より配る底抜けに明るい兵士達の表情は長い間日本人が忘れていたものであったことは確かでした。国民の大半は飢えとの戦いであり、進駐軍兵士達やPXより流れてくるチョコレート、ガム、タバコ、コンビーフ缶詰などの食糧、嗜好品は当時の人々にとっては目も眩むような美味しさでした。11月に入ると大相撲秋場所、プロ野球東西対抗戦が開かれ、娯楽やスポーツは人々の乾きを潤しました。そして新王、雄鶏通信などの雑誌が創刊され、日米会話手帳が300万部のベストセラーとなり、リンゴの歌が全国を席巻し、国民生活にも明るさが戻り始めました。

昭和20年8月15日の東京は夏の暑い太陽が烈しい陽射しを落とし、蝉時雨しきりでした。天皇の終戦詔書、いわゆる玉音放送に至るまでには、幾つかの曲折がありました。ポツダム宣言の受諾と、これに対する米国務長官バーンズの回答は、日本に対して無条件降伏を求めながらも天皇制問題は認めるという方向性を持っていました。8月14日に開かれた御前会議では、死中に活あるのみという軍部の意見もありましたが、天皇の御印によって終戦が決定しました。陸軍省参謀本部と近衛第一師団の一部がクーデターを起こし、宮城と放送局に乱入。彼らはNHKのスタジオより玉音放送の録音盤を強奪しようとしたがこれを果たせず、玉音放送は正午に重大発表があるという予告のもとに予定どおりに君が代の演奏の後に実施されました。やるせない話題には事欠かなかった時代ですが、疲弊しきった人々が終戦を報じた新聞を買う為に長蛇の列を作りましたが、詔書の次ぎの一節を心の支えとして困窮生活に耐えました。

今後帝国ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ表情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪へ難キヲ堪へ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス

GHQによる革命的な民主化の流れの中で、戦時中の支配階級に対する責任追求の声がしだいに高まり、それと相まって民衆権力が相対的に強まっていきました。終戦直後の昭和20年8月17日に鈴木貫太郎内閣より引き継いだ東久邇宮稔彦内閣は、25日の記者会見にて、軍・官・民の国民全体が徹底的に反省し懺悔しなければならない、という有名な一億総懺悔論を発表しましたが、これに対する国民の批判は極めて厳しく、当時の毎日新聞などには一工員からと題する次のような投書が掲載されました。
一人残らず反省とか、一人残らず懺悔とか、一体それは国民の誰に向かってなのか、自分は飛行機製作に全力を尽くして来た。たった一人の老母を東北の山村に疎開させた時も、途中が気になって仕方がなかったが、結局は一人で行かせた。あの時の母の涙は忘れる事ができない。終戦の聖断が下されるまでは、自分はがんばり通してきた。配給上の不公正や各事業に対する急不急の誤認、あらゆる窓口の不明朗などの戦力の低下に拍車をかけたのはみな官史ではないか。貴官たちはどの口で誰に向かって反省しろだの懺悔しろだのと言えるのか。自分は涙を持って問う。特攻隊その他戦死者の遺族、工場戦死者の遺族も罪深い官史と一緒に懺悔するのか。
一工員が天皇家につながる時の総理大臣にたてついたのです。この一事が当時の権力の移行を雄弁に物語っています。そして労働者はどんなに間違っても屑扱いされることはなくなったのです。

朝鮮半島に対するアメリカの関心は、すでにウィルソン大統領の頃より高いものがありました。しかし第一次世界大戦のパリ講和会議の時に、朝鮮人より救いの手を差しのべてほしいという要請があったにもかかわらず、アメリカ政府は有効な手段を打つことができませんでした。その無念さを反映してか、1943年のカイロ会談の際には、逸早く朝鮮を自由な国家として独立させるということが決定され、宣言文にも盛り込まれていました。しかし、日本の降伏があまりにも急だったため、アメリカ政府の対応がそれに追い付かないような面もあり、いざ蓋をあけてみたら朝鮮半島の北半分がソ連圏に入っていたという感じがあったのです。38度線設定の真相はアメリカの国務、陸軍、海軍の三省連絡調査委員会のもとで働いていた比較的階級の低い将校達が1945年の8月初旬にワシントンで確定したものでした。そのときの模様をアメリカ人のルイス・ハスキンスはこう言っています。
ちょうど日本の降伏する直前のことだったが、数名の将官があわてて国防省の室に入ってくるなり、朝鮮を二分しなければならない。どこで分割したものだろうかと言った。極東に経験のある一人の大佐が、朝鮮は社会的にも経済的にも1つとなっているために分割する所は無いと反対した。結局、将校達は最後にこういう判断を下した。どうしても朝鮮を二分しなければならない、それも今日の午後四時までに。こうして分割は決まり38度線が決定されました。

1945年2月4日から11日まで南ロシアのクリミア半島の保養地ヤルタにアメリカのルーズベルト大統領、イギリスのチャーチル首相、ソ連のスターリン首相が集まり、第二次世界大戦後の世界をどうするかという問題について協議を重ねた歴史的会談です。この会議の結果、発表されたのがヤルタ協定と呼ばれる協同宣言です。その他にも戦後のドイツをどう処理するか、東ヨーロッパをどうするか、日本との最後の戦闘をどう戦うかなどのさまざまな秘密協定が結ばれました。ヤルタの共同宣言の中では次ぎのように述べられています。
クリミアで開かれたこの会議では、このたびの大戦における連合軍の勝利を可能とし、確実にした目的と行動の協調をきたるべき平和の時代にも維持し、強化するというわれわれの共同の決意を認めました。これこそ我々の政府が、それそせれの国民と全世界に対して約束した神聖な義務であると信ずる。
ただ我が3国とあらゆる和平友好国との間におけるこの協力と諒解を追求し、かつこれを拡大してゆくことによってのみ、人々は人類最高の希望、すなわち大西洋憲章の言葉によると、あらゆる国のあらゆる人間に対して彼らの生涯中、恐怖と窮乏からまぬがれて生活する可能性を保証する確かな永久的な平和が実現できるであろう。
このたびの大戦の勝利と、人々の企画する国際機構の確立とは、きたるべき幾年かにわたって、右のような平和の基本となる諸条件を作り出すために、全歴史を通じ最高の機会を与えるであろう。

1945年4月25日午後4時40分、ナチス・ドイツに対抗するアメリカ軍とソ連軍の最前線部隊が、ドイツを南北に流れるエルベ河のほとりトルゴーの打ち壊された橋の上で出会いました。ついに連合軍がヨーロッパ大陸の覇権をヒトラーから奪還したのです。米ソ両軍の兵士は、瓦礫と化した橋の上でお互いの肩を抱き合いながら勝利を喜び、涙を流しました。これがエルベの邂逅と言われる歴史的な一瞬であり、それから2週間後の5月8日にドイツは正式に降伏しました。すなわち、1944年の6月にノルマンディーに上陸したアメリカとイギリスの西欧連合軍に呼応したソ連が東部戦線の中央を大きく突破してポーランドの首都ワルシャワへ向けて急進撃を開始してから、ようやく10ヶ月目に東西の両軍がエルベ河でガッチリと握手して、ドイツを完全に分断したのです。当時のソ連の指導者は、ヨシフ・ヴィサリオノヴィッチ・スターリン。アメリカの指導者は、4月12日に死去したフランクリン・デラノ・ルーズベルトの後を継いで副大統領より大統領に昇格したばかりのハリー・S・トルーマンでした。

1945年4月28日、イタリアのミラノに近いコモの湖のほとりで、イタリアの独裁者ベニート・ムッソリーニとその愛人クラレッタが約1年間、身を隠していたところをパルチザンに見つけられて殺害され、その遺体は街頭に晒されました。イタリアがムッソリーニ政権の崩壊後、国王の命により組閣されたパドリオ元帥のもとで、連合軍に対して無条件降伏をしたのが1943年9月8日のことで、これによって日独伊三国同盟は破局の第一歩を踏み出していきました。ムッソリーニは、すでにその年の7月25日にイタリアの支配階級と労働者の反抗を受けて一度捕られていましたが、ドイツ軍の手によって身柄を救い出され、北イタリアにファシスト政権を再建しました。しかし肝心のドイツ軍が敗色を濃くしていき、ついにパルチザンの手によって逮捕され、無惨な私刑にあい、非業の死をとげました。もともとムッソリーニのファシスト政権は基盤が弱く、連合軍が優勢に転ずるにつれイタリアの王家やローマ法王を中心とした封建的な遺制の反撃を受け、崩壊の一途をたどらざるをえない状況にありました。

1945年4月29日の午前3時頃、ヒトラーは長年連れ添ってきたエヴァ・ブラウンとベルリンの地下の防空壕の中であわただしく正式の結婚式をあげ、翌30日の午後3時30分に新妻とともに自殺しました。その遺体は総統官邸の中庭で火葬された後、まだ充分に焼ききれないうちに埋葬されたそうですが、その後の遺体の行方が謎であるために、さまざまなヒトラー伝説が生まれています。ヒトラーから後継者、次期総統に指名されたデーニツ総督は、ソ連に対してでなく、西欧連合軍に対して降伏しようと必死に試みました。しかしソ連に対する忠誠を貫き通したいと願うアイゼンハワー将軍は、ドイツからの申し出を断固拒否しました。そして、1945年5月7日、ヨードル将軍がランスの連合軍指令部で、無条件降伏の書面に署名をし、ここにヨーロッパ大陸を舞台とした戦争は幕を閉じました。ベルリン攻防戦の直後にいちはやく市内に入ったのはソ連軍で、1945年5月13日にヒトラーの身辺警護当たっていた士官メンゲルスハウゼンに1通の重要書類を突き付け、ヒトラーの遺体の所在を強く問いただしました。その書類は、ソ連軍の捕虜となった元ヒトラーの親衛隊副官ギュンシェの供述書でした。ヒトラーは生きているという噂を流して、旧ナチスの残党の団結力を温存しようと画策していたメンゲルスハウゼンは、初めのうちは口を固く閉ざしていましたが、ついに抗しきれなくなり、ソ連軍兵士を総統官邸の中庭に連れて行きました。しかし、遺体はすでに掘り返され、ヒトラー夫妻の遺体はありませんでした。ヒトラーの遺体を運び去ったのは実はソ連軍だったと言われています。1945年の5月の末にメンゲルスハウゼンはベルリン近郊のフィノウという森に連行され、木の箱に入れられている3体の黒焦げの死体を見せられました。それは火で焼かれた上に腐っていました。しかし、メンゲルスハウゼンはゲッペルス夫妻とヒトラーの死体に間違い無いと証言しています。ヒトラーの遺体は黒焦げになっていましたが、顔の構造から見て、明らかにヒトラーのものだったそうです。コメカミの一方にピストルの弾穴があり、アゴは上下とも完全だったようです。いずれにしても、ベルリン陥落の直後から、ソ連軍が必死にヒトラーの遺体を追い、死体を確認するために懸命に証人探しをしていたことは真実のようです。

1939年にドイツからアメリカに亡命してきたアルバート・アインシュタインをはじめ、エンリコ・フェルミ、レオ・シラード、その他のユダヤ系の物理学者達は、ドイツがウラニウムの核分裂でリードする危険性があると、時の大統領フランクリン・ルーズベルトに警告しました。そこでルーズベルトは1941年5月1日に化学研究開発局を設立し、研究を一任しました。エンリコ・フェルミやその他の研究スタッフはその年の暮れには、最初の自律核連鎖反応に成功し、原子爆弾完成への道程を打ち立てました。そしてW・S・グローヴズ将軍指揮下の陸軍の技術者が研究を引き継ぎ、原爆製造のためにテネシー州オークリッジに小さな町を作りました。ここを中心に1944年までに開発計画が急速に進み、ついにニューメキシコ州のロスアラモスに特別の物理実験場が建てられました。その中心となったのが、J・R・オッペンハイマーです。
ロスアラモスで最初の原爆実験が成功したのは1945年7月16日のことであり、折りからポツダム宣言の準備を進めていたアメリカの国論は、実際に使うべきか否かを巡って大きく2つに分かれました。政府の高官と最高の原子物理学者達からなるトルーマン大統領の特別委員会は、原子爆弾を直ちに、日本上空で爆発させるべきであると進言しました。これを受けてトルーマン大統領は、1945年7月25日にサイパンにいる第20陸軍航空隊に対して特別命令を下し、ついに最初の原子爆弾2発が送られました。もし、日本が8月3日までに降伏を受け入れなければ、それ以降の最初の適当な時期に投下するようにという指示が軍部に与えられたのです。
トルーマン大統領とバーンズ国務長官はポツダム宣言に対する日本からの返事を待ちましたが、鈴木貫太郎首相から返ってきたのは、ポツダム宣言は注目に値せずという虚しい言葉だけでした。原爆を搭載したB29エノラ・ゲイはポール・W・ティベッツ大佐の指揮の下に、ついにサイパン島を出発し、1945年8月6日8時15分に、広島上空高度3万1600フィートのところで爆弾の懸吊架を外しました。その結果、兵員のみならず一般市民をも含む6万175の生命が奪われ、その後も長期に渡って原爆の後遺症に苦しむ人々が続出しました。第2発目の原爆が長崎に投下されたのはそれからわずか3日後のことでした。

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