スターリン

1953年3月5日、ソ連の独裁者ヨセフ・スターリンが死去。クレムリンの発表は、死後6時間を経過してからのことでした。世界中の新聞のトップに巨星墜つ、の大活字が踊り、ここに、ルーズベルト、チャーチル、スターリンの3巨頭の時代は完全に幕を閉じ、いよいよ本格的な戦後時代に入りました。スターリンがソ連の全権力を奪取し、それを維持するために用いた権謀術数は実に陰惨きわまりないものであり、血の匂いに満ちていました。晩年のレーニンが再起不能と分かってからも、しばらくの間は、ジノヴィエフとカーメネフと共に三頭政治の集団指導体制をとるふりをしていました。しかし、レーニンの死後の1年後には、早くも3人の有力後継者と目されていたレオン・トロッキーが軍事人民委員会から追放され、スターリンにとっての後顧の憂いは絶たれました。そして、トロッキーが党を追われ中央アジアへ流され、続いて国外へ追放されました。そしてジノヴィエフやカーメネフも蹴落とされ、いよいよスターリン1人に権力が集中こととなり、個人崇拝の段階に入っていました。1936年8月、スターリンの殺害を企て、その右腕と言われたキーロフの暗殺にまで関係したという理由でジノヴィエフとカーネフは死刑に処され、続いて1937年の1月にも、ピヤタコフ、ラディック、セレブリヤコフなどの著名な共産党員17名の裁判が行なわれ、そのうち13名までが銃殺刑に処されました。これがスターリンの血の粛清であり、スターリン主義者といえども独裁を脅かす者はことごとく見世物裁判にかけられた後、死刑に処されました。そして1953年のスターリンの死後も、スターリンに対する個人崇拝はなおも続き、フルシチョフ時代に入ってからようやくスターリン批判ができるようになりました。しかし、フルシチョフのスターリン批判も秘密密告となっており、血の粛清の実相はいまなお秘密のヴェールに包まれたままとなっています。

1961年10月30日、第22回ソ連共産党の党大会で、ようやくスターリンの遺体をモスクワのクレムリン前の赤の広場にあるレーニン・スターリン廟からほかのしかるべき場所に移転するという決議が行なわれ、ようやくスターリンの亡霊が消えました。すなわち、赤の広場の廟の名前からもスターリンの名前が削り取られ、ウラジミール・イリイッチ・レーニン廟と改名されたのです。独裁者スターリンが死んだ後、ソ連共産党の第一書記兼首相の地位についてナンバーワンの権力を握ったのは、ゲオルギー・マレンコフでした。しかし、クレムリンのほかの指導者たちは、とくにモロトフ、カガノヴィッチ、ベリヤなどは共産党と政府の指導権を一手に握ったマレンコフがかってのスターリンのように独裁的な権力をふるうようになるのを恐れて、まずソ連における決定的な権力ポストである第一書記の地位を奪い去りました。そしてその後、1955年には首相の座も奪い、1957年には完全に追放してしまいました。クレムリンの指導者たちがマレンコフの代わりに、比較的小物だから無害だろうと思い、ニキータ・フルシチョフを1953年3月14日に党第一書記の座に据えました。それはスターリンの死からわずか9日目のことで、マレンコフ時代はあっけないくらいのスピードで幕切れとなりました。しかも、クレムリンの最高幹部たちが無害だとばかり思い込んでいたフルシチョフが、実はたいへんな政治家で、その後はあれよあれよと思う間に、ソ連の実権を握られてしまう結果となったのです。

スターリン暴落と呼ばれる株価の暴落は、当時のソ連首相のスターリンが重体との報が入った翌日の1952年3月5日のことです。この日の東証ダウ平均株価は37円81銭安、率では10%という証券史上空前の大暴落となりました。特に、仕手株、軍需株を中心に売りが殺到し、東京海上113円安、新三菱重工63円安などの大幅下落がありました。スターリン暴落の直接的原因は、それまで続いていた米ソの冷戦関係の改善と、朝鮮戦争の休戦会談の促進から軍需関連産業への需要減が想定されていたからです。そして当時は、いわゆる朝鮮特需直後の株式市場の状況が天井感を強めていた時期でもありました。この年に入ってからは東証ダウは364円89銭から2ヶ月で474円43銭に達しました。朝鮮動乱時の最安値から31ヶ月間に5.6倍もの暴騰があったのです。この株式市場を支えていたのが、特需景気と資産再評価積立金の無償交付の増加、そして投資信託制度の再開、信用取引制度の整備です。特に動乱景気による所得増が投資信託を通じて株式市場への大量の資金流入となっていたのです。そのブームも2月4日の474円で天井となり、2月末には店頭株関連で非会員業者の不渡り手形事件が発生して反落状況となっていました。そこにスターリン重体のニュースが入り全面的な暴落となったのです。

アメリカ第37代大統領リチャード・ニクソンはスターリンについて次ぎのように記しています。
フルシチョフの個性はスターリンの絶対独裁という鉄床で鍛えられた。そのスターリンには、二種類の部下しかいない、すぐに命令に従うか処刑場行きかしか存在しなかった。
スターリンの粛清にあった人々は一説によると1億人とも言われています。ニクソンは同胞を虐殺した数において、スターリンを上回るのは毛沢東だけだろう、と書いています。しかしスターリンの存在なくしては、アメリカを向こうにまわして世界をひきずりまわしたフルシチョフという偉大な指導者は生まれなかったかもしれません。
スターリンは本名ではなく、本名はヨシフ・ヴィサリオノヴィッチ・ジュガシヴィリ。1879年12月21日グルジアの内陸の町で生まれ、父親は靴職人、母親は農奴でした。後年、第一次五箇年計画の集団農場政策の中で示した富農や中農に対する残酷さは、この家庭体験によるところが大きいようです。また少数民族のグルジア人あったことも無縁ではありません。スターリンは自分はアジア人だと言っていました。グルジアからは社会主義者が多く出ましたが、これはロシアに対する反発を無視することはできません。またソ連の生みの親であるレーニンですらこう書き残しています。
スターリンは粗暴すぎる。彼の欠点は我々共産主義者の仲間の中では完全に支持できるとしても、書記長のオフィスの中では支持できない。したがって私は同志達に提案する。スターリンを現地位から取り除き、あらゆる面でスターリンと違う、もっと優れ、忍耐強く、礼儀正しく、同志に対して細心な、むら気でない人材を指名せよ。
レーニンはスターリンの本質を見抜いていました。しかしこの文章はレーニンの死後3年間の間、1926年10月18日にニューヨークタイムズが暴露するまでは眠っていました。感受性の強いスターリンは、晩年のレーニンが邪魔な存在となっていたことは確かのようです。これがレーニン毒殺説の由縁です。陰謀が渦巻いていた時代を少数民族であるグルジア人として生き抜かなければならなかったスターリンにしてみれば、疑わしきは罰するという姿勢を貫かなければならなかったのかもしれません。しかし、それは人類史上に残るいまわしい犯罪に違いありませんでした。

実弾射撃場としてアメリカ軍に一時提供されていた石川県内灘地区の使用期限が昭和28年4月30日で満了。アメリカ軍の要請により、政府は同地区を無期限使用区域とする意向を示し、地元との話し合いの上、日米合同委員会で決定する方針を立てました。これに対して同区域の住民は、半農半漁の生活を脅かすものとして永久使用に反対の声を上げました。4月28日、県下の自由党を除く政党、労働組合、青年団、婦人会など、地元で結成した基地接収反対実行委員会が代表者を上京させ、関係各方面と折衝を開始し、5月15日には石川県議会でも絶対反対を決議し、知事も政府に迫りましたが、政府はあくまでも内灘使用の態度を持しました。政府側委員も地元に出向して説得に努めましたが、地元側を硬化させるばかりで、その間に労組の介入もあり、事態解決の見込みがつきませんでした。そこで政府は閣議で強引に6月15日を試射日と決定し、内灘村民は12日より小屋を建てて坐り込みました。そして6月15日に予定どおり試射は実行されました。

1951年、中東油田地帯のリーダーともいえるイランの政局に大きな変動が起きました。反イギリス民族主義の旗印を掲げるモサデグが政権を握り、イギリスのアングロ・イラニアン石油会社を国有化するなど、それまででは考えられなかったような政策を次々と打ち出していきました。当時はソ連が初の水爆実験を行ない、アメリカを中心とするNATO諸国は、共産主義の進出に必要以上に神経をとがらせていました。なぜならばイランはトルコ、インドというアメリカ軍の重要戦略拠点にはさまれた巨大な石油産出国です。ここが共産化されれば、中近東はひとたまりもありません。しかし、モサデグ首相は、1951年から1952年にかけて、イラン共産党との接触を深め、石油政策に関しても一貫して反イギリス、反アメリカの立場をとり続け、1953年にはソ連・イラン合同委員会を発足させるなど、目にあまる赤化ぶりを示していました。1953年1月、トルーマン大統領の後を受けたアイゼンハワーは、ただちにCIAにモサデグ追放の指示を与えました。モサデグ首相の周辺では正体不明の暗殺事件や暴動事件など、血なまぐさいテロが日常茶飯事のように繰り返され、首都テヘランの街は騒然たる空気に包まれ始めていました。なかでもイランの国家警察本部長を勤めるモハメッド・アフシャルタスの失踪事件は人々にCIA暗殺説を印象づけました。いずれにしても、イランの政変劇の影にCIAの手が伸びていたというのは、今や歴史的な事実として定着しています。それはアメリカ側のモサデグ事件に対する動きはにわかに活発さを増し、アイゼンハワー大統領も堂々と、もはやイラン動向を看過しているわけにはいかないと演説しています。そしてこのようなアメリカ政府の王党派に対する協力な肩入れを背景として、8月16日には通算3度目のクーデターが決行されましたが、モサデグ首相はかろうじてこれを押さえることに成功しました。

パーレビ国王は反乱の失敗を知るやただちにソラヤ王妃を伴って隣国イランへと逃れ、さらにはローマに亡命してしまいました。この直前にペンタゴンの大物ノーマン・シュワルツコップ将軍が密かに国王夫妻に会っていることから、モサデグ政府の機関紙ニロウェ・セボムは次ぎのように述べています。
アメリカ人は自ら国王の手先の役割を演じ、そして勝利を治めることができると考えた。この陰謀には、最近イランを訪れた国王の妹アシュラ姫も加わっていたことは明らかであるが、最大の黒幕はやはりアメリカ軍部であり、謀略機関である。
しかし、反乱軍の総指揮者ファゾーラ・ザヘディ少佐はなおもクーデターをあきらめられず、3日後の8月19日の朝、4度目の決起部隊を率いて首相官邸に乗り込みました。モサデグ首相は間一髪で難を逃れ、市外に脱出しましたが、たまたま現場に居合わせたファテミ外相とおぼしき人物は捕らえられ、見せしめのために死体をズタズタに引き裂かれました。そして反乱軍はたちまちのうちに全市を掌握し、放送局を接収して次ぎのような発表を行ないました。
イランの王党派は、反逆者たちの煽動政府を打ち破った。ファテミ外相はこの政府を通じて、イランを外国へ売り渡そうとしていたものである。イラン国軍と警察は事態を完全に手中に握った。ザヘディ将軍しただちに首相の任につき、新政府はローマに亡命中のパーレビ国王を喜んで迎えるであろう。
老いても病むモサデグ首相は、身一つで銃撃を逃れましたが、翌20日には妻子とともに逮捕され、軍事裁判によって公衆の面前で執行する絞首刑の判決を受けました。ニューヨークの有力新聞ポスト紙は、この結果をすでに1ヶ月以上も前から予測して、モサデグ政権は昨年のエジプト同様、軍によって転覆されるであろう。イランの軍隊はアメリカの武器を供給され、アメリカ式に教育された優秀な軍隊である。
また、アメリカ政府の対応もクーデターからわずか2週間後の9月1日、アイゼンハワー大統領はザハディ新首相あての次ぎのような書簡を発表しました。
当面の問題を処理しようとする貴下の努力を援助するために、私はイラン駐在のアメリカ大使にアメリカの対イラン援助計画の拡大に関して、貴下と話し合う権限を与えた。貴下がその概要を明らかにしたイラン再建計画の達成を我々が援助する用意を持っていることを、私は貴下に保証することができる。
そして事実、アイゼンハワー大統領はイラン新政府に対してただちに4500万ドルの緊急援助計画を供与したのです。

昭和28年8月28日、日本テレビ放送網が民間放送初の本放送を開始しました。この年の2月1日よりNHKがすでにテレビジョンを開局、公共、民営の2つのテレビが相前後して日本最初の本放送を開始し、国民のテレビ熱を沸き立たせました。日本テレビ放送網株式会社は東京都千代田区二番町に昭和27年10月28日設立、社長・正力松太郎、資本金5億円、昭和27年7月31日予備免許下付、昭和28年8月24日試験放送、28日本放送、出力映像10kw、音声5kw、周波数170から166MH、放送区域・関東の大半、アンテナ鉄塔132m、アンテナ22m。放送1日6時間、午前9時から9時半までの最後30分間は英語放送。番組の割合は、報道・社会・教養で40%、スポーツ・娯楽で60%、ニュースは主として読売、朝日、毎日の3社から提供。生放送とフィルムの割合は2対1、自主番組、商業番組の割合は半々。放送料金はAクラス1時間30万円、30分18万円、5分間10万5千円、中継放送の場合は生放送の125%、BクラスはAクラスの75%、フィルムは生放送の75%、スポットはステーション・ブレーク・アナウンスメントAクラス30秒5万5千円。大型テレビを京浜地区55箇所の盛り場に配置し、大衆に見せ、広告価値の増大を図ることが当面の狙いでした。

ヤミ利殖金融機関で当時日本一の規模であった保全経済会が休業したのは昭和28年10月24日のことでした。保全経済会は会長によると、一時60億円もの資金を集めていたということですが、28年9月末の時点では出資総金額44億9500万円、出資者15万人だったそうです。保全経済会は、出資者には月2分の配当を支払ってきました。この高利の配当を行なうためには、総資本60億円とすると、14億4000万円もの配当金が必要となり、宣伝費等の経費を含めると、50%から60%程度の利回りで資金を運用しなければなりません。そして、すでに同年の夏ごろより6ヶ月の長期出資を懸賞付きで応募しようとしていました。この頃より資金繰りがうまくいかなくなっていたようです。つまり、新規出資者の出資金をタライ回し式に配当し払いに用意せざるを得なくなっていたのです。保全経済会の株式投資でのそもそもの失敗は、27年春の東邦レーヨン買いでした。東邦レーヨンを10万株単位で買い、それが250円から260円、100円台になりました。その結果2億から3億円の損失を出しました。そして東京海上株の仕手戦に敗れ、7億円の損失だったと言われました。株で失敗した保全は、今度は不動産投機に走りました。しかし、不動産は流動性が乏しいために、長期出資の必要が生じ、それが6ヶ月出資の募集となりました。それでも当時不動産で年50%から60%で資金運用することは不可能でした。さらに不渡り事件が起るなどの金融情勢であったために、傘下の金融会社ではコゲ付が生じていたことも考えられます。最悪なことには、この年になって解約者が30%から40%に増加したことがあります。これは出資者の約半分が農村で特に四国、九州が多く、ちょうどこの時期に水害や凶作があったことが原因とされています。いずれにしても月2分という高配当は続けられるわけがなく、保全経済会休業の後も、類似のヤミ利殖金融機関は次々と破綻していきました。こうしたヤミ金融機関の倒産はしだいに普通銀行へと資金がシフトしていくきっかけとなりました。

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