減量経営

狂乱物価に代表されるような猛烈なインフレの抑制の代償として、昭和49年から50年にかけての経済はほとんど成長しませんでした。昭和50年には4次にわたる不況対策、公定歩合の引き下げを行なったにもかかわらず、世界景気の中だるみや公共支出の抑制などから、景気は浮上しませんでした。景気の停滞を反映して企業倒産も高水準を示しました。昭和51年の1年間の倒産は、1万5600件、負債総額は2兆2600億円と史上最高となりました。景気回復力の弱さは、経済の先行きに不安を抱かせ、企業経営にも生き残りのために、さまざまな合理化努力が行なわれました。そうした経営は固定費を中心としたコストの切り下げと投資行動の慎重化を特徴としており、減量経営と言われました。特に固定費の中の人件費と金融費用の削減に重点が置かれていました。昭和48年から50年にかけての需要の低迷、稼働率の急速な低下は企業内の過剰雇用の存在を表面化させました。このために昭和51年は、従業員の削減を目標とする企業が多数見受けられました。各種製造業では希望退職者募集などの動きが目立ちました。昭和51年1月に経済企画庁が実施した企業行動調査でも、中期的に雇用調整を実施しようという企業が目立ちました。業種別では稼働率の低い鉄鋼、非鉄金属、パルプ、紙などで人減らしの傾向が強く、稼働率の高い電気機械、精密機械などでは常用雇用者を削減して、臨時雇用者の活用を図ろうとする傾向にありました。それと並んで金融費用の軽減にも力が入れられました。それは投資行動の慎重化をもたらすものであり、需要の伸びが期待できずに、新たな投資対象も容易に見つからないために、製造業の大企業を中心に、投資意欲は弱まりました。さらに在庫投資の慎重化も目立ちました。企業は借入金の返済を急ぎ、金利負担を軽くしようとしました。そのために設備や在庫のための資金や運転資金の圧縮が行なわれました。これが企業の銀行離れと言われる現象でした。

昭和51年11月5日、国防会議と閣議決定で当面の防衛力整備についてという基本方針が策定されました。防衛力整備の実施に当たっては、当面各年度の防衛関係経費の総額が当該年度の国民総生産の100分の1に相当する額を超えないことをめどとして、これを行なうものとする。当時は成長神話が生きており、実際GNPもまだまだ伸びる見通しがありました。そして1%という天井までもかなりの余裕が残っていたので、外交政策の重要な事項である防衛力を自らの手で、反対論を押し切っても何か平和的なイメージを振りまけるような象徴的な政策をやる必要がありました。GNP1%以内であれば、GNPが膨らんだときに防衛力を増やす事ができ、逆にGNPが減速しマイナス成長となったときは国際情勢の危機もマイナス成長で薄らぐのなら影響ありませんが、国際情勢の危険度は日本のGNPの規模とはなんら関係ありません。この破綻は昭和59年に明白となりました。昭和59年の防衛予算はGNPの0.99%で上限まで0.009%となりました。昭和60年度はさらに切迫した事態となりました。GNPが当初に政府が予想した314兆6000億円にとどまった場合、その1%は3兆1460億円となるから、昭和60年度の防衛予算との差は、わずか89億円ということとなります。これは自衛官の給与が1%アップしただけでも約133億円となるためGNP1%枠は簡単に突破することとなります。昭和61年12月29日、自民党3役と宮沢大蔵大臣、栗原防衛庁長官、後藤田官房長官との間で一大政治決断がなされることとなりました。防衛予算を対前年度比5.2%増の3兆5174億円とすることで合意したのです。これは62年度政府経済見通しのGNP比1.004%となり1%を突破してしまうのです。1%枠突破が象徴的な出来事となり、政府自民党への攻撃の火種となると予想した政府自民党は安全保障会議と臨時の閣議で、62年度の防衛関係費には51年度の閣議決定を適用しないとしたうえで、1%に代る新たな基準を今後慎重に検討するという決定を行なったのでした。

毛沢東の片腕として世界情勢の波乱要因の一つとして恐れられた革命後の中国を、世界の中国に押し上げたのは周恩来の功績でした。1898年、中国大陸の江蘇省淮安で生まれ、天津の南開中学に進んだ後、日本へ留学、神田の高等予備校などの聴講生となりましたが、来日して2年あまりたった1919年帰国し、南開大学へ入りました。しかし、五・四運動に参加して逮捕されたころから、中国の改革を意識し始め、1920年にはフランスへ留学、21年には中国共産主義青年団の創立に参加し、同年中国共産党へ入党しました。27年には共産党政治局委員、同年8月南昌蜂起、12月広東蜂起を画策したが失敗し香港へ脱出、31年江西ソビエト地区へ入り、共産党中央軍事部長、第1方面軍政治委員の要職に就任しました。36年の西安事件では蒋介石を救出し抗日民族統一戦線の結成の大きな推進力となりました。1949年の中華人民共和国設立後は、国務院総理兼外交部長として内外に中国建設に全力を上げました。1954年にはインドシナ戦争休戦のためのジュネーブ会議に出席し、同じ年、インドのネール首相と平和5原則を提案し、55年にはバンドン会議に出席するなど、その外交手腕は世界の注目の的となりました。しかし、文化大革命も含めて一貫して毛沢東の側についていましたが、中国の孤立は深まるばかりという危機感を抱いた彼は、次第に現実に則した政策を毛沢東の機嫌を損なわないように進め、ソ連との関係修復、国連の加盟、アメリカと日本との国交回復などの現実主義を貫き、今日の中国の基礎を築きました。

アメリカ上院外交委員会多国籍企業小委員会公聴会でアメリカロッキード社の工作資金不正支払い問題が明らかとなったのは、1976年2月4日のことでした。この時、誰しもが大きな事件であることは認識したものの、日本の政治を根底から揺り動かすこととなるとは誰も想像だにしていませんでした。この日証人として出席したロッキード社の会計管理人、アーサーヤング公認会計事務所のウイリアム・フィンドレーは、トライスターの売り込みのために、1975年までにロッキード社の秘密代理人の児玉誉士夫に約21億円もの大金が渡されていたことを明らかにしました。翌日同じ委員会に出席したロッキード社の副会長コーチャンは、児玉に支払った21億円の一部が国際興業の小佐野堅治に渡っていたことを証言しました。さらにロッキード社の日本での代理店である丸紅の専務である伊藤宏に支払った金が日本政府の高官に渡ったものであることも明らかにしたのです。この証言は日本の財界のみならず社会全体を震撼させました。検察当局も国会もこの事件解明を最優先課題として取組まざるを得ませんでした。三木総理も徹底解明を約束しました。国際興業の小佐野堅治をはじめとして、丸紅と全日空関係者に対する国会での証人喚問はテレビでその一部始終が生中継されて全国民がテレビに釘付けとなりました。小佐野らの証人は、記憶にございませんという言葉を繰り返し、この言葉を流行語へと押し上げ話題となりました。7月27日には前内閣総理大臣で最大の派閥を率いる田中角栄が逮捕されました。東京地検特捜部は午前6時、田中邸を訪れ外国為替法違反、外国貿易管理令違反の容疑で任意同行を求め、午前8時50分、逮捕状を執行、その身柄を小菅の東京拘置所に移したのでした。田中にはロッキード社から4回にわたり、5億円もの賄賂が流された疑いがかかっていました。これ以前に児玉誉士夫が3月13日、丸紅の大久保利春前専務を6月22日、同じく伊藤宏前専務を7月2日、全日空の若狭徳治社長を7月8日、同じく渡辺尚次副社長を7月9日、丸紅前会長の桧山広が7月13日に逮捕されました。8月20日には元運輸政務次官の佐藤孝行代議士、翌21日には元運輸大臣の橋本登美三郎代議士を逮捕しました。小佐野も偽証の疑いで同じく21日に起訴されました。さらに自民党を悩ませたのが灰色高官という存在でした。野党にその公表を迫られた政府・自民党は、衆議院ロッキード問題特別委員会の密会で、二階堂進元官房長官、佐々木秀世元運輸大臣、福永一臣自民党航空対策特別委員長、加藤六月元運輸政務次官を灰色高官として明らかにしました。しかしここまで公開することは些かやりすぎの感があり疑問の残る処置でした。投入された捜査員は東京地検だけでも延べ4万7190人、事情聴取者470人、捜査箇所143箇所、押収証拠物件6万6800点と戦後最大の投獄事件でした。

自動車産業も1970年代に入ってから急激に対米輸出が増え、アメリカ国内の保護貿易主義者をあおりたてることとなりました。特に1970年代の後半に入ってからは、その勢いがますます強くなり、1976年にはついに日本製乗用車の対米輸出台数が105万1000台と、100万台の大台を超え、1977年には133万9000台、1978年には140万9000台、1979年には154万6000台と増加の一途をたどり、1980年には実に181万9000台にも達しました。1980年のアメリカ市場における日本車のシェアは日本21.3%で、アメリカ国内を走っている車のうち5台に1台は日本車ということになってしまいました。1980年のビッグスリーの決算でGMが7億6000万ドルの赤字、フォードが15億4000万ドルの赤字、クライスラーが17億1000万ドルの赤字と軒並み大欠損を出し、自動車業界だけでも20万人、関連産業を含めると90万人という失業者を出すまでになりました。このような状況により、1980年6月、全米自動車労組やフォード社はITCに対して救済の提訴を行ないました。しかし、ITCはアメリカの自動車産業の業績悪化や失業増大は、日本車が原因ではないとはっきりシロの審判を下しました。そして、1981年3月、ジミー・カーターに替わって大統領に就任したばかりのロナルド・レーガンは、向こう5年間で14億ドルの資金負担の軽減を行なうという救済計画を発表しましたが、今度はアメリカ議会が納得せず、自動車にもOMAを設けよや、日本車の輸入を160万台に以内に制限せよという保護主義的な法案が次々と提出され、日米間の自動車摩擦が問題となってきました。日本政府は、1981年4月より、合衆国通商代表部のウイリアム・ブロック代表と交渉を開始し、次のような自主規制を行なうことで合意が成立しました。
日本は1981年度の自動車対米輸出を4月にさかのぼって年間168万台に押さえ、2年目に数量に幅をもたせ、3年目はアメリカ市場の動向をにらんで決める。
つまり168万台というのは1年目のだけのことであり、自主規制措置をとるのも最良で3年間だけという申し合わせでした。しかし、翌年になてもアメリカの自動車産業は回復の兆しを見せず、この年も再び日本側の168万台に押さえるという自主規制案をのむこととなりました。

河野洋平や西岡武夫、山口敏夫のグループが党内民主主義の実行を訴え、実力者総退陣を叫び、総裁公選を主張したことに、かなりの国民は共感を示していました。かねてより三木をかつごうとしていた河野らは、三木が総理総裁となったことで、手続きには異論ありと主張していたものの、実際にはかなり満足していたことは事実でした。しかし、その後の政局の進展は、河野らの期待を裏切ってしまいました。河野らは党内実力者のなかでは比較的進歩派的色彩の強い三木に、党内改革の実行を期待しましたが、派閥力学で動いていた保守党の体質を変えることはできませんでした。依然として実力者が党内を牛耳り、党内民主主義を無視し、派閥力学だけで政治を運営している。国民とのギャップは日に日に広がっているのに気づかない。保守政治に対する河野の危機感はつのるばかりでした。保守合同以来、挙党一致体制が優先し、党が内閣の中に組込まれがちとなりました。党議決定や党の拘束力が叫ばれ、かつての保守党がもっていた柔軟性がしだいに失われてしまいました。ロッキード事件の発覚が河野らの決断を促しました。ロッキード事件は田中角栄個人の問題ではない、保守党の体質そのものが問われている。河野らはロッキード事件の解決の方向が解明ではなく、揉み消しという方向であることに失望しました。河野は自民党の自浄作用の限界をみたのでした。もし三木が総理でなければこの事件は闇へと葬りさられていたでしょう。自民党に愛想をつかせた国民がこの新しい保守党に期待していることは、その年の12月の総選挙で明らかとなりました。河野のほか西岡武夫、山口敏夫、田川誠一、小林正巳、有田一寿の6人でスタートした新自由クラブは一挙に18人を当選させて、ブームを巻き起こしました。しかし翌年の参議院議員選挙では全国区1、地方区では2にとどまりブームは終焉し、さらに54年7月には路線の対立をめぐり西岡幹事長が離党するにいたり、もはやこの党に多くを期待することは無理であることを国民はしらされました。昭和54年10月7日の第35回総選挙では自民党とともに完敗し、当選者はわずか4人という状態でした。総選挙後の11月6日の特別国会では、混乱する自民党の大福戦争へ参戦し、大平陣営につき総理大臣指名の際には連立政権を構想し、大平への支持を鮮明にしました。しかし連立は失敗し、河野は代表を辞任しました。58年12月の総選挙では過半数割れとなった中曽根自民党は、新自由クラブとの連立に成功し、新代表の田川が自治大臣に就任しました。新自由クラブは第2次中曽根内閣を支え続け、田川に続き、山口敏夫が労働大臣、河野洋平が科学技術庁長官として、それぞれ閣僚を獲得しました。しかし、昭和61年7月の総選挙で中曽根自民党が304議席を獲得するという大勝利を治めたことに伴い、新自由クラブの存在意義がなくなってしまい、解党に追い込まれ自民党に吸収合併されてしまいました。

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