マイナス成長

昭和49年の実質経済成長率は、前年比1.4%と戦後始めてのマイナス成長となりました。昭和49年のGNPの4半期ごとの動きを見ると、1月から3月期には、狂乱物価の中で個人消費支出が急激に縮小し、前期3.1%の大きな落ち込みとなりました。4月から6月期には春闘の大幅賃上げにより消費が回復したことや、輸出が増加したことから、実質GNP成長率は、1.1%増のプラスに転じました。7月から9月期は消費住宅投資はまずまずだったために、1.5%の成長となりました。10月から12月期は在庫調整と消費の不振により再びマイナス成長でした。日本経済は昭和30年代以降高度成長時代に入り、年率10%を超える成長を続けてきました。歴史的にも各国と比較しても稀な高成長でした。その結果、昭和40年代前半の経済成長率は12.2%となりました。しかし、こうした高度成長にも転換期が訪れ、昭和40年代後半の年平均成長率は5.1%と半減してしまいました。経済成長が大きく低下したのはいくつかの原因があり、戦後の世界経済を支えたIMF・GATT体制の崩壊が考えられます。自由貿易体制が揺らぎ、国際通貨危機が言われるようになりました。アメリカはインフレと国際収支の赤字の累積という問題を抱えていました。日本は黒字体質を持ち、対米貿易摩擦の多発に悩まされ、円レートに対する切り上げ圧力も強まりました。次に、資源・エネルギー、立地、環境などの制約要因の増大があります。そして、日本経済の先進国に伴い、技術進歩、生産性の上昇が鈍化してきたことです。先進国からの技術の導入や生産の拡大の機械が減少し、独自の技術開発が求められるようになりました。こうした高度成長経済の基盤が揺らいでいるところに、石油危機と狂乱物価が生じ、日本経済は混乱を深めました。昭和49年から50年にかけて経済成長はほとんど停止し、紘工業生産、製造業稼働率は昭和48年のピーク時に比べて20%も落ち込み、完全失業者数も100万人を突破しました。昭和48年の投機的需要の盛り上がりに対する反動で買い控え現象が起ったり、大型企業倒産も発生しました。昭和49年のマイナス成長は、空前のインフレの過程で生じました。過去に例のない長期的な需要抑制策が引き起こしたと言えます。この抑制策は、昭和48年から開始されました。金融政策を見れば、5度にわたり、公定歩合が引き上げられ、窓口規制が強化されました。財政面でも、公共事業の8%が執行を昭和49年度へ持ち越されることとなりました。

1970年代後半になると、にわかに嫌煙権を主張する動きが強まってきました。健康面では1974年にWHOの喫煙と健康への影響についての専門委員会が、喫煙の害及び受動的喫煙の害から国民を守るように勧告を出しました。これを受けて1978年にはWHOの総会で喫煙と健康に関する決議を行なっています。日本における嫌煙権の主張は、WHO専門委勧告と総会決議の中間の1976年に始まります。以後1977年には嫌煙バッジが製作され、1978年には嫌煙ポスターが発表されるなど、運動は急速に広がりました。組織的にも各地の市民の集まりのほか、法律家、国会議員、医事関係者などの会が次々と結成されました。成果としては1978年に国立病院の待合室が禁煙とされたほか、航空機や国鉄新幹線の一部が禁煙席、喫煙席に指定されたことがありますが、それらの対応ではまったく不十分との判断から、1980年には、国鉄に対して半数以上の客車を禁煙席にせよとの訴訟を提起しています。しかし、中には反嫌煙権を主張する人まで現れたことには、別な面から考える問題点もあります。そのために近隣公害いう言葉も徐々に使われるようになりました。近隣公害の申し立てには、半ばコミュニティの崩壊現象と結びついた身勝手な自己主張見られます。嫌煙運動の場合には、リーダー主張は自己抑制が効いているのですが、アメリカなどの運動の一部がテレビで報道されたことから、反嫌煙運動の主張まで招いたようです。政府や公共機関の対応では明らかに嫌煙運動側に分ががあります。喫煙の歴史は禁煙の失敗の歴史と言われるほど根深い問題です。嫌煙を禁煙運動と結び付けるよりも、場所的制限の正論をもっとも強力に推進するのが課題だと思われます。

所得政策はインフレを抑制するために、個別物資の価格だけでなく、賃金をはじめ家賃、利子、配当などの所得を構成する要素をすべて規制しょうとする政策です。とくに賃金の上昇を抑えることによってインフレを沈静化させることを目的とすることが多く、日本では昭和40年代初めに経済成長と物価の関係が問題視されました。昭和42年には経済審議会に、物価、賃金、所得、生産性を検討する委員会が設置されることになりました。委員会は昭和43年に物価安定と所得政策と題する報告書を発表し、所得政策をめぐる議論が起りました。当時は、直ちに所得政策を導入する必要はないとされました。その後に同委員会は昭和47年に、再度所得政策の導入に批判的な報告書を発表しました。しかし、昭和49年の春闘の賃上げ率が、32.9%、平均2万8981円の上昇となったことから、所得政策の導入の是非をめぐる議論が活発化しました。議論の契機となったのは、昭和49年5月に経済企画庁が発表したレポートでした。それによると、大幅な賃上げは、経済のバランスを悪化させ、今後の経済運営を困難にするものと見ていました。32.9%にも達する賃上げが価格に転換されれば、卸売り物価は9.5%、消費者物価は10%程度上昇すると試算されました。昭和47年以降世界的にインフレが拡大したため、先進各国では対策に努めてきました。特にアメリカ、イギリスは所得政策的な手段を採用しました。アメリカは、昭和46年8月のドルの金交換停止以来、賃金物価にわたって厳しい監視政策をとっています。賃金は年間上昇率5.5%以下、物価2.5%、配当4%の増加というガイドラインが設定され、賃金物価の引き上げは承認制としました。イギリスでは、昭和47年11月より、昭和48年3月まで賃金物価が凍結されました。その後4月よりガイドライン方式を導入し、賃金、価格、企業利益、配当などの抑制に努めました。日本においても所得政策の導入の是非をめぐり、広く議論がなされました。政府は、昭和49年12月の経済対策閣僚会議で、法的規制による賃金規制は妥当ではなく、現在の賃金問題についての労使双方の深い理解の上に立って妥当な賃金水準が作り上げられるのが望ましいとして、所得政策の導入には慎重な対応を示しました。当時の経済企画庁は消費者物価の前年比上昇率を、昭和50年3月には15%以下に、昭和51年3月には10%以下に抑えるとの目標を掲げました。これに伴い昭和50年の春闘は、物価抑制目標と同様15%以内に抑えることが目標のように作用しました。その結果、物価、春闘共に目標内に収まり、所得政策的な政策は影をひそめました。

産油国は、1973年に4・5倍にもなった石油価格によって多額の外貨を獲得することになりました。この外貨のほとんどがドル建てであることから、オイルダラーと呼ばれました。オイルダラーは産油国にとっては、当面使う予定はなくとも手元に置いておくには惜しい金で、当時は世界的なインフレ状態であり、目減りを防ぎ、できるだけ多くの利子を得るためには再投資する必要があります。先進諸国も石油代金の支払いによって国際収支の赤字が拡大して、オイルダラーの還流が円滑に行なわれることが重要となってきました。1974年にはこうしたオイルダラーが世界経済にとって重要な要素となっていました。オイルダラーはどのくらいの量となるのか、還流はどういったルートで行なわれるのかが大きな関心が寄せられました。大幅に値上げされた石油代金が、最初にまとまって産油国に支払われたのは、昭和49年春頃です。このオイルダラーははとんどが短期性の貯金としてユーロダラー市場かアメリカ、イギリスの銀行へと投資されました。その後は金融機関だけではなく、多くのルートによって行なわれ、アメリカ、ヨーロッパを中心とした大企業の株式所得や合弁企業の設立も見られました。国際機関を通じた還流システムも創設され、IMFは昭和49年8月に発展途上国向けに特別融資制度を設けましたが、これは産油国によって出資されたものです。世界銀行等の国際金融機関も、債券の発行などを通じて、産油国からの資金の調達に努めました。また昭和49年末より、短期預金中心に還流していたオイルダラーが、より有利な投資先を求めて、中長期の投資へと向かい始め、債券、株式、対外借款などの比重を強めていきました。

田中角栄が自滅した後を受けて、自民党の総裁選びは難航に難航を重ねました。世論では金権批判一色でした。自民党の体質そのものが金権体質そのものであったため、多くの人が誰がなっても同じだと冷めた感じで見ていました。こうした難局の収拾にあたったのが、官房長官、外務大臣、通産大臣といった要職を歴任した実力者で副総裁の椎名悦三郎でした。後継候補は三木、大平、福田、中曽根の三大福中の1人であることは間違いありませんでしたが、三木や中曽根、とりわけ党内でも非主流を一貫して歩んで来た三木がなることは、これまでの常識からすると皆無でした。すると、大平か福田ということになるが、この2人には保守党の陰の部分がつきまとっていました。大平は田中と盟友ということで、田中の影が濃厚であったし、福田はタカ派というイメージが強く、天下太平の雰囲気一色の世の中では暗すぎるという感じが否めず、両者とも自民党のイメージを回復するにはほど遠い存在でした。しかし、イメージの回復という点からいくと、クリーンな三木が適任だったことには間違いなく、自民党内でも世間でも両者が選ばれるという予測の方がはるかに強かった。しかし椎名は弱小派閥からは総裁はありえないという常識を破り三木を指名しました。これが椎名裁定の名で日本の政治史に残ることとなりました。三木内閣は、福田、大平、中曽根を加えた四派連合により、クリーン三木をスローガンにスタートしました。最大の課題は田中時代に狂乱した物価沈静化することでした。強引さの目立った田中の手法に対抗して三木は対話と協調、インフレ阻止、社会的不公平の是正を掲げ、自らの政治生命の集大成を試みようとしました。公約の独占禁止法の改正、公職選挙法の改正を試みましたが、いずれも財界や保守勢力の反対にあい、初期の目的を達成することはできませんでした。それは党内の誰もが三木を本格政権とは考えておらず、ほとぼりがさめるまでの暫定政権と考えていたことでした。当然、三木には党内やスポンサーである財界での、自分に対する冷ややかな雰囲気を感じていました。それだけに三木は世論を味方に取り込み、支持率を上げるための政策を積極的に打ち出す必要がありました。

昭和51年2月4日、アメリカ議会に端を発したロッキード社の旅客機売り込みに対する汚職事件が明らかとなりました。それがロッキード事件でした。三木のこれまで訴えてきたことや、自らの内閣のスローガンであるクリーンからすれば、この汚職事件の徹底解明は自明の理でした。しかし相手が悪く、相手は最大の実力者である田中角栄でした。狡智にたけた政治家三木が、この事件を田中を潰す絶好の機会ととらえたことは間違い無く、指揮権発動という保守党の実力者のからむ汚職事件のこれまでのシナリオを無視し、検察庁に前首相逮捕という荒技にゴーサインを出しました。そして田中角栄は逮捕され小菅に収監されました。三木は何をやるかわからないという危機感をつのらせた党内、財界を中心に三木おろしの動きが活発化し始めました。三木内閣の産みの親である椎名自身が三木にあいそをつかし、三木おろしの中心になるにいたり、三木は万事休すの状況に追い込まれました。しかし、一国の総理を辞めさせるには、そうした派閥次元の理由だけでは無理がありました。それなりの、誰もが納得するような理由が必要でした。三木は異常な粘り腰で耐え、12月の総選挙へと突入しました。三木に対する同情があるものの、自民党が2つに割れたような形の選挙だっただけに、保守の力は半減しました。結局、自民党は大敗し、その責任をとる形で三木は24日に総辞職、政権の座を降り、福田に譲りました。しかし三木もしたたかで、福田に総裁選における予備選導入を約束させます。そして、この予備選がその後の自民党総裁の性格を変えることとなります。

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