調整インフレ

昭和46年8月15日のニクソンショック後、日本政府は大量のドルを買い支えました。さらに国際収支の均衡、日本列島改造論、福祉の充実などを掲げて大型予算が編成され、減税、国債の大量発行、公定歩合の引き下げ等積極的な財政金融政策が実施されました。福祉面では老人医療無料化、健康保険家族給付の引き上げ、年金の物価すらいど制の導入などの充実が行なわれました。当然、福祉の充実は評価されてもよい政策ですが、この時期のこうした政策は調整インフレという概念からより正確に把握できるという意見があります。調整インフレとは、固定為替レートのもとで、国内においてインフレを意図的に進めて国債収支の黒字を解消しようというものです。昭和47から48年のインフレーションが調整インフレか否かは両説あるところですが、昭和40年代前半からインフレ対策が重要な政策となっており、国民もインフレを望んではいませんでした。むしろ、政府は実際にとった政策の予想される帰結を見極めることができず、いわば見かけ上調整インフレを採用したように思われただけではなかったと思われます。昭和46年12月18日の円切り上げ、昭和47年春からの国債通貨危機などを経て、これ以上の円レート上昇は景気後退につながるという懸念がありました。固定評価維持に強くこだわった結果、通貨供給の過大、財政の膨張を招き、インフレを起こしてしまったのです。当時の政策当局は経済と円レートのメカニズムを理解していなかったと思われます。それは、ニクソンショック機動的な対応ができず、外為市場の閉鎖も決断できなかったこと、そうした結果が過剰流動性につながり、マネーサプライの大幅な増加を招くといった過程を把握していたかどうかわからないということ、昭和47年度の大型予算は、日本列島改造ブームに引張られた面が強いこと、などから見ても読み取れます。固定レート制下で、国際的な金融取引から遮断され、国内の規制行政しか頭になかった政策当局の理解不足によるインフレと言う学者もいるほどです。日本のインフレは、昭和47年秋から強まり、昭和48年にはハイパーインフレーションを引き起こしてしまいました。地価、株価、美術品等の資産価格の高騰があり、次いで卸売り物価大きく上昇し、消費物価が引き続きました。こうしたインフレ過程は古典的な通貨過剰供給によるものと思われます。

昭和47年度予算は、景気回復と福祉充実の旗印のもとに積極的な大型予算が組まれました。47年度予算は昭和47年1月5日大蔵省原案内示、1月12日政府案決定の後国会に提出されました。2月26日に防衛費について一部減額修正がされ、4月28日に参議院本会議で可決成立しました。みうして成立した一般会計予算は、11兆4676億円、前年度当初予算に比べて21.8%増となり、昭和38年度以降最高の伸び率となりました。財政投融資計画は、5兆6350億円、前年度当初計画に対して31.6%増と史上最高の伸び率でした。一般会計の歳出の中では、社会資本関係予算の伸びが目立っていました。公共事業費は2兆1485億円と前年度当初比29.0%増となりました。昭和47年度より、第4次治水事業5カ年計画、第4次治山事業、都市公園整備5カ年計画の長期計画がスタートしました。道路事業は、一般会計で8507億円、前年度当初比22.5%増、財政投融資4764億円、同36.5%増になりました。住宅対策では一般会計が1506億円、29.9%増、財政投融資9367億円、34.0%増でした。また上下水道、産業廃棄物処理施設、公園などの生活環境施設整備費は1401億円、58.9%増と高い伸び率を示しました。社会保障費は1兆6415億円、前年度当初比22.1%となりました。70歳以上の老人の医療費が無料化されたほか、福祉年金の中で老齢年金、障害年金、母子年金などが引き上げられました。しかし公共事業費に比べれば伸び率は低くなっていました。昭和47年度予算は、前年の円の大幅切り上げ等を招いたこれまでの成長優先の経済政策を、福祉に重点を置いたものに転換するという課題のもとに策定されました。特に日本では社会資本が不足していると言われ、企業活動に直接関わる設備を別にすると、道路、鉄道、港湾、通信施設ともに不十分でした。その中でも生活関連施設の充実が必要とされていました。こうした中で、都市化が急速に進み、生活環境は劣悪になりました。このために昭和47年度の予算では、生活環境関連費を高い伸びとしましたが、絶対額ではまだ少額にとどまっていました。

昭和47年7月7日、田中角栄総理大臣が誕生しました。田中首相は総理になる前の6月に自ら日本列島改造論を著しており、日本列島改造を内閣の最重要課題として掲げ、列島改造が一大ブームをまき起こしました。当時円切り上げ後の不景気感が漂い始める中で、内外均衡達成のためには、輸出と設備投資に向かっていた資源配分の重点を転換させ、社会資本の整備を通じて、社会福祉の建設を進めることが必要だという意見が強くありました。そこで登場した日本列島改造論は人口と産業の地方分散によって過密と過疎を同時に解決するという理論で構成されていたため、広く受けいられました。具体的な内容は、大平洋ベルト地域に集中した工業の地方分散、都市改造と新地方都市の整備、それらを結ぶ総合ネットワーク整備の3点でした。田中首相はこの構想を具体化するために、日本列島改造問題懇談会を設置して、8月に第1回会合を開催しました。同懇談会においても、基本構想には賛成する者が多く、土木建設、不動産業界も同構想を支持したほか、鉄鋼、セメント、大手商社などの産業界の支持も多かった。その一方で、列島改造論はこれまでの経済成長路線を基盤としており、産業優先の考え方が強いとして批判する声も高く、その理由として土地価格の高騰などのインフレを招く、工業再配置は全国に公害を拡散することとなる、地方自治の精神に反するなどでした。こうした政策と平行してインフレムードは高まり、地価の高騰があり世論の批判を浴びることになりました。そして昭和47年末の総選挙では、共産党の進出と社会党の回復が見られ、自民党は長期低落傾向を示し、保守の危機が唱えられました。日本列島改造論は実効をあげる前に政策的には失敗してしまったといえます。それは、円切り上げ当時から作り出された過剰流動性の中で実施を企てられてたため、昭和48年秋の石油危機にとどめを刺されてしまいました。

ニクソンショックと並び、当時の日本経済界を非常に脅かしていたのは、アラブ諸国の動きでした。1971年9月2日には、アラブ連合が国名をエジプトと変更し、シリア、リビアという最強硬派とともに、新たにアラブ共和国連邦を発足させました。これによってイスラエルとの関係はますます悪化し、いつ第4次中東戦争が始まるかわからない情勢となってきました。その上、OPECが原油価格を大幅に値上げする構えを見せ始めていました。石油業界の受けた衝撃は大きく、ニクソンショックの年が明けた昭和47年早々の1月20日、OPECはメジャーに対して原油公示価格を一方的に値上げすると通告、8.49%の大幅値上げを獲得しました。それまでメジャーの絶対支配に服従してきたアラブ産油国が、ついに反乱の兆しを見せ始めました。昭和47年は日本列島改造問題懇談会を発足され、いくら石油があっても足りないような経済環境が作られながら、一方ではいつ原油の供給がストップするかわからないという微妙な国際環境にありました。そしてOPEC諸国はドル切り下げ分を補償する原油の値上げを認めよと消費国に圧力をかけてきました。大きな不安にかられた石油連盟は同年10月と翌年4月の2回にわたって、ひそかに業者間の話し合いを行ない、石油製品生産の調整を実施することを決めました。そして、それだけでは不安はぬぐえないとして、元売り各社は、昭和48年2月から5回にわたって石油製品の値上げを決め、これを記した文書を極秘資料として業者間に配布したとのことです。

1972年、共和党のリチャードニクソン大統領が再選を果たそうとあらゆる権謀術策をめぐらしていた年の6月17日未明、ワシントンの豪華なオフィスビル、ウォーターゲートに本拠を置く民主党全国委員会本部に5人の男が忍び込みました。警備装置の異常に気付いた警備員の連絡によって盗賊一味は警官に一網打尽にされました。鉛菅工グループというコードネームで呼ばれていた5人の男達が手にしていたのは、超小型の無線送信機や、それを壁に埋め込んだり電話機に取り付けるための鉛菅工でした。民主党選挙本部に盗聴器をしかけようとした主は誰なのか。大統領選挙を5ヶ月後に控えて、人々はがぜん緊張しました。鉛菅工達を追及しているうちに元CIA職員のハワード・ハントが浮かび上がってきました。ハントはCIAに20年以上も勤めた経験を持っており、ヨーロッパのCIA支部に派遣されたのを振り出しに、1960年代初めのキューバ侵攻計画に関係したり、CIAが内密に行なった外国での出版活動の責任者になるなど、CIAの内部でもかなり高い地位についていましたが、1970年4月自らの意思でCIAを依願退職しました。しかし、1971年7月の初め、ダニエル・エルズバーグ博士が国防総省の秘密報告書をニューヨークタイム紙のニール・シーハン記者に渡したために発生したペンタゴン・ペーパーズ事件に対抗するための秘密工作の準備を進めていたホワイトハウスはニクソン大統領の顧問チャールズ・W・コールソンを介して、ハントを大統領府の非常勤顧問に雇い入れました。そして、ハントがCIAから変装用具やニセの身分証書を手に入れ、エルズバーグかかりつけの精神分析医フィルディング博士の事務所に侵入したのが、ロックフェラー報告書にあったエルズバーグ攻撃作戦でした。ウォーターゲートに忍び込んだ鉛菅工の1人バーガーは、この時にもハントの下で働いていました。またローランド・マルチネスも1961年マイアミでCIAの資産として雇い入れられて以来ずっとCIAの対キューバ工作員として働いていました。バーカーもマルチネスもカストロの革命によってハバナを追われたキューバ亡命者だったのです。そして、マッコードもまた元CIAの職員であり、1970年1月自ら警備保障会社を設立するために依願退職したのでした。

ウォーターゲートビルの民主党全国本部に忍び込んだ5人の鉛菅工のうち3人までがCIAの関係者であり、ハワード・ハントと何らかのつながりのある男達でした。ニクソン大統領とウォーターゲート事件の関連が、CIAという政府機関との関連において大きくとりざさされることとなったのも当然ですが、もう一つの大きな打撃が加わりました。議会の喚問を受けて証人台に立ったハントが、助かりたい一心でホワイトハウスとの関係を暴露しはじめたのです。ウォーターゲートビルへの侵入を命じたのは大統領執務室。ニクソン大統領の右腕として権勢をふるっていたアーリックマン補佐官や、大統領法律顧問のジョン・ディーンらの名前を次々とあげてこのハントの衝撃的な告白によって、人々の疑いは一挙に大統領の上に向けられました。しかし、自らをリチャード王と名乗って誰はばかることのなかった当時のニクソン大統領は、極めて高姿勢ではねつけたうえ、引き続き当のオーバル・ルームからも発見された盗聴器についても、あくまでシラを切りと押しました。そして佐藤首相をはじめ、ホワイトハウスを訪れた外国首脳の会話はすべてその盗聴器によって録音されていたという驚くべき事実が明るみに出た段階となってもまた、核兵器時代の大統領は、18世紀的な個人自由を無視する権限を持っている。国を守るために必要となれはせいかなることもできるという大統領の権限に限界があるかどうか知りたいくらいだ。というペンタゴン・ペーパーズ事件の時に用いた開き直り論理がここでも通用するものと信じて疑いませんでした。国防総省の機密文書を暴露したエルズバーグ博士を陥れるために同じ鉛菅工グループを使い、トリックをめぐらした時にもニクソンは得意の国益論をふりかざし、激しい批判の声を一挙に粉砕してしまいました。しかしながら、議会、マスコミ、世論の追及はいっこうに収まらず、下院司法委員会が大統領の弾圧を可決するに及び、ニクソンはようやく覚悟を決め、1974年8月9日自発的に辞任という形でこの事件を自ら幕を引きました。この事件で大統領関与のスクープ記事を発表したワシントンポスト紙のボブ・ウッドワード記者に情報を提供していた人物ディープスロート氏が2005年5月31日に明らかになりました。当時のFBI副長官のマーク・フェルトでした。謎の人物が30年余を経て明らかになったのです。ただ純粋に不正を暴くということから現職大統領に不利な情報を提供したかというと、そうでもなさそうで、ウッドワードによると、同氏が副長官から長官への昇進を希望したがニクソン大統領がその願いを受け入れなかったために、フェルトがニクソンに不満をもち、暴露におよんだのではないかということです。

エリート中のエリートである佐藤栄作の政権が8年の長きにわたっていたために、国内にはエリートに対する反発が漂っていました。佐藤の後継とされていた福田赳夫が田中角栄に敗れたのはこうした時代の雰囲気を繁栄していました。後に首相の座を射止めることとなる中曽根康弘が上州内閣の実現という願いを蹴って田中についたのはこうした時代の雰囲気を感じていたからでした。佐藤のような経歴の福田に比べて田中はあまりにも対照的でした。高等小学校を卒業後、上京し苦学の末に中央工学校を卒業しただけの学歴のない田中は庶民の気持ちに一致していました。後の金脈問題を機に手のひらをかえしたようになる公器の新聞も田中内閣の誕生を今太閤ともてはやしました。東大卒のエリートが小学校卒の庶民に負けることは気分が良かったのです。昭和47年7月5日、自民党大会で大平、中曽根、三木の支援を受けた田中は福田を圧倒して、7月7日に国会で首班指名を受けその日に第一次田中内閣が発足しました。ときに54歳。戦後ではもっとも若い首相でした。昭和22年に衆議院議員に初当選した田中は、39歳の若さで岸内閣の郵政大臣に抜擢され、その後、政務調査会長、幹事長、大蔵大臣、通産大臣などの政府と党の要職を歴任し、その政策能力と政治手腕は第1級のものでした。そして昭和47年6月に発表した日本列島改造論はその集大成でした。その年の9月には日中国交回復を実現するものの、日本列島改造論がきっかけとなった強烈なインフレを押さえることができずに、しかも政権延命のための小選挙区制を持ち出すが失敗し、48年10月の第4次中東戦争後の石油危機にいたり、完全に行き詰まり、国民の信頼を失い、さらに自らの金脈問題が噴出して墓穴を掘る形で昭和49年12月9日、志を果たすことなく辞職しました。しかしその後も闇将軍の異名をとり日本の政治を動かし続けました。しかし、ロッキード事件により、昭和51年7月27日に受託収賄罪で逮捕、再登場の夢が絶たれ、昭和60年2月27日、脳硬塞で倒れ政界から引退しました。平成5年12月16日死去。

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