国鉄経営の破産

国鉄は昭和39年度に単年度で300億円と初めての赤字を計上して以来、毎年赤字を続けました。そして昭和51年には破産というべき事態を招くところまで経営の悪化が進みました。昭和51年8月31日、国鉄と国鉄監査委員会は運輸省に、昭和50年度の国鉄決算書及び監査報告書提出しました。それによると、国鉄の昭和50年度の営業収入は1兆8209億円、営業経費は2兆7444億円で、この差額から不動産売却益などを差し引いた純損失は9147億円に上りました。このため昭和51年3月末の累積赤字は3兆1610億円、長期負債は6兆7793億円に達しました。多額の債務を抱える国鉄は、昭和51年度予算で、過去の債務のうち2兆5404億円を特定債務整理特別勘定に移して、それを棚上げする措置をとりました。この棚上げ分は、国が利子補給を行なうと同時に、20年間の元利均等払いで償還するための償還額を無利子で貸し付けることとしています。この貸付金は、20年以降の25年間で償還させることとなっていますが、事実上は借金の棒引きです。民間企業で例えると会社更生法の適用と同じで、経営の破綻といえます。国鉄の経営状態に対しては、政府は昭和39年以来2度にわたり再建対策要綱を策定し、経営再建に努めてきましたが失敗しました。3度目の対策として、昭和50年12月31日に、日本国有鉄道再建対策要綱を閣議了解しました。これは、昭和51年、52年の2年間で収支の均衡を図り、同時に要員の合理化、赤字ローカル線や貨物部門の見直しなどによって健全経営を実現しようという考えに立つものでした。この再建策の第一は運賃の大幅値上げでした。昭和51年度予算では、昭和51年6月から平均50%の運賃の値上げを実施し、実質37%の増収を図って赤字幅を昭和50年度の半分に圧縮する計画でした。しかし値上げのための法律案の成立が遅れ、再建策は出足をくじかけてしまいました。国鉄再建の第2として、貨物問題が取り上げられました。昭和51年12月に国鉄は今後の国鉄貨物営業について策定しました。昭和55年度までに貨物列車の走行キロ、本数を各25%削減、貨物駅の3分の1を集約化するなどの内容としています。昭和52年1月に日本国有鉄道の再建対策について、が新たに了解されました。これは再建対策要項を基本としつつ、再建を確実に実現するために運賃決定方式の弾力化、関連事業部の拡充などについて、具体的項目の追加修正を行ない、昭和55年度まで収支均衡を図ることを目的としましたが叶わずに、民営化されることで決着となりました。

1976年6月にアメリカの自治領プエルトリコ島の首都サンファンのドラド・ビーチで2回目の先進国首脳会議が行なわれました。ホスト役はアメリカのフォード大統領でしたが、公式的にはプエルトリコ国際会議です。この会議からカナダの代表も加わり、先進7ヶ国首脳会議が正式に発足しました。当時は世界経済がアメリカを先頭に順調に回復しつつあるかに見えた時でもあったので、このサミットの中心的課題は、インフレの再燃を懸念しながらの経済発展、インフレなき経済拡大に置かれました。主要国の経済が順調に回復しつつあることを踏まえて、開発途上国との協力関係の重要性を説くなどの、かなり余裕のある宣言でした。その宣言は次ぎの通り。
ランブイエ以来、著しい前進が見られ、景気後退の際、今後経済が長期的に活力を保持していけるかどうかについて広く懸念が持たれていましたが、そのような懸念は根拠のないものであることが証明されるに至りました。経済の回復は順調に進行しており、我々の多くの国において、インフレ克服及び失業の低減について実質的な進歩が見られました。いまや我々の目的は持続的拡大への移行を効果的に管理することであり、これによって多くの国において存続している失業の高水準が低減され、インフレの再来を回避するという我々の共通の目標が脅かされないこととなるでしょう。このためには個別の必要性及び情報に沿って、財政の一層の均衡回復並びに財政・金融政策の分野での節度ある措置、及び場合によっては、所得政策を含む補完的な政策をとることもあり得よう。持続的な景気拡大、及びこれに伴う個人の福祉の増大は、高いインフレ率の下では達成し得ない。

不出生の大革命家、毛沢東が同志の周恩来の後を追うようにして、1976年北京で死去しました。82歳でした。1893年、湖南省の農村に生まれた毛沢東は、長沙の師範学校を卒業したのち五・四運動に参加し、マルクス・レーニン主義に傾注し、革命児としてのスタートを切りました。1921年に中国共産党の設立に参加し農業運動に専念。土地革命を説くものの、党に受けいられずに27年には井岡山を本拠地とし、労農紅軍を組織し、ソビエト政権を樹立し、31年には端金の中華ソビエト臨時政府の首席となりました。主導権を確立したのは大長征の途上の35年、中国共産党の遵義会議でした。第二次世界大戦後は、国民党との内戦に勝ち、1949年に中華人民共和国を建国し、初代の政府首席になりました。1965年からは文化大革命の中心をなし、世界を震撼させました。後継者であった林彪副首席を失脚させ、ゆるぎない地位を固めました。しかし、文化大革命収束後は、その実権は周恩来に握られ、自らは象徴的な役割を果たすにとどまりました。毛沢東が偉大な政治家であったことは間違いなく、その功績は中国のみならず、世界史の中でも語り継がれることは間違いありませんが、晩年は功よりも弊害の方が目立ち、周恩来の在命中は弊害が目立つことなく、威光を保つことができましたが、周恩来の死後は陰りが急速に目立ちました。

安宅産業は当時の日本10大商社の一つで、関西の名門でした。年商は2兆円、社員は3600人、海外でも69箇所の拠点をもつなどのまさに大商社でした。安宅産業が行き詰まったのは、昭和48年10月に結成したカナダの会社との契約でした。安宅アメリカの高木常務はカナダのニューファンドランド島に作られたばかりのNRCと中東原油の売買契約を結びましたが、NCRのオーナーが詐欺まがいの実業家で、計画はイギリスのブリティッシュ・ペトロリアムから中東の原油を輸入し、NRCで精製してアメリカに売るという構図でした。安宅アメリカは、この輸入原油の代金決済の保証人になる見返りとして、売り上げから一定のマージンを取るというものでした。しかし、肝心のNRCの精製技術がまったくダメで、製品は欠陥だらけで市場には合わず、融資だけがドンドンと膨れ上がっていきました。さらに石油ショックのあおりを受け、原油価格は4倍というとてつもない値段となり、さらにそれを輸入するのですから借金が膨大な額になるのも当然でした。昭和51年にNRCが倒産したときは、安宅からの融資額は1000億円もの巨額な金額となっていました。これに驚いたのがメインバンクである住友銀行でした。とてもこれを埋めることは不可能と判断し、住友銀行は協和銀行と協議して、伊藤忠商事に吸収合併してもらうことを画策し、この旨を伊藤忠に申し入れました。昭和52年2月に伊藤忠との業務提携、続く5月には合併契約書に調印し、10月には新会社が発足し、安宅産業は70年の歴史に幕を閉じたのでした。

1976年当時は、1973年から1974年の第一次石油危機の影響により原油価格の高騰、原油生産の低迷に直面し、そこからの脱却を迫られていました。先進工業国は石炭利用の拡大、原子力発電の開発に期待をかけましたが、地域住民の原発反対運動に表面化した環境問題の制約などから、その実現性には暗い影が差し始めていました。物理学者エイモリー・ロビンスは、こうした原子力、石炭などの量的拡大に頼る戦略をハードパスと呼び、この戦略ではエネルギー問題の解決には不十分であると主張しました。ハードパスは大規模集中立型地型の戦略で、ソフトパスはエネルギーの最終需要の形態に着目し、その最も効率的な使用を前提とした小規模地方分散型のエネルギー戦略を意味します。ロビンスはその特徴を次ぎのようにまとめています。再生可能エネルギーである太陽熱、風力、波力、地熱、バイオマスなどに依存する。分散されたエネルギーの集合で対応する。弾力的かつ相対的に低い技術でコストの節約を図る。自然エネルギーの流れを利用できる。最終需要の用途に対応したエネルギーの質を持つ。
ソフトパス論が提起した積極的な側面は、従来のエネルギー戦略に、新しい発想、思考の転換を要求したことです。しかし、この提案は供給量と供給コストに説得力を欠いており、現在の技術と経済性から見て、ソフトパスによるエネルギーの供給、使用効率の向上には限界があります。ハードパスだけでエネルギー問題を解決することは不可能なことは明らかですが、ソフトパスだけでは困難です。両者の効率的な組み合わせが唯一可能なパスなのだといえます。

アメリカでは政治家の中でも極めて強い宗教指向性を示す人物は大勢います。歴代の合衆国大統領は必ずと言っていいほど、その就任演説や選挙演説の中に宗教的な言葉や祈りの言葉を盛り込んできましたが、第39代大統領ジミー・カーターくらい強烈な信仰心を持っていた人物もまれです。典型的な南部バプティスト教会の信者であるカーターは、選挙期間中より人道主義外交を声高に提唱するなど、まるで牧師のようだと言われていました。そして1977年1月20日の大統領就任式の演説の中でも、極めて宗教的な抱負を掲げていました。
御覧下さい、私の目の前にあるのは1776年の初代アメリカ大統領の就任式に使われたバイブルです。そして私は母から数年前に贈られたバイブルを手に置いて、宣言したばかりですが、ここに書かれているページには古代の予言者ミカの時代を超越した教えが書かれています。それは次ぎのようなものです。人よ、神は先によいことのなんであるかをあなたに告げた。主のあなたに求められることは、公義を行ない、慈しみを愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。
この就任式は我々政府の新しい始まりであり、新しい献身、そして我々すべてが抱く新しい精神を示すものです。自らの道を定めるのに、精神性と人間の自由の両面から堂々とそれを追及したのは我国が始めてです。これこそ他国に例を見ない我々だけの魅力なのです。しかし、そこには道徳的な義務を引き受けた場合は、常に我々自身の利益にかなうように思われます。そして私が大統領としての任期が終わった時に、我国についてこう言っても貰いたい。我々はミカの言葉を記憶にとどめ、謙遜、慈悲、そして正義の探求を新たにしたと。

1976年12月4日、インドネシアの反政府武装組織、自由アチェ運動はインドネシアスマトラ島ビディ県の山中でアチュスマトラ国の独立を宣言します。そして、1979年にはスウェーデンで亡命政府の樹立を宣言します。かつてはアチェ王国があり、王国はスマトラのコショウ貿易を独占し、オスマントルコと同盟関係を結んで、頻繁にマラッカを攻撃しました。独立するにあたってオランダから脅かされました。1873年にオランダはアチェ王国に戦線布告します。しかし、このときは支配することはできず、80年には戦争終結宣言を行ないます。83年にイギリス船がアチェ軍支配地域に漂着すると、オランダはそれを理由として戦争を再開し、1904年には制圧に成功します。第二次世界大戦では日本軍がこの地域を占領し、戦後インドネシアが独立すると、一旦は歓迎して新国家に統合する動きを見せますが、熱心なイスラム教徒が多いアチェの人々にとっては経済一辺倒のジャカルタ政府に馴染めず、政府への抵抗運動が始まります。最初の抵抗運動は1953年から10年間にわたり、イスラム教指導者を中心に行なわれますが、この運動は失敗しましたが、スカルノはあまりのアチェの抵抗の強さに驚き、この地域を特別州にし、自治を認めます。しかし、次のスハルト時代では自治を反故にして、石油や天然ガスなどのアチェの豊かな地下資源を自らが支配下に置くなどアチェの弾圧を強めたために、再びアチェの抵抗が始まります。そしてついに独立宣言をするに至りました。スカルノ、スハルト時代が過ぎ去り、インドネシアにも民主的な政府が登場すると自治を掲げるアチェに対して弾圧という強行手段をとるわけにもいかずに、メガワティ大統領はアチェ州をナングロ・アチェ・ダルサラーム州と改称し、さらに自治を認めました。一時は和平協定も結ばれましたが、翌年には解消され戦闘が行なわれます。しかし、30年余りにも及ぶ戦争により両者ともに疲弊しており、フィンランドを仲介として2005年8月15日に自治権拡大を柱とした和平協定が成立しました。

    copyrght(c).SINCE.all rights reserved