国際連合の発足

1945年4月、アメリカのサンフランシスコで採択された国連憲章によって、戦前の国際連盟に代わる新しい国際連帯機関が生まれました。本来国連の設立運動を強力に推し進めていたのは、ルーズベルト大統領時代のハル国務長官でした。ルーズベルトは、ウッドロー・ウィルソン大統領が国際連盟設立構想の主導的な立場にありながら、アメリカ上院の承認を取りつけることができなかったために連盟に加入できなかったという歴史的教訓を身にしみて感じていたので、ハル長官の構想を推し進めるに当たっては、野党である共和党の有力議員も設立委員会に積極的に参加してもらう政策をとりました。その結果、設立準備は順調に進み、1944年秋にはワシンンで行なわれたアメリカ、イギリス、ソ連、中国の代表者会議で予備的な大綱が起草される運びとなりました。そして、1945年の4月にサンフランシスコで開かれた50ヶ国からなる総会で、国際連合憲章が採択されて、アメリカ上院も、1945年7月28日に82対2の圧倒的多数でこれを推進しました。第1期の総会は51ヶ国の出席のもとに1946年1月10日、ロンドンで開催され、国連がスタートしました。国際連合の安全保障理事会で、アメリカ、イギリス、ソ連、中国、フランスの5大国の常任理事国が一方的に行使することを認められている、決議に対する拒否権は、1945年6月26日に国際連合が正式に成立したときにはすでに動かしようのないものとなっていました。その後この拒否権を再三にわたって行使したのがソ連であったため、国連憲章にこれを盛り込むことを強引に主張したのもソ連ではないかと思われがちですが、実際にはイギリスとアメリカが主張したものです。なぜかというと、アメリカ、イギリスの2大指導国は国連憲章を加盟各国へすみやかに批准してもらうためには、各国の国民が納得するような規定を盛り込んでおく必要があると考えたからです。しかし、結果的には、自由諸国とは主義主張を根本的に異にするソ連の道具になったに過ぎず、国際連盟と同じ根本的な欠陥を持たせる結果となってしまいました。

第2次大戦におけるドイツの主要戦争犯罪人24人を捌くために、西ドイツの南部バイエルン地方の都市ニュルンベルクで行なわれた軍事裁判。イギリス人のローレンスを裁判長に、米、英、仏、ソ、の4ヶ国から裁判官を出して行なわれた国際法定で、1945年11月20日に始まり、1946年10月1日に判決が言い渡されました。ドイツの戦犯裁判は、米、英、仏、ソ、の4つの占領地域より摘発された軍国主義分子や戦争協力者を、A級、B級、C級に分けて行なわれましたが、特に罪状の重いA級戦犯24名がニュルンベルクの国際法定にかけられました。その結果、ゲーリング、リッベントロップ、ローゼンベルク、カイテル、カルテンブルンナー、フランク、フリック、シュトライヒャー、ヨードル、ザイスリ、イクッルト、ザウケル、ボルマンの12名に絞首刑、ヘス、フンク、レーダーの3名に終身刑、シーラッハ、シューペーアに20年、ノイラートに15年、デーニッツに10年、の刑が宣告されました。24名中無罪となったのはフリッチェ、バーベン、シャハトの3名だけで、ライとクルップは裁判中に死亡しました。絞首刑が執行されたのは1946年10月16日のことでした。

占領軍司令部は昭和20年11月6日、持株会社の解体を発表しました。ここに5年間にわたる財閥解体政策が実行段階に入りました。占領政策の3本柱である農地改革、労働改革、財閥解体の1つである財閥解体は、アメリカ政府文章の降伏後における米国の対日方針に記された日本の商業工業の大きな部分を支配する産業と金融の大コンビネーションを解体する計画の具体化されたものです。アメリカ政府は戦争要因として分配の不平等を示していましたが、財閥をその要員とするには迂余曲折がありました。先の文章には8月12日の第2回改訂まで、日本の経済制度における所有、経営、管理の広汎な分配を助成すべきとのみ記されていました。そして10日後の第3回改訂で初めて大コンビネーションの解体が示されました。この初期の対日方針に基づき、司令部はまず9財閥に資料提出を命じています。同時期に経済科学局ESSが設置され、局長のR・C・クレーマーは4大財閥主脳や日本政府関係者と会談を始めました。司令部としては、3名程度の反トラスト・カルテル課では処理不可能なため、財閥の自主解体を促す方針でした。自主解体策にまず応じたのが安田保善社で、10月15日の安田保善社臨時理事会にて解散を決定しました。その内容が安田プランとなりました。しかし、自主解体案はアメリカ国務省の司令部に対する不信を招くこととなり、結局、安田プランは予備的段階として承認されましたが、後日エドワーズ調査団を派遣することになりました。残る3財閥は10月22日に三井・住友が自主解体を決定し、三菱は岩崎小弥太が最後まで反抗しましたが渋沢大蔵大臣の説得で了承しました。日本政府は大蔵省金融局産業資金課と銀行課が業務に当たっていましたが、11月4日に持株会社の解散に関する覚書を司令部に提出しました。司令部はこの覚書と米国の統合参謀本部より具体的な降伏後初期の基本的司令、及び安田プランの承認を受けて、11月6日の持株会社の解体を発表しました。その間に司令部は資料提出の対象を15社とその子会社へと広げ、特定会社の資産凍結を指示していました。さらに持株会社の解体指令により、4大財閥とその家族の資産凍結が命じられ、日本政府もこれに応じ、11月24日に会社解散制限令、12月8日には制限会社の規則などを公布し財閥解体政策の準備段階として資産凍結を行ないました。

昭和21年1月7日にエドワーズ調査団が来日し、財閥解体をより一般的な独占禁止政策に拡張すべきと主張しました。これを受けてアメリカ国務省では、日本の過度経済力集中に関するアメリカの政策の後の極東委員会文章を作成することになりました。財閥資産の処分に関しては、持株会社整理委員会令により持株会社整理委員会で行なわれました。当委員会によって処分された株式は616社保有の3436万6591株、解散した会社は42社で、過度経済力集中として再編した会社は18社でした。昭和21年10月8日に三井・三菱、16日には住友、29日には安田・富士産業から第1回の証券移管が行なわれました。エドワーズ調査団報告を基礎にまとめられた文章によると、過度集中による人物の排除と独占企業政策が示されています。これに応じ政府は、短期的な措置として、財閥同族支配力排除法を昭和23年1月7日公布即日施行、及び過度経済力集中排除法を昭和22年12月18日公布即日施行しました。長期的な措置として、会社証券保有制限令を昭和21年11月25日公布、私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律を昭和22年4月14日公布しました。過度経済力集中排除法は昭和22年5月に司令部ESSの反トラスト・カルテル課が作成した企業整備基準、7月に司令部作成の経済再建準備基準に基づいて経済安定本部が作成し、10月6日に国会へ提出されました。集排法に指定された企業数は325社ありますが、最終的に適用されたのは18社です。アメリカ政府が極東委員会の政策を支持しないことを表明し、冷戦時代に入ったことが集排法の大幅な指定解除になったと言われます。同様に独占禁止法も昭和24年6月18日に改正法が公布されました。このように財閥解体政策は昭和23年夏以降新たに発表されたものは緩和措置がほとんどです。昭和25年4月1日からは、持株会社整理委員会より公正取引委員会に集排法関連業務が移管され、整理委員会は自体は昭和26年7月2日に解散し、財閥解体が終了しました。

社会党は昭和22年4月の総選挙では143議席を獲得し第1党となりました。日本民主党、国民協同党の保守2党との連立でしたが、社会党党首の片山哲を党首に押し立てての社会主義政権でした。当然日本では初の社会主義政権です。しかし華やかだったのもここまでで、以後は野党第一党の地位は保ってきたものの、政権からは遠ざかることとなりました。社会党は安部磯雄、賀川豊彦らの呼び掛けで戦前の無産政党が集まり昭和20年11月2日に結成されました。昭和21年4月の総選挙では92議席、昭和22年では143議席をとったものの、24年1月の43議席と激減。その後は昭和33年の166議席が最高で万年野党に甘んじてきました。発足当初は、西尾末広などの右派が実権を握ってきましたが、国民政党か階級政党かの路線論争に明け暮れ、昭和25年1月と26年10月に左右に分裂し、その後昭和30年には統一が図られたものの、60年安保で再び分裂し、民社党が誕生します。この頃よりしだいにマルクス・レーニン主義を標傍する社会主義協会が力をつけ、左派中心の政策、党運営が行なわれるようになります。その中で昭和52年3月26日、構造改革論を唱えていた江田三郎が離党し、分裂の危機を迎えました。ここで長期低迷に歯止めをかけるべく党員の期待を一身に背負って登場したのが、横浜市長で元衆議院議員の飛島田一雄でした。しかしながら長期低落傾向には歯止めがかからず、昭和58年9月7日に社会党の定期大会で石橋政嗣と交代しました。社会党の低空飛行の原因はマルクス・レーニン主義に足をひっぱられ、高度成長といった日本経済の急速な変化に政策が取り残されて、現実と遊離した政策が身についてしまったからでした。国在立の基盤である外交政策でも、日本にとってもっとも大事な国であるアメリカを敵視したような長年取り続けてきたことが、民社党や公明党の出番を多くしたことは否めないことです。

第2次世界大戦中、軍部の手によって日本の政党政治は休眠状態となっていました。しかし、戦前からの筋金入りの政治家達はそのような状況下であっても、ひそかに政党の自主性を回復しようと、それぞれの主義主張のもとに機会をうかがっていました。東条内閣の末期の国会開院式の日、天皇の到着を待つ行列の中で、鳩山一郎と三木武吉は、近衛と木戸の後始末を2人でやろうと、固く誓いあったそうです。そして軽井沢の山荘に引きこもっていた鳩山一郎のもとに訪れる政治家の数も、敗戦が近付くにつれてしだいに多くなってきました。芦田均、安藤正純、槙原悦二郎といった自由主義派がその代表格で、鳩山と密接な連絡をとりながら、必死に終戦工作に奔走していました。そして、敗戦からわずか1週間後の昭和20年8月22日には、早くも鳩山一郎が焼跡のヤミ市の混乱状態のまっただ中の東京の街に戻ってきました。大政翼賛会から放り出されていた自由主義派の議員の集まりである同友会のメンバーを中心に、新しい政党を作ろうという動きが高まってきました。しかし、戦時中に軍部より厳しい弾圧に対して共にがんばってきた西尾末広や平野力三ら革新系の政治家のことを忘れられない鳩山は、自由主義にとらわれず、無産政党的な勢力を含めた進歩的な政党を作ろうと主張しました。2度と軍部の跳梁を許さない強固な進歩政党を作りたいという気持ちが強かったようです。しかし、肝心の西尾末広は鳩山が東京に戻ってくる前日に、戦前の無産政党を糾合した統一社会主義政党を作るという方針を固めていました。そこで鳩山はやむを得ず自由主義派中心の政党を作る事を進めることに決めましたが、それでもなお、昔の仲間を集めて戦前と同じような政党を復活させることは好ましくないと強く主張し、憲法学者の美濃部達吉や、作家の菊池寛、ジャーナリストの石橋湛山、朝日新聞専務の石井光次郎、日魯漁業社長の平塚常次郎ら、学界、言論界、経済界の自由主義者たちを大同団結した新しい政党の結成に取組み始めました。そして、昭和20年9月6日に東京・丸の内の常盤屋に新党設立事務所を開設し、11月9日には早くも日本自由党という名の自由主義政党の結党大会を開きました。鳩山一郎を総裁に据え、若手の河野一郎を幹事長に抜擢し、43名の代議士からなる新政党が発足しました。

日本自由党と並ぶ前後日本のもうひとつの保守党は日本進歩党という政党でしたが、戦争に全面協力した翼賛政治会を母体とした政党作りであるだけに、問題が山積しており、鳩山自由党のように順調には進みませんでした。翼賛政治会が結成されたのは昭和17年の翼賛選挙の直後ですが、466人の代議士のうち458人が参加していたこの会も東条内閣が倒れ、近衛ら天皇側近の重臣達が平和工作へ動くようになってたころより団結力がゆるみ、政党の自主性を回復しようとする政党派政治家の動きも活発化していきました。それを見て、終戦直後昭和20年の3月には小磯内閣が音頭をとって、翼賛政治会が大日本政治会という名前に変更されました。終戦の時、大日本政治会に籍を置いていた代議士は全部で377人でしたが、この中から最初に新党を結成しようと動き出したのは旧民政党の町田派と、旧政友会の中島派の政治家達でした。かねてから、本商工相の前田米蔵、元国務相の大麻唯男、元陸軍政務次官の三好英之らの専横ぶりを苦々しく眺めていた旧町田派の松村謙三、桜井兵五郎、勝正憲や、旧中島派の木暮武太夫、太田正孝といった中堅クラスが、まず新政党の結成に向かって立ち上がりました。そのような動きの中で、大日本政治会は昭和20年9月14日に解散し、分裂してしまいました。そしてお互いの新党への主導権争いを繰り広げたのち、昭和20年10月23日になって、ようやく長老組があっせんにのりだし、長老が一線を退く代わり、若手は分裂を避けてまとまることで意見が一致し、11月16日には進歩党の結党式が行なわれましたが総裁は決まらないままで、総裁就任が決まったのは12月18日になってからでした。総裁には83歳の長老、町田忠治、幹事長には鶴見祐輔が起用されました。

保守の最左翼から名乗りをあげたのは日本協同党です。日本自由党と日本進歩党の発足よりやや遅れて、昭和20年12月7日、元農商務大臣の千石興太郎、酪農家の黒沢西蔵、詩人の吉植庄亮、近衛の秘書井川忠雄らが中心となって協同組合研究所を作り、協同民主主義を政治原理とし、協同組合主義を経済原理とする新しい政党を結成することで合意しました。そして戦争末期に大日本政治会を離れ、護国同志会という政治団体を作ったグループの中からも、船田中、赤城宗徳、中谷武世らが加わりました。しかし、千石興太郎らの幹部クラスが公職追放となってしまい。そこで雑誌、改造の社長をしていた山本実彦を委員長に迎え、井川忠雄が書記長となって日本協同党という新政党を12月18日に発足させました。その綱領は

1、我々は皇統を護持し、民意の反映たる議会を中心とする民主主義体制の確立を期す。
2、我々は勤労、自主、相愛を基調とする協同組合主義によって、産業、経済、文化を再建し、民主的平和日本の建設を期す。

他の2つの保守政党のように国体の護持とはせず、皇統の護持と表現したところが特色でした。天皇制の継続は望むが戦前型天皇制の維持に必ずしもこだわらない考え方を示したようです。さらに政策大綱では協同組合を根幹とし、農工商勤労者一如の生産体制の確立振興を期すと協調し、資本の独占とあらゆる封建的要素の打破をうたっていました。明らかにフランスのフーリエ、英国のロバート・オーエンなどの空想社会主義の思想に源流をもつ協同組合主義の立場でした。

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