キューバ問題

1959年1月1日のカストロ政権の発足以来、CIAはカストロ首相の暗殺計画を進めていましが、他方ではより積極的なキューバ侵攻計画を着々と準備していました。特にグァテマラの太平洋岸シェラ・アドレ山脈高地のコーヒー農園には1200人以上のキューバ人亡命者達を集めて、盛んな軍事訓練を行なっていました。アイゼンハワー大統領は初めのうちは、なんとかカストロとうまくやっていけないものかと考えていたようですが、ニクソン副大統領は当初からカストロ政権を信用していませんでした。農地改革法によってカストロがアメリカ人の所有地をただ同然で強制収用しはじめてからというもの、ニクソン副大統領は盛んにアイゼンハワー大統領にキューバへの強硬措置を進言するようになりました。そして、1960年3月17日、アイゼンハワー大統領はついに、カストロ攻撃を実行するためにキューバ人亡命者達に軍事訓練をほどこしたいというCIAの申し出に正式許可を与えました。そうするうちにもカストロ政権の反米的な態度はどんどんエスカレートの度合いを強めていきました。1960年7月、カストロはとうとう政府、軍隊、労働組合を共産化してしまい、ソ連、中国と正式な経済協定を結びました。そして1961年3月、カストロからハバナのアメリカ大使館員の人数を48時間以内に11人に減らせという要請を受けるに及び、アメリカ政府はついにキューバとの国交断絶に踏み切ることになりますが、この年の1月20日には、ジョン・F・ケネディが大統領の座についていました。キューバ問題はアイゼンハワー大統領からケネディ大統領に至る50年代から60年代にかけての2代にまたがるアメリカ政府の難問題として持ち込まれたのでした。

ケネディ大統領は正式就任を前に、すでにCIAの計画についての基本的な承認を与えていたそうです。そして、1961年4月7日、大統領在職わずか77日という時点で、ジョン・F・ケネディはキューバ侵攻作戦にゴーサインを出しました。1961年4月17日がピッグス湾上陸作戦の決行日と決められました。1400人のキューバ人達はトラックス基地で出撃命令を待っていました。CIAやアメリカ軍の顧問達は、彼らに向かって再び、侵攻に参加するのは君たちだけではない。攻撃がはじまるや、必ず72時間以内に合衆国陸軍と空軍が駆け付けると言い聞かせたそうです。2506派団といっても、1400人のうちに本当の兵士は135人だけで、残りのうちの240人が学生で、あとは漁夫や農民、それに医者、弁護士、地主、実業家などのカストロに恨みを持つキューバからの亡命者達で組織されていました。アメリカの顧問団から発表された最終的な侵攻計画は次のようなものでした。
ピッグス湾に面したキューバの海岸40マイルにわたって、3ケ所の浜辺を占領確保し、沼沢地帯を横切って海岸へ走っている道路を押さえるために、内陸部には落下傘部隊を投下させる。カストロの空軍は空からの攻撃によって麻痺状態に陥り、エスカムブレイ山に立て籠っている500人のゲリラ部隊も合流するため勝利は間違い無い。
そして、7隻の小艦艇からからなる侵攻軍の船団がキューバに向かってゆっくりと進み始めたころ、ニカラグアのプエルトリコ・カベサス空軍基地より8機のB26機が飛び立ちました。すでにこのとき、侵攻兵力はピッグス湾沖合いの定位置についており、潜水工員達は、海浜の侵入地点に目印をつけ始めていました。ケネディの命令にもかかわらず、どの浜辺でも最初に上陸した潜水工作員はすべてアメリカ人でした。そして、その工作員達はたちまち国民軍のパトロールに遭遇して銃火を浴び、奇襲攻撃は失敗してしまいました。キューバ人達は海岸のすさまじい銃火の目の当たりにしましたが、上陸用舟艇に乗り込みはじめました。しかし、この時すでに厳戒態勢に入っていたカストロの空軍は、舟艇と浜辺の兵士達に対して、激しい反撃に転じてきました。カストロ空軍のシー・フェリーが10日間分の弾薬と通信機械の大部分を積んでいた舟艇を一撃のもとに沈めてしまいました。侵攻部隊を援護していたB29機も、速度が遅いために、まったく計算に入っていないカストロ空軍のT33機に襲いかかられ、たちまちのうちに4機が撃墜されてしまいました。練習機とはいえ、T33型機というのは50口径の機関砲を装備した高速のジェット機だったのです。歴史家のアーサー・ショレンジャーは、このピッグス事件を大失敗と断定しています。

ピッグス湾の失敗の根源は、外交に疎いアイゼンハワーに強攻策をとるように強く進言したニクソン副大統領にあります。カストロがソビエトの手下であることをニクソンはかなり前から知っていたようですが、カストロの登場はバチスタのような暴君的独裁者を追い払い、キューバ国民の熱狂的な支持を受け、アメリカを脅かす存在ではない間は手をつけられませんでした。そして次第に反米的な政策をとりはじめるとニクソンは、アイゼンハワーに強硬策の実行を進言します。つまり、CIAにカストロ転覆をはかるキューバ内の地下組織と協力する気構えでいるキューバ人亡命集団を軍事支援することを命令したのです。ケネディが就任早々にキューバ問題の助言を求めたのは、このときの原計画を策定した人達でした。民主革命戦線のミロ・カルドーナ博士は侵攻軍がひとたび上陸すればキューバ国内に民衆蜂起が起きる。というのはキューバ国内はカストロのやり方に対する不満が充満しているからだと、ケネディに保障したのでした。最終的には失敗でしたが、ケネディは途中で自分がいかにいい加減な情報で動いていたかを知ることになりました。以前から侵攻作戦はもつれていたのです。CIAの指導のもとで作られた軍事訓練キャンプの存在はアイゼンハワー政権末期の1960年10月の段階では新聞報道するところになっていたのです。ケネディはカストロはこの国に諜報員を置く必要はない、アメリカの新聞を読んでいれば済むのだから。と激怒するありさまでした。侵攻軍の全滅を防ぐ最後の手段をケネディはとりませんでした。それは空からの援護です。世界最強の空軍力をもってすれば、アメリカが勝つ事は可能でした。しかしそれは軍事的勝利であって、キューバ国民の支持を得ることはできません。あくまでもキューバ人が勝利することがこの計画の目標なのです。しかもアメリカの空軍力を本格的に使えば、ソ連がどう出るかが分からず、就任早々世界大戦の種をまくわけにはいきませんでした。ケネディは思わぬ事態にあせるCIAの要請をふりきって空からの援護を拒否しました。侵攻軍は全員が殺され、あるいは捕まりました。そして捕虜となった者は1年後に総額5600万ドルにも及ぶ食糧と医療物資と引き換えにアメリカに引渡されました。たしかにケネディの失敗でした。大統領としての能力と判断力が問われたことは事実です。しかし、最後の空からの援護を拒否したことは、ケネディが最後までこれを強行する意思がなかったことは間違いありません。一方でケネディは非凡な指導者としての片鱗も見せました。それはこの世紀の大失敗の責任から逃げなかったからです。曰く、勝利には100人の父親がいるが、敗北は孤児である。

1961年1月17日、コンゴのパトリス・ルムンバ首相がカタンガ州で殺害されました。享年36歳の短い生涯でした。数あるアフリカの指導者の中でもルムンバほど人気のあったアフリカ指導者も少なく、1925年コンゴ国内に200以上もある部族の中でも、小部族に属するサカイ州の一寒村で生まれたルムンバは、持ち前のカリスマ的魅力と愛国の情熱だけを武器に、たちまちトップの地位に登りつめました。1960年はアフリカの年といわれ、1月1日にカメルーンの独立を期に、全部で17の国がいっせいに独立しました。コンゴはスーダン、アルジェリアに次ぐアフリカ第3位の広大な国土を持ち、世界第一位の工業用ダイヤモンド、コバルト、アフリカ第2位の銅のほか、金、銀、鉛、亜鉛、カドニウム、マンガン、石炭などの豊富な地下資源に恵まれていました。そして1960年6月30日、ついに独立を達成しました。独立直後の5月、新しい国家の指導者を決めるための総選挙が行なわれましたが、中央議会137議席のうち、ルムンバが率いるコンゴ民族運動党が33議席を獲得して第1党となりました。しかし、独立後のコンゴにおいて、旧宗主国のベルギーに代って経済支配を狙っていたアメリカは、民族主義的色彩の強いルムンバを嫌って、獲得議席わずか12の第4党にすぎないアバコ党のジョセフ・カサブブを大統領の席につけようと暗躍し、成功しました。しかし、首相の地位を手に入れたルムンバも負けてはおらず、ベルギー軍の撤退が遅れればソ連軍を投入すると脅しました。驚いたアメリカは、国連の安全保障理事会をあやっつて、コンゴの秩序を維持するためという口実のもとに現地に国連軍を送り込みました。そして1960年7月下旬、ルムンバ首相はアメリカを訪れ、クリスチャン・ハーター国務長官やダグラス・ディロン国務次官と会談しました。しかし、ルムンバの訪米はアメリカ側の印象を悪くする結果しか生みませんでした。ディロン国務次官によると、ルムンバは非合理的でほとんど精神異常者のような印象をアメリカ政府側に与えたそうです。

1960年7月の会議の直後、国防総省に国務省、統合参謀本部、CIAの各代表が集まり会議がもたれましたが、ディロン国務次官によれば、ルムンバ暗殺計画の可能性に関する問題がいとも簡単に議題に取り上げられたということです。しかし、アメリカ政府のこのような態度に強く反発したルムンバ首相は、ソ連軍との接近度をますます強め、9月にはルムンバ支持の最も強いカサイ州にソ連製の飛行機、トラック、技術者などを運び込みはじめました。しかし、1960年9月5日、ルムンバ首相は突然カサブブ大統領によって解任され、9月14日には軍事クーデターに立ち上がったモブツ・セセ・セコ将軍との権力闘争にも敗れてしまいました。そして1960年9月19日、パトリス・ルムンバは、レオポルドビルの国連平和維持軍の保護拘禁下に入りました。1961年、CIAはいぜんとしてルムンバ復帰の可能性に怯えていました。折からコンゴ軍と警察が政府当局に対して、大幅な給与引き上げが認められなければ反乱に立ち上がると脅していたからです。反乱が起れば、彼らがルムンバをかつぎ出すことは明らかでした。CIAレオポルド支局のヘッジマンは、コンゴ政府に対して思いきった措置をとらなければ彼らは2、3日うちに反乱を起こすだろうと忠告しました。そして、1月14日ヘッジマンはコンゴ政府の指導者の1人からルムンバの身柄は、モブツの軍隊によって逮捕されて以来ずっと監禁されていたサイスビルの兵舎から、バクワンガに移される予定だと知らされました。バグワンガはムルンバのことを敵視して狙っている部族が本拠地としている地域です。1月17日、コンゴ政府当局は、ムルンバと彼の支持者モーリス・ムポロ、ジョセフ・オキテの3人をバクワンガ行きの飛行機に乗り込みさせました。しかし、国連軍がバクワンガ空港で待ち伏せしていると聞いた同機は、途中で進路を変えて、カタンガ州のエリザベトビル方向へ向かいました。そして、2月13日、カタンガ臨時政府から、前日ルムンバと彼の同志が2人が脱走し、敵意を抱く村民の手で殺害されたという公式発表がなされました。しかし、国連調査委員会は、このカタンガ臨時政府の報告だけでは納得しませんでした。同委員会が独自に調査した結果では、ルムンバは1月17日、カタンガ州に到着した直後に殺害され、それは恐らくカタンガ州当局の指示によるもので、レオポルドビルの中央政府もこの事を知っていたはずであると伝えています。

米ソの宇宙開発競争の次ぎの目標は、人間を乗せた人工衛星を打ち上げることでした。しすし、そのためにはスプートニクやエクスプローラーとは比較にならないくらいの大きな威力を持ったロケットを開発しなければなりません。ここでもアメリカとソ連という2大大国の間で激しい競争が演じられましたが、結局はソ連が勝ちを占める結果となりました。アメリカは1960年から61年にかけて、ロケットの推進力を上げるための必死の努力をしたため、気象衛星タイタロスや航海衛星トランシット、通信衛星エコーなどの大きな実用衛星を打ち上げることに成功しくした。そして、そのような技術を背景として、通信衛星クーリエやミサイル警報衛星ミダス、空中偵察衛星サモス、軍事開発衛星ディスカバラーなどの軍事衛星の開発も急速に進んでいきました。しかし、ソ連の方はさらに進んでおり、1960年から61年にかけて、重量4トン半もある5つの巨大な衛星船を打ち上げ、そのうち3つを地上で回収することに成功しました。そして、宇宙からの帰還の可能性を確かめた後、ついにソ連は、61年4月12日にガガーリン少佐を乗せたヴォストーク1号を打ち上げました。カガーリン少佐は、人類として初めて地球を1周し、これまで誰も見た事のない全体像を肉眼で確かめ、地球は青かったと、無電で報告してきました。その間1時間48分。ガガーリン少佐は地表から180kmないし300km離れた楕円軌道を飛び、これまた人類初となる無重力状態を体験しました。そして、さらに4ヶ月後の8月6日にも、今度はチトフ少佐を乗せたヴォストーク2号が打ち上げられ、滞在時間25時間という新記録を打ち立て、その間に3度の食事をとり、7時間半眠り、地球を17周したのち、翌朝地球上に生還しました。

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