ベトナム戦争

1945年の日本の敗戦直後、8月19日を境に、ホー・チ・ミンらはベトナム全土で一斉に蜂起し、9月2日にはハノイを本拠にベトナム民主共和国の独立を宣言し、臨時政府を組織しました。そして日本軍の後に戻って来たフランスとの間にフランス連合国内の独立国として認めてもらうことを条件にハノイを結成し、ここに本格的な独立を達成しました。しかし、ホー・チ・ミン政権が次第に共産主義化してゆくのを見て、アメリカは大いに脅威を感じ、再びバオダイ帝に軍事援助を与えはじめました。このアメリカの協力を背景として、フランスも本格的な軍事介入に乗り出しました。しかし、アメリカの梃入れにもかかわらず、フランス軍はベトミンに勝つことはできず、1954年ディエンビェンフーの決戦で敗北し、ベトナムを南北に分割するというジュネーブ協定を受け入れました。そして1955年10月、サイゴンを首都にバオダイ帝の南ベトナム共和国が樹立され、アメリカに亡命していたゴン・ジン・ジェムが初代大統領に就任しました。時のアメリカ大統領のアイゼンハワーは、ゴン・ジン・ジェム率いる南ベトナム政府に対する緊急援助の決定を行なうと同時に、CIAを使い北ベトナムに対する秘密の謀略作戦を開始しました。しかし、アメリカ政府当局のそのような梃入れにもかかわらず、南ベトナムのジェム政権をめぐる情勢は、日増しに悪化し、テロが頻発していきました。アメリカのいうベトコンが南ベトナム民族解放戦線として正式に発表したのは、1960年12月20日のことですが、当時すでに8万人、そしてそれからわずか1年もしないうちに30万人を超える一大戦闘集団に急成長していきました。ジョン・F・ケネディが第35代大統領に選ばれたのはこの時で、就任早々の1961年4月に敢行したキューバ侵攻作戦が見事に失敗し、大きな痛手を被ったばかりのケネディ政権は、その損失を取りかえすために、ベトナムに対する賭け金を一挙に増やしたといわれています。1961年5月11日、ケネディ大統領はアメリカ特殊部隊グリーンベレー400人と軍事顧問団100人を南ベトナムに急派するように命じました。一見すると人数が少ないように感じますが、サイゴン駐留のアメリカ軍事顧問団の規模は685人を限度とするというジュネーブ協定の規定に照らし合わせれば、何を意味するかは一目瞭然でした。アメリカはジュネーブ協定をまったく無視して、ベトナム戦争に全面的に介入する決意を固めたのです。

1961年11月にすでに協定の許容数を超えて948人に達した南ベトナムの駐留アメリカ兵は、翌年の1962年1月には2646人に増え、ジェム政権が倒れ、同時にケネディ大統領が暗殺された年の1963年始めごろには、早くも1万6732人まで急膨張していました。そしてケネディの後を引き継いだリンドン・ジョンソン大統領は、1964年7月末より8月にかけて、アメリカ第7艦隊の駆逐艦マドックス号と北ベトナム魚雷艇が戦闘をかわしました。いわゆるトンキン湾事件を機にエスカレーション政策を開始し、アメリカは決定的なベトナムの泥沼に引きずりこまれていきました。ベトナム戦争の最盛期には、アメリカは55万人以上の大軍をインドシナに送ったうえ、さらに北ベトナム領内に対する直接攻撃まで加えました。しかし、戦局を好転させることはできず、ジョンソンは再選を断念し、戦争を始めた民主党は、1969年に共和党に政権の座を奪われてしまいました。そして1969年7月、ニクソン新大統領はアメリカ軍の撤退と南ベトナム軍の強化を骨子とするグアムドクトリンを発表し、翌年の1970年から本格的な撤退を開始しました。しかし、同時に南ベトナム政府軍の後方安定のために、1970年3月18日にカンボジアのロン・ノル首相に反シアヌーク・クーデターを起こさせ、親米的なクメール共和国を成立させました。ただちにアメリカ・南ベトナム軍はカンボジア領に入って、解放軍の帰討作戦を展開して、追われたシアヌークは左派クメール・ルージュと連合してカンプチア統一戦線を結成し、各地でゲリラ活動に入りました。1971年2月、アメリカ・南ベトナム軍はラオス南部に出兵し、北ベトナムと解放戦線の連絡ルートを絶とうとしました。こうして戦線は一挙に全インドシナに拡大し、第4段階に入りました。しかし、3国でのアメリカ・南ベトナム軍の攻勢はいずれも失敗し、ラオス、カンボジアではかえって解放区の大拡張をみたのです。1972年12月、最後の軍事的圧力としてアメリカ軍によるハノイ、ハイフォン地区の猛爆撃が試みられましたが、国際世論の猛反発を受けました。こうした中、名誉ある撤退を目指すアメリカと完全勝利を目指す北ベトナムとの間の和平交渉がキッシンジャーとレ・ドク・トの間で精力的に行なわれ、1973年1月27日にアメリカ軍撤退を主内容とするパリ協定が調印されました。以後アメリカ軍の火力支援を失った南ベトナム軍の劣勢は逃れられず、1975年3月のバンメトートの陥落を機に南ベトナム軍内部の第崩壊が始まりました。4月30日、ズオン・バン・ミン新大統領はサイゴンを包囲する解放勢力に無条件降伏し、南ベトナム臨時政府の主権が確定しました。1976年には北に吸収合併されてベトナム社会主義共和国が生まれました。

アイゼンハワー共和党政権下では、ダレス外交の対ソ強硬姿勢もあり、いわゆる冷戦構造にはほとんど変化は見られませんでした。しかし、1960年11月の選挙で若いジョン・F・ケネディが当選し、翌年の1961年の1月からいよいよ民主党政権が発足するに及んで、雪解けムードが漂ってきました。1961年6月3日と4日の両日、ウィーンで米ソ首脳会談が開かれたのもそのような変化の兆しがあったからですが、その結果はかえって東西関係を悪くするものでした。この会談の席上で、ソ連側がドイツ・ベルリン問題に関する覚書を提出し、期限を切って問題の解決の要求を強く迫ってきたため、ベルリンをめぐる東西の対決がまたもや表面化し、世界に緊張感がみなぎることとなったのです。そしてこのケネディ・フルシチョフ会談の直後から米ソの激しい軍拡競争が始まり、それまで約3年間にわたって停止されていた核実験競争までが再開されることとなりました。

ベルリンの発展とドイツ帝国の形成の歴史とは一致しています。18世紀以前のベルリンは、ブランデンブルク地方の1ローカル都市にしか過ぎず。人口も3万人たらずの小さな町でした。しかし、1871年にビスマルクのドイツ帝国の建設と同時に首都となり、引き続きワイマール共和国からナチスの第三帝国の首都として受け継がれていくうちに、折からの産業革命の波に乗って繁栄をとげていきました。その最盛期には人口435万人を数える世界有数の大都市として君臨していましたが、1945年の冬から春にかけて、連合軍の猛攻に合い、市内の全建造物の5分の1が完全に破壊され、人口も280万人にまで激減しました。そしてヒトラーの死とともにベルリン市内に入って来たアメリカ、イギリス、フランス、ソ連の軍隊によって占領下におかれ、やがて1954年の7月11日には、それら4カ国による分割統治が始まりました。それまでは統一ドイツの首都として大ベルリンとも呼ばれる空前の繁栄をおう歌していたというのに、一瞬のうちに市内に激しい境界線が引かれ、アメリカ占領区、ソ連占領区などの4つの地区に分断されてしまいました。それでも、ドイツ管理理事会という名の国際機関によって市の行政が一元的に運営されていましたが、1948年3月にソ連が理事会を脱退するに至り、ドイツの統一はますます危ういものとなっていきました。それから3ヶ月後の6月24日、西側の占領区で通貨改革が行なわれたのを引き金に、ソ連がベルリン封鎖に踏み切ってしまいました。西側の占領区からベルリンに通じるあらゆる陸上交通路がソ連の手によって遮断されてしまったため、孤島のような状態に追い込まれました。これに対して、アメリカなどによる大規模な空輸作戦がなされ、ベルリン市民は食糧やエネルギーを確保することができましたが、東西世界の冷戦はますます激しくなっていきました。

1949年10月のドイツ民主共和国(東ドイツ)の成立に伴い、東ベルリン地区をその首都として定めるという宣言が発表となりました。やもえず、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)の方は、統一ドイツの象徴として長年親しまれてきたベルリンをあきらめざるを得なくなり、ボンを新しい首都として定めました。こうして、かつてのヨーロッパ最強の国家として栄えたドイツも、2つの国家に分断したままそれぞれの道を歩みはじめたのです。それでも分裂直前の1949年5月にベルリン封鎖が解かれていたために、東ベルリンと西ベルリンの間は自由に行き来できるようになっていました。ところが、次第に東ドイツと西ドイツとの経済発展の落差が大きくなってくるにつれて、ベルリンを経由して東ドイツ側から大量の労働者が西ドイツに流れ出すようになり、東ドイツ経済が根底から脅かされるようになりました。そこで、東ドイツ政府は遂に意を決して、1961年8月12日から13日のわずか一昼夜のうちに、突如、東西ベルリンの境界線に沿って壁を構築してしまいました。総延長156kmにも及ぶコンクリートや鉄条網の壁を張り巡らし、東西ドイツ間の交通路を一瞬のうちに遮断してしまったのですから、その衝撃ははかりしれないほど大きいものでした。ベルリンの壁は激化していく一方の冷戦の象徴となったのです。しかし、電波だけは自由に飛び交えために西側の音楽が東側のラジオに入り、西側の生活スタイルや贅沢な商品がテレビの電波に乗って東側の世界へ浸透していきました。そして東ドイツの民衆の不満と怒りが日増しに高まっていき、1989年の夏から秋にかけて爆発寸前のところまできてしまいました。エーリッヒ・ホーネッカーが35年もしがみついてきた権力の座から滑り落ちたのもそのせいであり、代って登場したエゴン・クレンツ書記長が起死回生として打ち出したのがベルリンの壁の撤去でした。しかし、問題はこれで解決したわけではなく、ベルリンの壁崩壊はドイツ問題の始まりとなったのです。

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