日中共同声明

沖縄返還問題も戦後処理り重要問題でしたが、日本と中国との国交正常化もやはり戦後処理の重要問題でした。そもそも、台湾の中華民国政府が中国の唯一の正統政府であるという見方は無理がありました。台湾の中華民国政府が敗戦でうちひしがれていた日本に深い理解をもっていたという恩義を考えると、またアメリカが台湾を唯一合法政府だと認めている以上は、アメリカのアジア戦略の中に組込まれている日本が、中国問題で先行するわけにはいきませんでした。現に講和条約の際にアメリカは日本が台湾の政府と平和を回復すべきであると圧力をかけてきました。この圧力を受ける形で昭和26年12月に、吉田首相がアメリカのダレス大使に書簡を送り、これにより日本は日華平和条約を結んだという歴史的事実があるのです。よって日本政府は中国問題については常にアメリカと歩調を合わせ、ひたすらアメリカの機嫌をそこねる行動を避けてきたのです。情勢を変えたのは昭和46年7月15日のニクソン大統領の訪中発表で、昭和47年2月21日の中国訪問でした。これで日本は中国問題に関する障害がなくなったのです。昭和47年に佐藤栄作首相が退陣表明を行ない、日中国交正常化をうたった田中角栄が首相の座についたことで、中国にしても正常化の話しを進めやすかったのです。昭和47年9月25日、田中首相は大平正芳外相、二階堂進官房長官の腹心を連れて周恩来首相の持つ北京空港に降り立ちました。9月29日の日中共同声明により戦後27年を経て、ようやく日本と中国の戦後が終わったのです。日華平和条約はこれにより存在意義を失い終了しました。しかし、この国家間のもっとも重要な出来事である条約を大平外相の記者会見、日中関係正常化の結果として日華平和条約は存続の意義を失い終了したものと認められるというのが日本政府の見解であると言った為に、台湾政府は直ちに日本に断交を通告、日本国内のタカ派の猛烈な反発を受けることとなりました。9月29日の調印の日中共同声明第8条は、両国の平和友好条約の締結を目的として、交渉を行なうことに合意した。と述べています。日中国交正常化が、平和条約を後回しして共同声明方式をとったのは、日本側がすでに昭和27年の日台条約で中国との戦争状態は終結しており、二重に条約を締結することはしたくないと主張し、中国側もこの問題で国交正常化が遅れることがないよう、折り合ったからでした。平和条約ではなく、平和友好条約の呼称をとったのも同じ意味合いだったからです。

昭和47年秋から、卸売物価の上昇が目立ってきました。これは世界各地で木材、非鉄金属、繊維原料などに対する需要が急増し、それらの価格が上昇したことや異常気象により食糧が不作となり、国際価格が高騰したことなどがあります。卸売物価は昭和48年3月に前年同月比11.0%と2ケタの伸びとなった後、石油危機も加わり騰勢を強め、12月には29%の上昇となりました。昭和49年に入っても騰勢はとどまることを知らず、前年比30%以上の上昇を記録しました。当時の福田大蔵大臣は、昭和48年秋から昭和49年2月までの物価高騰を仮需要、投機による狂乱物価と表現しました。卸売物価の月間上昇率では、昭和48年6月から騰勢が強まり、7月以降全商品に値上がりが波及しました。特に非鉄金属、鉄鋼といった金属関連製品の値上がりが大きかったほか、製材など海外市場の上昇を反映した動きも目立ちました。10月以降は石油危機の影響を受けて、騰勢はさらに加速され異常な事態となりました。狂乱物価の主因は石油危機よりも、それ以前に国内景気の過熱による需要の切迫や海外1次産品価格の上昇といった要因がありました。こうした卸売物価の上昇は、消費者物価に波及していきました。昭和48年5月に前年同月比で10%台となった後、12月には19.1%、昭和49年2月には26.3%と、第2次世界大戦直後並みの大幅な上昇を示しました。この間も政府は物価対策には力を入れ、昭和48年4月、8月と物価安定策をまとめるとともに、昭和48年中5回にもわたり公定歩合を引き上げ、年初の4.25%から年末には9%という高水準を生み出しました。さらに、石油需給適正化法、国民生活安全緊急措置法、生活関連物資の買い占め売り惜しみに対する緊急措置に関する法律を新たに制定するとともに、物価統制令の改正を行ない、物資の需要の調整に介入してまで物価の安定に努めました。しかし、物価上昇は加速する一方で、昭和48年10月には、物不足パニックが起きました。そんな中で企業は売上高を大幅に伸ばし、利益も増大させたために、商品、土地の買い占め、売り惜しみや便乗値上げなどの現象がおこり、これに対して批判が強まりました。公害問題とともに、企業の社会的責任を問う声も強くなっていきました。

過剰流動性は第2次世界大戦直後に、貨幣以外の短期国債のような流動性資産が過大に存在していることを示す言葉でした。しかし、昭和48年の物価上昇時には、貨幣の過大な供給に対して過剰流動性という言葉が、広く使用されました。物価上昇にはいくつかの原因が考えられます。その一つは賃金や原材料価格の上昇が製品価格を上げるコストプッシュインフレがあげられます。次に原油など海外からの輸入品の値上がりで物価上昇が導かれる輸入インフレがあります。そして独占状態の大企業が価格をつり上げる管理価格インフレが考えられます。しかし最も一般的なインフレとして、需要が供給を上回ることによって生じるデマンドプルインフレがあります。デマンドプルインフレの背景には、過剰流動性が存在していることが多いのです。昭和48年の過剰流動性の原因は、第一に昭和46年から48年にかけて、2年以上にもわたって貨幣供給量を増大させたことです。実質GNPの伸びをはるかに上回り、年率25%から30%もの高いペースで貨幣供給を増やせば過剰流動性が生じるのは当然のことでした。こうした金融緩和措置は円切り上げに伴う輸出の停滞と、それに伴う民間投資の減退などが深刻な円切り上げ不況を招くと予想して行なわれました。昭和47年には公定歩合は引き下げられ、年4.25%と先進国でも最低水準にありました。貯金準備金も低く、窓口規制も緩やかでした。次に昭和47年、48年の大型予算があります。昭和47年度予算は前年度比で一般会計21.8%増、財政投融資31.6%増の大幅な伸びを示しました。引き続き昭和48年度予算は、日本列島改造計画を看板に掲げた田中内閣が積極財政をとったために、一般会計で24.6%増と戦後最高の伸びとなったほか、財政投融資も28.3%の増加を見せました。この結果、歳入の国債依存度は16.4%となり、借金財政体質が強まりました。そして、国債収支の黒字で蓄積された外貨が国内に流入したことがあげられます。この効果は、昭和46年から昭和47年にかけて大きく動きました。総合収支は、昭和46年に77億ドル、昭和47年には47億ドルと大幅黒字となり、外貨準備高も昭和48年2月末には192億ドルにまで達しました。こうした過剰ドルが、円として国内貨幣供給の増大に作用しました。この結果昭和47年から48年の通貨供給量は、大幅な伸びを記録しました。実質GNPの伸びを超えた貨幣供給の伸びが長期間続けば、その分物価上昇につながります。こうして昭和47年から48年の過剰流動性が、その後20%以上の物価上昇を引き起こしたのは経済のシステムにそった動きでした。

1973年1月27日、フランスパリでアメリカ、北ベトナム、南ベトナム、臨時革命政府の間で、ついに和平協定が調印されました。この協定は23箇条の協定正文と4つ議定書からなり、単なる停戦協定ではなく、南の総選挙を含む自決権の問題、国際会議の開催、復興協力など幅広く取り決めています。協定の内容は1954年のジュネーブ協定が承認したベトナムの独立、主権統一および領土保全の尊重。停戦はグリニッジ標準時27日24時。敵対行為、攻撃の禁止。アメリカは軍事介入を止め、内政干渉せず。60日以内の米軍撤兵。60日以内の基地撤去。兵員武器などの輸入禁止。米軍撤退と同時に捕虜釈放を終わる。アメリカ、北ベトナム、南ベトナム人民の自決権の尊重、自由な選挙により政治的将来の決定を尊重する。南両当事者の停戦の順守。報復行為の禁止、民主的自由の保証。民族和解一致全国評議会の設置。南におけるベトナム軍隊の問題の当事者解決。平和、独立外交の原則。平和的段階的再統一、非武装地帯の尊重。四者合同軍委員会の設置。二者合同軍委員会の設置。国際管理監視委員会の設置。国際会議の開催。カンボジア、ラオスの中立の尊重。アメリカの復興援助など。議定書は捕虜釈放、国際管理監視委員会、機雷撤去、停戦の4つです。この協定の大きな特徴は、軍事と政治解決が分離されたこと、チュー政権の存続が認められたこと、この2つは北側の譲歩です。また南内部の北ベトナム軍の撤退問題にふれなかったこと、南に2つの当事者が認められたこと、これは南側の譲歩です。内容的には1972年10月の和平9項目協議案と基本的には変わりませんが、民間人の返還、非武装地帯の暫定据え置き、アメリカと北ベトナムの平等関係が新たに加えられたこと。これがまやかしであったことは1975年4月30日のサイゴン陥落、さらに続く76年7月2日の北ベトナムによる南北ベトナムの統一でハッキリと証明されました。

昭和46年8月15日のニクソンショックにより、戦後の日本経済を支えていた1ドル360円体制が崩壊したあと、12月17日から18日のスミソニアン会議により通貨の多国間調整が実現し、1ドル308円の固定レートによる対外取引が開始されました。しかし、昭和47年早々より、この多国間通貨体制は波乱に見舞われました。対ドルレートの切り上げは、当初上下2.25%の変動幅の下限よりスタートしましたが、1月には早くもドル売りが強まり、上限に張り付く様子となりました。これは、景気回復を急ぐアメリカが低金利政策をとったこと。アメリカの国際収支がなかなか改善しなかったことなどによります。このために西欧諸国は公定歩合を引き下げて、ドルの流入を阻止しようとし、ドル相場はやや持ち直しました。しかし、昭和47年に入ってイギリスポンドに危機が押し寄せました。これはイギリスの貿易収支が赤字に転じたこと。イギリスの経済の先行きに不安が持たれたこと。スミソニアン会議でのポンド切り上げが過大評価であったことなどから、ポンド売りが殺到したことによります。この結果、イギリス市場は閉鎖されました。他の西欧市場にはドル売りが押し寄せ、相次いで閉鎖となりました。日本市場も追随しました。この後ポンドは当分の間、変動相場制を続けること、他国はスミソニアン体制を維持することを柱として6月中に市場は再開しました。昭和48年の国際通貨情勢も波乱で始まりました。1月22日に欧州通貨の中でも最も弱小のイタリアが二重為替相場制導入にふみきりました。イタリアの二重為替相場制は貿易取引などの経営取引はスミソニアン合意のレートで、基本取引は自由相場とするものでした。これを嫌った投機資金は、翌23日にスイス・フラン買いに広がり、スイスは変動相場制に移行しました。次に投機資金は、西ドイツ市場に向かい、2月1日2億ドル、2日8億ドルとドル売りが殺到しました。こうした動きは東京市場でも見られ、2月10日東京市場は閉鎖されました。その後新しいレートを模索するための交渉が続けられ、結局ドルの10%切り下げ、マルク・フランの切り上げ、円の変動為替制への移行、ポンドは変動相場制の続行という形で合意がなされました。2月下旬になってマルク、フランが急上昇したことから、これらの対ドルレートも変動相場制となりました。こうして1ドル308円という昭和46年12月のスミソニアン体制は14ヶ月で崩壊し、日本は欧米主要国とともに、3月19日変動相場制へ移行することとなりました。

ESAはそれまでのESRO(欧州宇宙研究機構)とELDO(欧州ロケット開発機構)を統合して作った西ヨーロッパにおける新しい一元的な宇宙開発のための国際機関です。1973年7月に西欧10ヶ国の間で設立の原則的合意に達し、1975年5月末にパリで協定が調印され正式に発足しました。ESAに加盟しているのはドイツ、フランス、イギリス、イタリア、ベルギー、オランダ、デンマーク、スイス、スウェーデン、スペイン、アイルランド、オーストリア、ノルウェーの13ヶ国で、欧州共同ロケットアリアンの打ち上げ。海事衛星マロットの打ち上げ。宇宙実験室スペースラブの開発など、ヨーロッパ独自のハイ・フロンティアの開拓を目指し全力をあげています。中でも最も力を入れているのはアリアンロケットの開発と製作で、1979年12月に第1号機を打ち上げたのを手始めに、1981年6月に第3号機を打ち上げに成功、これを機にいよいよ実用化の段階に入りました。それまでの米ソの宇宙支配の風穴をあけ、ヨーロッパ独自宇宙産業への道を切り開きはじめたのです。とくにビジネスとして最も魅力ある通信衛星の打ち上げ部門において、アメリカへの依存体制から脱却し、世界各国の新規需要に答えられるようにと、セールス活動にも全力を上げています。すでにフランス、ドイツ、中国、及びインテルサット(国際電気通信衛星機構)が使用する予定の通信衛星や衛星放送などの実用衛星を打ち上げる契約も成立させています。アリアン計画の中心となっているのは、ユーレカの推進などハイテク立国に全力をあげているフランスで、開発費総額12億ドルのうち、約64%を負担しています。これまでに全長47m、重量210トンの3段式液体燃料ロケットで、重さ約1トンの衛星を静止軌道に打ち上げるための実用化技術を確立しました。

ベトナムがアメリカの悪夢なら、アフガニスタンはソ連の悪夢でした。そもそも、アフガン紛争の発端は1973年7月17日に起ったクーデターでした。それまでの王制に反乱を企てたダウド元首相は、政権掌握後にただちに王制を廃止し、共和国への移行を宣言しました。対応が早かったのはソ連でした。ソ連は他国に先駆けて新政権を承認し、新しい友好国獲得のためにすばやい行動をとりました。しかし、ダウド自身も1978年4月27日のクーデターにより殺害されて、あっけない幕切れとなりました。代って登場したのがタラキで、タラキは自ら革命評議会会長に就任し、権力を手中におさめました。ソ連は新政権とその年の12月5日、ソ連・アフガニスタン友好善隣協力条約を締結し、友好国としてアフガニスタンとの地歩を固めました。しかし、翌年の9月16日、タラキ革命評議会議長は突然解任され、銃撃戦の中で死亡し、アミンが実権を握りました。友好国としての地位を揺るぎないものにしたはずのソ連にとっては衝撃的な出来事でした。アミンはソ連離れを鮮明に打ち出し、さらに国内のイスラム教反政府勢力の勢いも増し、社会主義体制そのものが脅かされ始めたのでした。そして12月27日、アミン政権に対して起きたクーデターを絶好のチャンスとみたソ連はアフガニスタンに侵攻し、アミン議長を処刑、カルマル政権を登場させました。カルマルはタラキ時代の革命評議会議長兼第1副首相をつとめた人物で、まさに主君の恨みをはらした形のクーデターを成功させたのでした。ソ連に支えられたカルマルは、元首にあたる革命評議会議長と首相兼人民民主党書記長に就任し、全権力を掌握しました。アメリカのカーター大統領はただちにソ連の侵攻を非難し、モスクワオリンピックのボイコット、隣国パキスタンへの軍事援助、対ソ穀物輸出の大幅削減、議会に第2次戦略兵器制限条約の審議中断を要請するなど、報復措置をただちに発表しました。日本を始めとする西側諸国もアメリカに同調し、モスクワオリンピックのボイコットを始めとする報復措置を決定しました。

ソ連という軍事大国の力を背景としても、アフガン国内の反政府勢力を押さえることはできず、泥沼の中に足を引込まれていきました。たまらないのは隣国のパキスタンでした。反政府ゲリラと政府ソ連軍との戦争を避けようと人々がアフガニスタンからパキスタンに逃げ込んだのでした。その数は1988年には300万人といわれました。隣国のイランにも200万人の難民が押し寄せていました。第2のベトナム化を恐れた国連は、1982年6月16日、スイスのジュネーブでようやく第1回のアフガニスタン・パキスタン間接和平交渉を仲介し、遅まきながら和平への歩みをスタートさせました。しかし、ソ連も大国の意地があり、簡単に引く事は面子が許しませんでした。1983年5月16日、反政府ゲリラの7グループは反ソで団結し、アフガニスタン・ムジャヒディン・イスラム同盟を発足させ、アメリカからの武器援助をとりつけました。国連の和平交渉の呼び掛けに対して、イランは拒否、仲介役のコルドベス国連事務次官をはさんでアフガニスタンとパキスタンが交互に会い、なんとか話し合いは続けられました。しかし、戦局は膠着状態が続き、当事者のソ連は経済が悪化、指導者の交代が続きました。しかしこの交代こそが戦争の犠牲となっていたアフガニスタンの国民にとっては、幸運そのものでした。1985年に登場したゴルバョフは新しい時代の指導者でした。名誉ある撤退を水面下で探り始めたゴルバチョフは1985年11月24日の米ソ首脳会談でアフガニスタンからの撤退を示唆、注目を集めました。1986年5月4日、カルマルに代りナジブラが人民民主党の書記長に就任し、アフガニスタン自身も戦争後の体制を模索し始めていました。7月28日、ゴルバチョフは一部撤退を表明し、早速10月15日約8000人のソ連軍の撤退を開始し始めました。こうしたソ連の意向を受けて、87年1月1日ナジブラは国民に向かい国民和解政策を宣言しました。11月30日、ナジブラは新憲法を制定して、国名も民主を削除し、アフガニスタン共和国に変更しました。1988年4月7日、ゴルバチョフとナジブラは、タシケントで会談し、来る和平交渉への姿勢を再確認しました。4月14日、ジュネーブの国際連合欧州本部での調印では、国連側からデクエヤル事務総長、アフガニスタン側からワキル外務大臣、パキスタン側からはヌーラニ外務大臣、アメリカ側からはシュルツ国務長官、ソ連側からはシュワルナゼ外務大臣が出席しました。国連が仲介し、それをアメリカとソ連という超大国が保証するという枠組みで紛争解決は始めてでした。

1973年10月6日、第4次中東戦争が勃発しました。アラブ諸国のナショナリズムの高まりを背景としてエジプト、シリア両軍とイスラエル軍がスエズ湾付近とゴラン高原で交戦を始めたのが契機となりました。この中東戦争は18日間の戦闘の後、停戦に持ち込まれました。しかし、この戦争以降アラブ諸国は対イスラエル戦略という意味も含めて、石油を武器として意識し、石油供給削減という強硬手段を展開し始めました。原油公示価格は、昭和48年1月1日現在、1バレル2ドル59セントでした。OPECは海外1次産品価格急騰にも後押しされて、昭和48年6月に公示価格を11.9%引上げました。こうした動きは、第4次中東戦争勃発後さらに強まりました。昭和48年10月16日、OPECは毎月5%の原油削減を決定するとともに、原油公示価格を一挙に70%引上げ、1バレル5ドル11セントとしました。さらに、12月には昭和49年1月より原油公示価格を2倍に引き上げることを決定しました。その結果1バレル11ドル65セントとなり、1年間で4.5倍の大幅上昇するに至りました。この大幅な石油価格の上昇と供給不安の状態は石油危機と呼ばれました。石油危機はそれまでの石油に対する認識を徹底的に打ち破りました。中東やアメリカでは新しい油田が次々と発見されていたため、第2次世界大戦後の石油価格は実質的に値下がりを続けていました。その結果、日本の経済は流体革命と言われる石炭から石油へのエネルギーの主役転換が急速に行なわれました。産業構造も鉄鋼、科学といったエネルギー多消費型に転換していきました。エネルギーの中でも石油の比重は大きく、昭和48年にはエネルギー供給量の8割近くを占めていました。石油危機はこうした石油多消費型経済であった日本に対して、大きな影響を与えることとなりました。さらに日本はアラブ諸国から非友好国として扱われたために、石油供給削減の深刻な打撃を受けました。OPECの頑なな供給削減に対応して、昭和48年11月下旬より、石油消費規制をせざるおえませんでした。こうした規制は石油製品価格の高騰を招き、トイレットペーパーや洗剤などの入手困難なパニック状態を生み出しました。

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