南北国連同時加盟

形式的に両国の傷が癒されたのは1991年9月17日のことでした。そろって国際社会にに復帰しました。ニューヨークの国連本部で開催された第46回総会で韓国と北朝鮮は全会一致で国際連合への同時加盟が承認されました。韓国と北朝鮮はそれまでは単独加盟を前提としていました。それは国連加盟が朝鮮半島におろる唯一合法政府であることを認められたことになるからです。しかし、東西対立が続いている間は安全保障理事会で米ソの拒否権にあい、実現は程遠いものでした。様相が変わってきたのは、1985年にソ連にゴルバチョフが登場してからです。ゴルバチョフは社会主義の教義にしがみつき改革を怠っている同盟国を切りました。それは北朝鮮も例外ではありませんでした。経済力もあり、オリンピックも成功させ国際社会に確固たる地位を築いてきた韓国の方に友好関係を築いた方が有利です。ゴルバチョフは韓国へ近寄り、1990年9月30日、両国は関係を樹立します。自信を持った韓国は、国連加盟は単独でも同時でもどちらでも良く、国際社会へは一日も早く正式に参加しなければと、政策転換を行ないます。一方の北朝鮮は依然として南北朝鮮で1議席という建前にこだわり続けていましたが、頼みのソ連が心変わりしたため仕方なく、1991年5月、北朝鮮は遂に国連加盟を申請しました。

昭和24年から25年にかけて日本の伝統的な文化財が次々と失われていきました。特に三島由紀夫によって小説化されるほど社会的に話題となったのは、昭和25年7月2日未明の、国宝金閣寺の炎上でした。金閣寺は、室町幕府三代将軍足利義満が将軍職を退いた後、応永四年、京都北山に構えて移り住んだ別荘です。義満の死後遺命により建物は禅宗鹿苑寺となりましたが、とくに舎利殿は周囲に金箔を貼っていたことから金閣の名が起り、ついで鹿苑寺そのものも金閣寺と呼ばれるようになりました。室町幕府の盛時をしのばせ、北山文化の粋を伝える名利金閣寺が、瞬時にして灰となってしまいました。これは同寺の徒弟による放火が原因でした。動機は金閣寺の美に対する反感による、と報じられていましたが、そこにはアメリカイズムの流入によって伝統的な美意識を軽視した時代の狂気が明らかに象徴されていました。犯人逮捕後が悲劇で、その母は7月3日、汽車から保津峡へ投身自殺し、犯人は懲役7年の判決を受けましたが、刑務所内で精神障害と肺結核を患い、昭和31年3月7日に死亡しました。

日本労働組合総評議会(総評)は昭和25年7月11日から12日の第一回結成大会で正式に発足しました。朝鮮戦争が勃発した2週間後のことです。総評結成の準備は、前年の11月に私鉄総連が提唱した労働戦線統一のための懇談会の開催によって具体化しはじめました。当時の政治経済情勢は、国内的にはドッジ・ラインによる緊縮財政とそれに伴う企業経営合理化の下にありました。そのようなさなかに下山事件、松川事件など公安関係の事件が続発しました。こうした中、終戦直後結成された産別会議を批判する形で分裂した産別会議民主化同盟の結成、あるいは全国労働組合連絡協議会の解体などの動きが相次いで起りました。また、国際的には世界労運が分裂して、アメリカのAFL、CIOやイギリスのTUCが中心となって国際自由労連が結成されました。つまり、冷戦の影響でした。そして総評結成準備に当たっても、国際自由労連へ加盟する方向で議論されることとなります。戦線統一懇談会は、先に申し合わせた最初の懇談会に従って、昭和24年11月14日に正式に開催されました。私鉄総連の提唱のもとに、炭労、全日労、総同盟、新産別など19組織の代表が集まりました。その後、翌2月の第11回の準備委員会までに、基本綱領と規約に関する検討が行なわれました。しかし、第13回準備委員会で、新産別より日教組の提案である議長制と会費の増額に関して異議が提起されました。そして、総評の結成準備大会の直前の3月9日に新産別は総評への参加をとりやめました。新産別は機関の官僚化と産報化を招くことをその主な理由としました。産報化とは、戦時中の国家総動員法のもとで作られた産業報国会のことで、政府の統制下の労働運動となることを示しています。

総評の結成準備大会は、いわゆる3月闘争の中、3月11日神田の教育会館で行なわれました。参加したのは、総同盟、全日労連の2つの連合体と15の産別あるいは企業別組織でした。そこでは、われわれのの指向するものは大産別単一組織の確立と、志を同じくする全世界の労働者の提携を支柱とし、戦後における民主的労働戦線の最終的統一拠点となることである。今後われわれは信義と友愛を基調とする団結を強化するとともに、今なお極左的偏向を脱しない労働組合の民主化に強力しつつ、基本綱領並びに行動綱領の指向する理念と目標に向かって、瞬時もたゆむことなく前進を続ける、と結ばれる大会宣言を採択しました。そして、3月26日付で機関紙、総評、が創刊され、総評は事実上発足しました。総評第1回結成大会では、計17組織正式参加代議員186名、オブザーバー62名が主席しました。そして、基本綱領、規約、当面の行動綱領、組織化方針、闘争方針などがほぼ原案どおり可決されました。初代役員は、議長武藤武雄、事務局長島上善五郎ほか副議長2名に決定しました。労働者の調査によると、総評の当時の組織員数は276万人でした。前年11月に77万人と発表した産別会議は、この時29万人、全労連は76万人へと加盟組合員が激減しました。総評は昭和62年11月に発足した日本労働組合総連合会に参加し、その幕を閉じました。

作家ロレンスが日本で最も話題に上ったのは、その著、チャタレイ夫人の恋人が出版された昭和25年のことでした。6月27日、同書はわいせつ文章として押収され、翌日に発禁本の扱いを受け、さらに9月に入ると翻訳者の伊藤整は版元の小山書店主とともに起訴されるに至りました。今日の文学やジャーナリズムの状況から考えると隔世の感がありますが、当時としては森番の男とチャタレイ夫人の性描写などに刺激的なシーンがあり、表現や出版の自由をめぐり、以後長い裁判が続くこととなりました。第一回公判は、昭和26年5月8日、知識人、学生などの満員の東京地裁で開かれました。昭和27年1月、東京地裁では小山書店の小山久二郎社長に罰金25万円の有罪判決、翻訳者の伊藤整は無罪と判決しました。同年12月、東京高裁はわいせつ文章として伊藤整にも罰金10万円の有罪を言い渡しました。最高裁も高裁の判決を支持し、昭和32年3月13日、上告を棄却し事件は決着しました。
1948年にアメリカで出版された、人間における男性の性行為はキンゼイ・レポートとして世に名高いのですが、日本でも出版されて話題を呼びました。同書の持つインタビュー形式による統計データと科学的な分析もさることながら、同性愛や動物との接触などの性の実態がここまであきらかにされたことへの驚きの方が大きかったようです。一方では今井正監督の、また逢う日まで、における岡田英次と久我美子のガラスごしの接吻シーンが銀幕に映し出され、ファンはかたずをのみました。性に関する彼我の落差はまだ大きかったようです。

昭和25年9月22日、日本大学の運転手であった山際啓之は、友人の運転するダットサンに乗り、千代田区大手町のビジネス街で、191万3000円を強奪しました。そして愛人であった日本大学の教育学部の藤本藤次郎教授の長女佐文と2世を装い逃亡しました。犯行の動機はいたって単純で、駆落ちの金欲しさでした。ここまでなら普通の事件として昭和史の中に埋もれてしまうところでしたが、逮捕時に発した言葉がこの事件を昭和史の一事件として名を残すこととなったのです。逃亡後の彼らは、洋服も鞄も何もかも新品だったそうです。2日後の24日、品川区内に部屋を借りて2人は刑事に同行を求められました。このときに山際は佐文に、オー、ミステイク、と言ったそうです。取り調べにも彼は少しも悪びれもせず平然としていたそうです。結局、下った判決は山際に4年以上7年以下の懲役、佐文に懲役2年執行猶予3年で事件は決着しました。アプレゲールというフランス語が風俗事件に使われたのもこの事件からでした。

昭和25年9月27日の朝日新聞の記事はまさに得ダネでした。その年に吹き荒れたレッドパージで6月に追放され地下に潜伏した日本共産党のナンバー2の伊藤律の宝塚山中での会見記を載せたからです。
1913年生まれの伊藤は、一高に進むものの在学中に共産青年同盟に入り、昭和8年には治安維持法で逮捕され放校の運命にありました。さらに満州鉄道勤務中の昭和14年に再び逮捕され、ゾルゲ事件発覚の一因となった情報を当局に流したと言われます。戦後は日本共産党に入党し、中央委員、政治局員、書記局員、農民部長、アカハタ主筆代理とトントン拍子に出世し、徳田球一書記長に次ぐ実力者にのしあがりました。よって、朝日の記事は大スクープでした。しかし、その興奮の覚めやらぬ9月30日、朝日新聞は捏造記事であったことを発表し、全文取消しの社告を出し、神戸支局の長岡記者ら関係者を処分しました。伊藤律は、昭和28年に共産党からもスパイとして追放され、長い間行方知れずでしたが昭和55年8月に北京で生存が確認され、9月3日に帰国しました。その後は日本赤軍の重信房子との交流も話題となりましたが平成元年に死亡しました。

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