安保改定

昭和26年9月8日にサンフランシスコで調印された安全保障条約は、対日平和条約5条を根拠として、有効な自衛力をもたない日本にアメリカ軍の駐留を認めるのが主な狙いでした。そのために、アメリカ占領軍がそのまま駐留軍になったし、アメリカは日本が相互防衛条約締結の条件であるバンデンバーグ決議の自助及び相互援助の可能な国になっていないとして、日本がアメリカ在留権を与えるが、そのアメリカの駐留軍に日本の防衛義務を負わせないという実に変則的な形の条約でした。岸がこの条約の改定に力を注ぐことは当然であったし、アメリカもこのままで良いとは思っていませんでした。よって交渉はスムーズにいくはずでした。しかし問題は日本の国内政治状況でした。戦争に対する嫌悪感から、とにかく戦争に巻き込まれないのが平和を守る最良の手段であると考える日本人は多く、世論を形成する際に大きな力を持っているマスコミの主流が、社会主義こそ平和愛好国という風潮が支配する状況であったため、安保の改定を利用して反アメリカの空気を作り出そうとする意図がマスコミを支配していました。岸のとった政策が間違っていなかったことは、その後の日本の歩みが証明していますが、当時はそういう雰囲気ではありませんでした。岸は就任早々、5月に東南アジアを訪問、さらに6月にアメリカを訪問してアイゼンハワー大統領と会談して、在日アメリカ軍の大幅削減を柱とする共同声明を発表して日米新時代を高らかにうたいあげました。昭和33年4月に解散を行ない、自前の内閣を組織してからは、ターゲットを安保条約の改定に絞り、それに向かって突き進みました。岸は世論を見ながら政治を行なうという民主政治家ではありませんでした。自らの信念に基づき突き進むというタイプの政治家で、そのために国会の外での混乱に際しても、今屈したら日本は大変な危機に陥る。私は声無き声にも耳を傾けなければならないと思う。今は声ある声だけだという名言や、デモの参加者は限られたものだ。都内の野球場や映画館などは満員で、デモに参加する人の数よりも多い。などといった言葉を吐き、決して屈しませんでした。そして、安保改定がなると同時に、国内政局の混乱に対する責任をとって昭和35年7月に総辞職し、混乱した政局を収拾に向かわせました。

昭和32年1月30日、群馬県相馬が原アメリカ軍演習場で、立入禁止の警告わ無視して砲弾の破片を拾いに来ていた坂井なかさん当時46歳が、第1騎兵師団第8連隊所属のジラード3等特技兵に射殺されました。この事件の裁判権をめぐって、日本とアメリカの間で長い間もめましたが、7月11日のアメリカ最高裁の決定でようやく日本側の主張が認められました。裁判は8月26日より前橋地裁で始められ、11月19日に傷害致死罪、懲役3年、執行猶予4年の判決が下されました。ジラードは控訴せず、この年の暮れに離日しました。このジラード事件は、昭和32年度の世界10大ニュースにも選ばれ、世界中の話題となり、日本国民にも賛否こもごもの複雑な感情を与えました。

昭和62年8月7日、元内閣総理大臣で昭和の妖怪こと岸信介が死去。退陣後も政局の節目にその姿を表し、戦後の政界に大きな足跡を残したました。
明治29年に山口県に生まれた岸は、大正9年に東京帝国大学ドイツ法学科を卒業の後、農商務省に入り、新官僚のリーダーとして積極的に軍部の支援を行ないました。昭和11年には満州国政府に入り、新興国の産業振興の実権を握りました。さらに、昭和14年に商工省に戻ってからは次官を勤めたものの、経済運営の在り方をめぐり小林商工大臣と衝突し辞任。しかし10月に発足した東条内閣の商工大臣となり、戦時体制の一翼を担いました。翌17年には衆議院議員となり名実ともに政治家の仲間入りを果たしました。戦後はA級戦犯として逮捕されたものの不起訴となり、昭和27年の追放解除とともに政治活動を再開し日本再建同盟を結成し、翌28年3月には自由党に入党、29年には鳩山一郎の日本民主党の結成に参加して幹事長に就任、30年の自由民主党の結成後も幹事長に就任。さらに31年の石橋内閣では外務大臣、石橋が病気辞任すると、その後継として首相に就任し、内閣を組織しました。外交のプロをもって任ずる岸は安保改定を最重要課題として掲げました。それは鳩山と石橋の両内閣がソ連・中国との関係改善に外交のウエイトを置いたこともあり、日本外交のバランスを取る上でもアメリカ中心外交に戻す必要もありました。

昭和32年8月27日、茨城県東海村の日本原子力研究所に備え付けられた日本最初の原子炉JRR−1に原子の火がともりました。JRR−1は昭和31年3月、日本原子力研究所とノースアメリカン航空会社との間で9288万円で購入契約が結ばれ、同年8年10日に基礎工事が開始されました。原子炉の部品は昭和31年11月27日、32年1月19日及び3月3月1日の3回にわたって到着し、さらに5月27日に日航機で20%の濃縮ウランが送られてきました。工事は部品の到着とともに進み、昭和32年6月には一切の工事が完了し、8月1日の原研1周年までに火をともす予定でしたか、一部の工事の変更などのために予定が延びて、27日となったものです。8月27日、原子炉は臨界状態に達して火がともったわけですが、この実験に成功してからわずか3ヶ月後の11月26日、全力運転に成功し、さらに同日、10分間に60kwの運転を行ないました。このように短期間で全力運転ができたことは世界で始めてのことで普通6ヶ月、長いもので2年はかかると言われていただけに、JRR−1の運転実績は驚異と言われました。

フルシチョフの非スターリン化政策は、ソ連国内の経済、文化活動を活性化させるうえでも大きな役割を果たしました。そして、その過程でアメリカに大きな衝撃を与えたのが人類史上初の人工衛星であるスプートニク1号の打ち上げでした。まず、1957年の8月にソ連はICBM大陸間弾道弾の打ち上げに成功したという発表を行ないました。しかし、アメリカは軍事及び科学技術の面では圧倒的な強みを誇っていると思い込んでいたため、またソ連のプロパガンダのための誇大宣伝を行なっているぐらいにしか思っていませんでした。ところが、それからわずか2ヶ月後の1957年10月4日、突如ソ連が人工衛星の打ち上げに成功したと発表し、それに続いて宇宙の彼方から信号が聞こえてきたので、アメリカは衝撃を受けました。重さ83.6kgの人工衛星スプートニク1号が地球を周回しているというのですから驚くのも無理はありませんでした。それに追い討ちをかけるかのように、1ヶ月後には重さ500kgのスプートニク2号が犬を乗せて打ち上げられ、ソ連の宇宙開発における優位性が内外に強く印象づけられました。このスプートニクショックの結果それまで自信に満ちていた第二次世界大戦後のリーダー国家アメリカの社会全体が大揺れに揺れ動き、教育面まで徹底的に洗い直されることとなりました。

1957年3月でローマで調印されたヨーロッパ共同体を設立する条約に基づいて創設されたもので、フランス、西ドイツ、イタリア、ベルギー、オランダ、ルクセンブルグの欧州6カ国から成っています。当初の目的は西ヨーロッパの6カ国がしっかりと団結して、米ソ大経済圏にも対抗できるような経済権を確立しようというところにありました。しかし、共通農業政策などをめぐって、フランスと他の5カ国の利害が対立したりして、なかなか共同歩調をとることができませんでした。1968年7月に全工業製品の域内関税が撤廃され、翌8月にもほとんどの農業製品の統一価格制が成立し、関税同盟としての体制を整えることはできました。そして、1970年10月にEC委員会に提出されたウェルナー報告に基づき、1971年から10年間に加盟国の経済政策の調整と統一を図り、終局的にはEC全体の経済政策を統合的に立案、執行する決定機関とそれを資金面から支える中央銀行を設立、ポンドやフランを超えた統一通貨を持つ方向に動き出しました。しかし、1971年の春以降に襲って来た激しい国際通貨危機や、1973年秋の石油ショックなどのために、スタートの段階でつまづいてしまいました。そのために1974年から発足させる予定となっていたEC共同変動相場制も大幅に縮小せざるおえず、結局のところ、マルク圏共同変動相場制の実現にこぎつけるのがやっとでした。

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