スタグフレーション

昭和43年以降、世界的なインフレ傾向が見られ、先進諸国では景気が停滞しながらもインフレが進むというスタグフレーション現象が現れ経済運営が困難となりました。先進7ヶ国の経済成長率は昭和40年から43年には年平均5.1%でしたが、44年には4.8%、45年には2.3%と低下しました。一方でGNPデフレーターで見た総合的な物価上昇率は昭和40年から43年の平均3.0%から、44年4.7%、45年5.7%と高まりを見せました。特にアメリカにおいてはインフレは著しく、GNPデフレーターは昭和42年に3.2%、43年4.0%、44年4.7%、45年5.3%と上昇を続けました。46年に入っても景気は回復せず、失業率が6%と高水準を示したというのにインフレは悪化する一方でした。さらに国際収支も悪化し、アメリカの貿易収支は昭和35年から39年の間年平均54億ドルの黒字でした。その後黒字幅は縮小していき42年39億ドル、44年には6億ドルに減少しました。とくに代表的輸出産業であった自動車、鉄鋼、繊維、家電製品などの輸出が不振に陥りました。このようなアメリカの貿易収支の悪化はベトナム戦争とインフレでアメリカ経済弱体化したこと、日本やヨーロッパ諸国の工業製品の競争力が向上したことが原因です。また各国に比べて賃金コストが高いことも競争力を弱めた一因です。ヨーロッパ諸国でもインフレは続き、フランスの景気は順調に推移したものの、賃金、物価の上昇が続いています。昭和46年9月には政府は新しい物価政策を打ち出しました。同年10月より半年間、政府は公共料金、税負担を変化させないことを公約する代わりに、民間企業にも製品価格の上昇率を1.5%に抑えるという政策でした。イギリスも景気回復の動きが見られるものの、依然として物価失業は高水準を続けており、西ドイツは、景気は停滞しているが、消費者物価は上昇傾向にありました。世界的なスタグフレーションが進行する中で、世界経済は動揺を抑えることが困難になりつつありました。第一はアメリカ経済の地位の低下と、自由貿易体制を中心とする世界経済の枠組みの動揺です。ドルを基軸通貨とする固定為替相場制の維持が重要な問題となってきました。第2に景気やインフラの国際的相互波及の強まりが指摘でき、コストプッシュ型のインフレが世界的に目立ようになりました。

厳しかった40年不況も、昭和40年10月には底を打ち45年6月までの57ヶ月間に渡って好況が続きました。この好況はいざなぎ景気と呼ばれ、日本の高度経済成長の最終仕上げの過程でした。昭和30年から32年の神武景気は31ヶ月間、昭和33年から36年の岩戸景気は42ヶ月間の景気上昇過程だったので、いざなぎ景気は戦後最長の好況となりました。期間のみならず成長率自体も高く、昭和41年度から45年度までの実質経済成長率は年平均11.6%に達しました。30年代前半の年平均8.7%、30年代後半の9.7%に比べると高水準で、経済大国の道を邁進していました。GNPが昭和43年に自由世界第2位となったあとも、日本経済の拡大は続き、それに伴い日本企業も急速に力を付け、欧米水準にひけをとらないものとなってきました。鉄鋼、自動車、重電機、産業機械、板ガラスなどの企業の経済規模、労働生産性は世界最高水準に達しました。産業や企業の発展につれて、国民生活も豊かになりました。完全雇用が実現し所得水準が高まるとともに消費水準も高まり、生活の拡充が見られました。こうした世相は昭和元禄と呼ばれたりしました。いざなぎ景気は企業設備をけんびき役として個人消費や輸出が成長加速を担って、高い成長を実現しました。その投資の高成長を導いたのが技術革新でした。技術革新の内容も変化し、昭和30年代の技術革新は化学製品などのオートメーションなどの新生産技術が中心でしたが、40年代は製鉄所の高炉の巨大化、エチレンプラントの大型化等規模の利益をめざした設備の巨大化がありました。

1970年代に入って予期しなかった事態に遭遇しました。それがエコロジーという新しい市民運動の台頭です。大きいことは良いことだ、という成長至上主義のスローガンを信じきっていた日本の産業界及び通産官僚たちにとっては衝撃的な出来事でした。なかでも1970年3月にスイス法人として設立された民間組織ローマ・クラブの提言レポート成長の限界は日本をはじめとして世界の先進工業諸国に大きな衝撃を与えました。ローマ・クラブの特別プロジェクトチームによると、世界人口、工業化、汚染、食糧生産、及び資源の使用についての現在の成長率が必要のまま続くならば、きたるべき100年以内に地球上の成長は限界点に達するであろう。極端にいえば世界のシステムはもはやその住人達の自己中心的な、かつ競争的な行動を許すほど広大でもないし、寛大でもない。地球が物質的な限界に近づけば近づくほど、この問題への取組みの困難さは倍増するであろう。我々は現在不均衡状態にあり、かつ危険な方向に向かって悪化しつつある世界の状況を急速かつ根本的に是正することが、人類の直面している基本的な課題であると一致とている。この努力は我々世代そのものを救うための挑戦であり、次ぎの世代に委ねることはできない。この努力は断固として直ちに始めなければならず、また重要な方向転換がこの10年間に達成させられなければならない。

アメリカの女性は人口の半分の51%を占めているにもかかわらず、これまで女性は常に男性の下に立つ第2階級としか扱われてきませんでした。このような女性に対する不公平な扱いについての不満は、黒人たちが公民権運動を軸にしてしだいにその社会的地位の復建を図り始めたのと平行して、1960年代の初めから徐々に浸透しはじめ、1966年には、NOWと略称されるアメリカ最初のウーマン・リベレーション団体である全米婦人同盟が結成されました。そして1970年代に入ると、NOWだけでも5千人の組織に急成長したウーマンリブの諸団体は、もはや沈黙の季節は去った、この緑の大地に、男性と同じ権利を獲得するために闘おうという100年前の婦人解放論者スーザン・アンソニィらの呼び掛けを合い言葉に一斉に立ち上がったのです。1970年9月、アメリカ各地で行なわれたデモでは、それまで表面的にレディ・ファーストのエチケットをふるまってきたアメリカ男性を愕然とさせました。ニューヨークの目ぬき通り5番街をスクラムを組みねり歩く女性達の姿は、その日のうちに新聞やテレビで全国に報じられ、またたくまにアメリカ各地に飛び火しました。1970年の夏から秋にかけて、異常なまでの高まりを見せて来たリブは、それまでのNOWを中心とした、比較的おとなしく、リーズナブルな要求から一挙に男性と徹底的に闘う姿勢を露骨にしたラディカル路線に傾倒し始めました。この中心となったのが、リブをセックスと直接的に結び付けて行動する若い女性達でした。この若者中心の新しいセックスリヴォリューションがそれまでの女性の社会的地位の向上をメインテーマに掲げる古い形の女性解放運動に与えた影響はたとえようもなく大きかった。1960年代のリブの主流を占めていた中年の中産階級のNOWの中から、次々と若者達のラディカルグループが分裂し始め、アメリカのウーマンリブは混沌たる様相を呈していきました。

第一次世界大戦によるドイツ賠償の処理機関として1930年にスイスのバーゼルに主要国の共同出資で国際決済銀行BISが設立されました。その後、国際金融の分野に業務を広げ、信用供与や国際金融問題の調査、情報交換の機関となりました。現在は、IMF、20ヶ国委員会、OECDとともに重要な国際金融協力の場となっています。日本は設立当時の中心メンバーでしたが、第二次世界大戦後に脱退しました。しかし、1963年からは月例中央銀行総裁会議にオブザーバーとして出席を認められ、さらに1970年1月1日に、増資応募によって正式メンバーに復帰することとなりました。そして、このBISの名前が日本経済を左右するものとして浮かび上がってきたのが平成に入ってからでした。国際化に伴う過程で、国際業務を行なう銀行の自己資本比率が8%以上を維持しなければならないという規則が強められました。自己資本比率は自己資本を資産で除したもので求められ、分母の資産は危険資産比率を用いて算出されます。つまり、各資産をリスクに応じて分類し、ウエイトづけをして加算するのです。ハイリスクの資産ほど高いウエイトを掛け、現金や国債などの安全性の高い資産についてはリスクウエイト0%として計算するのです。したがって、当然のことながら、保有している資産のリスクウエイトが高いと分母が大きくなり、自己資本比率も低下するということとなります。尚、国内業務だけを行なう銀行については自己資本比率が4%を下回っても、その後の1年以内に4%以上の達成が可能な場合は、業務改善命令が1年間猶予されることとなっています。

昭和43年4月17日、鉄鋼業界1位の八幡製鉄と2位の富士製鉄が合併するというニュースが新聞に掲載されました。この時の八幡製鉄の年間粗鉱生産量は1164トン、富士製鉄は1059万5000トン、2社合わせるとその国内シェアは35.6%にもなり、さすがに公正取引委員会も黙っているはずがありませんでした。しかし八幡製鉄社長永野重雄と富士製鉄社長稲山嘉寛の2人のトップの関心はそのようなことにはありませんでした。資本の取引も貿易の自由化も進んでおり、国際化に対応した強い企業体力をつくりあげることは何にも優先してとりくまなければならない課題でした。興銀の中山素平によると、2人の間に合併の話しが話題となったのは昭和41年頃だったそうです。当時興銀の頭取であった中山のところにそろって相談にきたそうです。通産大臣の三木武夫は合併に反対だったそうです。ただこのときの合併構想は双方とも社内の合意が得られずついえました。しかしこの時浮かび上がった合併問題をとりまく状況は2年前とは大きく違っており、財界も同業他社も合併には賛成でした。それほど日本経済の先行きに危機感を持っていたのです。当時の通産大臣は大平正芳。彼は経済界あげての支援に重い腰をあげ公正取引委員会の山田精一委員長の説得に赴きました。公正取引委員会は粗鉱生産比率は問題とせず、市販商品の鉄道用レール、食品用ブリキ、鋳物用鉄、鋼矢板の4つが独占禁止法に違反するという勧告を出すに至りました。合併否認でした。しかしすでに流れは決まっており、あとはどうつくろうかということでしたが結局、指摘された4つの品目のシェアを下げる方策をとるということで公正取引委員会勧告をのりきることとなりました。こうして昭和45年3月31日、新日本製鉄が誕生しました。合併の結果、資本金2293億6000万円、従業員数8万2000人、粗鉱生産能力4160トン、売上高1兆3000億円という巨大企業が誕生したのでした。

1967年、ベトナム戦争と社会福祉によりアメリカ経済が悪化の一途を辿っている時に、共和党の一部からリチャード・ニクソンをもう一度大統領候補にしようという運動が起ってきました。そう言い出したのがニクソンが副大統領だったころの予算局長のモーリス・スタンズでした。そして1968年8月にマイアミビーチにて開かれた共和党大会でみごとに大統領候補の指名を受けたニクソンは、9月に南部の遊説に出かけた際に繊維産業の中心地ノース・カロライナ州で次ぎのような公約をしてしまいました。
繊維製品に関する国際貿易は、あのりにも一方的になりすぎた。アメリカの繊維産業は過去の政策が近視眼的であったというだけで、損害をこうむらなければならないいわれはない。民主党のジョンソン政権は外国の繊維産業に対してはアメリカの市場を無制限に解放しているというのに、多くの国がアメリカの繊維製品の輸入に対して障壁を築き、あるいは維持することを容認しています。大統領としての私の政策はこのような不公平な状態を是正することなのである。
翌1969年1月にホワイトハウス入りを果たしたニクソンは、その直後に行なわれた記者会見において、アメリカの貿易政策の基調は基本的に自由貿易である。しかし繊維だけは特別であると発言し、早くも5月にはモーリス・スタンズ商務長官を日本に送り込み、7月の日米貿易経済合同委員会をきっかけに、本格的な日米繊維交渉を開始しました。日本側はアメリカの提案は自由貿易の理念に反するものであり、もしアメリカの繊維業界が日本などから輸入増により被害を受けているのであれば、ガットの規定で対応すべきだと反論しました。日本の国会も満場一致で反対決議をしましたが、アメリカ側はあくまでも日米政府間での繊維協定の締結を迫りました。1970年6月22日宮沢喜一通産大臣とモーリス・スタンズ商務長官の間で行なわれた会談で、日本側が1年間の暫定自主規制を行なうと申し出たのに対して、アメリカ側はあくまでも5年間の自主規制でなければだめだと主張し、ついに交渉は決裂しました。そのためにニクソン大統領が選挙用の大票田として最も頼りとしている南部の繊維産業地帯を中心に激しい反日気運が盛り上がりました。日米繊維交渉はアメリカ国内の政治問題にまで発展しそうな雲行きになってきたのです。そこでニクソン政権は、一方的に日本製品の輸入規制に踏み切ろうとする強行姿勢を示しました。1971年3月になって日本の繊維業界はアメリカ下院のミルズ歳入委員長の年5%の伸び率の総枠規制という提案を受け入れ、韓国、台湾、香港と同時に実施するという条件つきで、1970年7月1日より自主規制を開始しました。これはアメリカの一部の自由貿易論者の支持を得たもののニクソン大統領は納得せず、ディビット・M・ケネディ特使ジューリック補佐官を日本に送り込んできました。ジューリック補佐官は4ヶ国政府に協定の締結を強く迫り、日本政府も要求をのみ、1972年1月3日に日米繊維協定に調印しました。

    copyrght(c).SINCE.all rights reserved