政財界の癒着

保守政権の喜びはわが喜び、悲しみはわが悲しみと言ってはばからない根っからの政治好きである植村甲午郎は、新しい経団連の副会長ポストに稲山嘉寛や岩佐凱実といった同好の士をずらりと並べ、いよいよ本格的な政治活動を始めました。高度成長期に入ったからこそ、なおのこと政界と財界の関係は密接でなければならないというのが、植村経団連の本質的な考え方です。特に吉田茂、池田勇人、田中角栄と続く成長路線の最後の田中内閣発足前後の財界の資金活動には目を見張るものがありました。こうして政財界の密接な関係は再び旧に復したわけですが、ここに至るまでには宮嶋グループの中核的メンバーであった動きが想像以上に大きかったといえます。その中でも小林中と財界のつながりは、吉田茂のころまでさかのぼります。明治32年山梨県の石和町で生まれた小林は、早稲田大学の政経学部を中退した後、一時実家の石和銀行の取締役に就任しました。しかし、田舎の生活にはあきたらず、同じ甲州出身の東武鉄道の創始者、根津嘉一郎を頼って上京し、根津の経営していた富国徴兵保険に入社しました。そして、同社の支配人となり、郷誠之助や正力松太郎ら、財界の有力者達とも徐々に知り合いになりましたが、とくに日清紡績の宮嶋清次郎に格別かわいがられるようになり、やがて日清紡績の宮嶋清次郎に格別かわいがられるようになり、やがて宮嶋の紹介で吉田茂と親交を深めるきっかけをつかみました。宮嶋と吉田は、東大時代の同級生でした。吉田茂は当時47歳の若手財界人をたいへん気に入ってました。ちょうどそのころ、吉田は日本経済の復興を金融面から強力にバックアップするために、日本復興金融公庫を根本的に改組しようと腹案を持っていました。これが日本開発銀行の設立につながるのですが、トップに誰をすえるかが大問題でした。新しい開銀の総裁は絶対に役人ではダメだというのが吉田首相の基本的な考え方でした。そこで、宮嶋清次郎やその腹心ナンバーワンともいうべき立場にあった水野成夫は、吉田茂に積極的に小林中を推薦しました。また、日銀の法皇と呼ばれていた一万田尚総裁も、一面識もない古手の財界人よりは面識のある宮嶋グループの若手のほうがいいという理由から、水野らの意見に賛成の意を表しました。これにより一挙に体制は固まり、小林中が初代開発銀行総裁の座についたのです。

昭和46年に通産省は、産業構造審議会の中間答申として、1970年代の通商産業政策を発表しました。その中で1970年代における通商政策及び産業政策の在り方に関して提言を行なうとともに、産業構造の長期ビジョンに関しては、知識集約型産業への転換が主張されています。同ビジョンでは、今後の産業構造のあり方を考えるとには次ぎの基準が必要とされました。
所得弾力性基準、生産性上昇率基準、環境・過密基準、勤労内容基準です。
所得弾力性基準とは、所得が増加する以上に需要が増加するような産業の育成が必要であるという考え方です。生産性上昇率基準は、労働生産性上昇率の高い産業が望ましいということを示しています。環境・過密基準は住環境等の改善に寄与する産業の必要性を意味するものです。勤労内容基準は、職場災害の減少と働きがいのある産業の振興という視点になります。昭和40年代の前半は、鉄鋼、機械、化学を中心とする重化学工業化が進み、今後はこうした4つの基準を満たす産業として、知識集約型産業の育成の必要性が主張されたのです。特に環境、過密基準、勤労内容基準の掲示は、従来の重化学工業化から、福祉国家をめざした産業構造への移行という点で注目されました。同ビジョンでは知識集約型産業を3つに分けて具体的な産業の例示をあげています。

研究開発集約産業
電子計算機、航空機、電気自動車、産業用ロボット、原子力開発、集積回路、ファインケミカル、新規合成化学、新金属、特殊陶磁器、海洋開発、

高度組立産業
通信機械、事務機械、数値制御工作機械、公害防止機器、家庭用大型冷暖房器具、教育機器、工業生産住宅、自動倉庫、大型建設機械、高級プラント

ファッション型産業
高級衣類、高級家具、住宅用調度品、電気音響器具、電子家具

その後の日本の産業構造の転換は、重化学工業から知識集約型産業へという方向は間違っておらず、知識集約型産業もリーディング産業とは言えませんでした。技術革新、情報化、ソフト化、軽薄短小というさまざまな動きがその後の日本産業の発展を支えたのです。産業の制約としては、国際化も大きな影響を与えざるを得ませんでした。

1971年7月、米中両国がニクソン大統領の北京訪問を発表した時、世界は戦後史上まれに見るほどの衝撃を受けました。ニクソン自身、翌年の北京を実際に訪問した時のことを世界を変えた1週間と呼んだのです。それ以後の中国をめぐる政治パターンには、際立った変化が見られるようになりました。その米中接近から10年以上たったこの頃、1970年代の米中接近と同じような衝撃度をもって、近い将来に中ソ和解が起るのではないかという声が強まりました。中ソ関係が最悪の状態にあったのは、国境を流れるウスリー川の珍宝島で武力衝突の起った1969年前後でした。その頃に比べれば、1970年代後半から1980年代初めにかけての両国間での関係は、かなり順調に推移しています。毎年貿易協定も締結されており、公式の貿易協定に含まれない国境地帯での経済的相互依存関係もかなり深まってきていると言われています。これらは長い国境を共有する隣国として当然の経済的社会的必要からだと思われます。そして、毛沢東の死後中ソ両共産党間の対立は減ってきています。1981年6月末の中国共産党第11期六中全会で採択された歴史的問題に関する決議は、その傾向を裏書きしたものだと言えます。つまり、中ソの2国間関係のみに集点を合わせた場合、関係改善を阻害する要因が減ってきているようです。その意味でいえば、中ソ和解は大いにあり得ることだといわなければなりません。

昭和46年8月15日、当時のアメリカ大統領のリチャード・ニクソンは翌年に2回目の大統領選挙をひかえて、落ち目のアメリカ経済に徹底的なテコ入れをする必要に迫られ、新経済政策を発表しました。ちょうどその1ヶ月前の7月15日にもニクソンは、中国を訪問すると宣言、それまで台湾政府だけを正統な中国と認めて北京政府との一切の交渉を絶っていた日本政府に大きな衝撃を与えました。しかも8月の新経済政策はそれにも増して強烈な影響を日本の政財官に与えました。
アメリカは金とドルとの交換を一時停止する。アメリカは外国からの輸入品に対して、一率10%の輸入課徴金を暫定的に賦課する。アメリカは外国に対する経済援助を10%削減する。アメリカは向こう90日間、賃金、物価を一時的に凍結する。
この新経済政策と、7月の新中国政策の2つを総称して、日本のマスコミはニクソンショックと命名しました。1960年代の終わりから1970年代の初頭にかけて、繊維交渉を中心とする日米間の荒々しい経済摩擦必死に取組んで来た通産官僚達の驚きはことのほか大きかったようです。ニクソンショックはニクソン政権になって、ドルの価値を維持するのが困難となって起り、その大きな原因としてベトナム戦争によって1日1億ドル以上という消費をやったことのようです。生産性の過程に乗って来ない浪費を大量に何年もやっていたのでは、いかにアメリカ経済といえども、インフレが避けがたいことになるの無理のないことです。この時にニクソン大統領はドル防衛のために一大宣言を発しました。金とドルとの交換を停止する輸入課徴金をとる、経済協力を10%削減するなどですが、一番強引だったのが、賃金物価の3ヶ月間凍結です。この措置に伴って、ヨーロッパ全部が為替市場を閉鎖しました。その後イギリスとフランスが変動相場制を採用したりして、国際通貨制度は大揺れに揺れました。貿易も大きな影響を受けたのはもちろんです。その影響は日本でも深刻で、ヨーロッパ以上の打撃を受けながらも、しばらくは1ドル360円の為替ルートにしがみついていました。ところがどんどんドルがたまって行き、国際的にも日本はひどすぎるのではないかという意見も高まってきて、昭和46年12月20日、1ドル308円まで切り上げざるを得なくなりました。しかし、それでも長くは持たず日本でも変動相場制に移行していきます。

1971年8月のニクソンがとった新経済政策は日本ばかりか世界各国にとっても強い衝撃を受けたものでした。第二次世界大戦後の自由世界の国際通貨貿易体制は、昭和20年末に発効されたブレトンウッズ協定とガット体制を中心に運営されていました。ブレトンウッズ協定に基づき設立された国際通貨基金IMFによって、各国通貨間の為替ルートは原則として固定レートとされ、必要に応じて調整されました。ガットは自由貿易を旗印に掲げ、関税引き下げの他国間交渉を担うものでした。IMF体制は通貨価値の基準として、金の公定価格である1オンス35ドルを前提として成り立っていました。そのためにIMF体制はアメリカが強い経済力と巨額の金を所有し、公定価格で無条件にドルとの金の交換が行なわれるドル体位制のもとで機能していました。しかし、1950年代、1960年代を通じて、アメリカの経済力は相対的に弱まり、貿易上の国際競争力は低下しました。対外投資の拡大、輸入の増加、ベトナム戦争への戦費の支出のために、アメリカの国際収支は赤字を続けました。国際競争力の強い西ドイツ・マルクは、しばしば大量の買いに見舞われ、昭和44年には大幅に切り上げられました。逆に弱い通貨のイギリス・ポンド、フランス・フランは切り下げが必要でした。こうして昭和40年代は国際通貨体制自体もしばしば混乱し、ドルに対する信用も動揺するに至りました。ドル不信から、手持ちのドルを金に交換しようとする動きも強まりました。しかし、アメリカの金準備は既に減少しており、各国からドルと金との交換の要求には応じる事ができなくなっていました。そのために金とドルの交換を停止したうえ、自由貿易の原則に反する輸入課徴金を実施し、それを武器に各国に対して、対ドルルートの引き上げを要求するという強攻策をとったのです。

1971年9月13日、モンゴル人民共和国領内で中国機が墜落して炎上、9人が死亡しました。モンゴル外務省は翌日ソ連大使館に事件を通報し、中国政府に対する抗議をすることに同意を求めました。30日、ソ連政府から同意を得たモンゴルは国営通信を通じて領空侵犯した中国機が領内に墜落し乗員9名が死亡したことを論評抜きで伝えました。この前後より毛沢東の後継者だった林彪副主席の動向がまったく伝えられなくなりました。1969年の第9回全国代表大会で中国共産党の副主席、林彪は毛沢東同志の親密な戦友にして後継者と明記されていました。しかし、何が林彪を焦らせたのか国家主席になる画策を図りますが、毛沢東に猛烈に反対され断念、この頃から2人の仲は急速に冷え込んでいきます。逆に周恩来首相と毛沢東は親密となっていきます。林彪はかつての同志のようにやがて毛沢東によって追放されるかもしれないと思うようになっていきます。そして林彪は毛沢東の暗殺を決意します。1971年9月12日、上海から北京に帰る途中の毛沢東を北京付近で爆殺することを計画しました。しかし、爆破計画を実行するはずの将校の妻がこの陰謀に気付き、一時的に目の見えなくなる注射をしてこの計画を阻みます。そしていち早く党本部に暗殺計画を通報、第2の襲撃が予定されていた駅に到着する前に、毛沢東は周恩来差し回しの車に乗り換え難を逃れたのです。クーデターに失敗した林彪グループは北載空港から脱出し、一路ソ連へと向かいました。しかし燃料不足によりモンゴル領内に不時着を試みるも失敗し9名全員が死亡したのでした。林彪であることを確認したのはソ連でした。事件から2週間後の国慶節パレードは当然とりやめとなり、中国になにかが起きていると、ソ連とモンゴルを除く諸外国が異変を感じ取ったのはこのときでした。1972年7月、その年の2月にニクソン訪中という大イベントを終えた中国は、外交官僚の発言という形で林彪事件を発表しました。政府の公式発表がされて林彪が完全に姿を消すのは73年8月の第10回中国共産党全国代表者大会でした。

国連における中国を代表する議席が台湾政権と、北京の中華人民共和国のいずれの政府に属するかをめぐる問題で、第5回国連総会以来、毎年総会の議題となって争われてきましたが、1971年10月25日、第26回総会で決着がつき、台湾に代り中華人民共和国が国連における中国の代表権を取得しました。国連には創設以来、台湾が中国代表として参加していましたが、北京政府成立後の50年、第5回総会でインドが北京政府代表を台湾代表と交代させる案を出し可決されました。この翌年アメリカは中国代表権問題の棚上げ案を出し、可決され、以後10年間、この棚上げ案が通りましたが、棚上げ反対勢力がしだいに増えてきたために、1961年の第16回総会で重要事項指定方式に切り替え、台湾の議席を守りました。しかし、1970年の第25回総会で中国招請、台湾追放決議案が初めて過半数を占めた為に1971年の第26回総会では、アメリカ、日本など台湾の議席擁護派は逆重要事項指定方式を編み出して台湾居直りを策しましたが、賛成76、反対35、棄権17、欠席3という圧倒的多数で可決されました。台湾との関係から中国との国交を控えて来た西側も、国連のこの決議を無視することはできず、次々と中国との外交関係を結んでいきました。これにより台湾は国際社会から孤立し、表向きは中国の一部ということになってしまいました。しかし、台湾は経済を武器にしたたかに生き残ります。正式な外交を断ったものの、各国は台湾の強力な経済力を無視することはできず、中国は政治的な混乱が絶えず、経済発展は遅々として進まず、台湾との経済力格差は広がるばかりでした。

バングラデシュという国名は、この国の住民の大部分を占めるベンガル人の国という意味です。面積は日本の5分の2はありますが、国土の大半は低地で雨期がくると水害が頻発します。その歴史は屈辱に満ちたもので、東インド会社を設立し、インドに進出したイギリスは、1757年のプラッシーの戦いに勝利し、ベンガル地方を植民地化します。長いイギリスの支配を経て、1947年8月にイギリスはインドから退いたものの、西ベンガルはインドに、東ベンガルはパキスタンに分割されてしまいました。パキスタンに属することとなった東ベンガルの苦難の歴史は続き、パキスタンの首都が西パキスタンに置かれていたみともあり、経済建設は西が優先されていたからです。しかも初代総督のアリ・ジンナーは中央集権を進め、その一環として西パキスタンで使われているウルドゥー語への統一を図ります。東パキスタンはベンガル語だったから、当然凄まじい反発を招くこととなります。1952年2月、ベンガル語の国語化と完全自治を求めて住民側と警察が激しい衝突を繰り返し、多くの犠牲者を出しました。1954年3月には州評議会で与党のムスリム連盟が敗北し、自治要求を加速させます。1958年からのアユーブ政権は州自治に対して強烈な弾圧を続けました。しかし、大きな流れを変えることはできませんでした。そして1969年にアユーブ政権が崩壊して1970年12月にパキスタン史上初の成人普通選挙が行なわれると、東パキスタンのアワミ連盟が過半数を取得し、第1党に躍り出ました。危機を感じ取った連盟の幹部はインドに亡命し亡命政権を樹立します。この事態にそれまでの自治運動を弾圧していた東パキスタン出身の警察官、軍人が立ち上がり、インドを巻き込んだ独立戦争が始まったのです。1971年3月、パキスタンの内乱が始まると、多数の東パキスタン住民がインドに流れ込みました。インド側はこれをパキスタン政府軍の東パキスタンに対する武力弾圧が原因だと非難しました。パキスタン側もインドは東パキスタン紛争の根拠地を与えるなどして内政干渉していると非難の応酬を繰り返しました。そして、同年9月、両国は国境に軍隊を集結させ始め、両軍の小規模衝突が頻発、12月3日には、全面戦争へと突入しました。6日にはインドがバングラデシュを承認し、16日には東パキスタン派遣パキスタン軍が降伏し、同月17日には西部戦線でもパキスタン軍が停戦に応じ、パキスタン側の敗北に終わりました。

昭和46年8月アメリカのドル防衛策の発表に伴い、西欧諸国は変動レート制を採用しつつ、外国為替市場の実勢を見守るという対応をとりました。先進諸国の中で依然として日本だけが8月27日まで市場を開き、1ドル360円の固定レートを維持し続けました。このために価値の下落したドルが嫌われて、大量のドル売り円買いが見られました。東京為替市場では、16日1日だけで、6・2億ドルと平常の10倍に達するドルが売られました。この市場取引を成立させるためには、日本銀行は大量のドル買いをしなければならず、その額は16日から27日の間で40億ドルと見られ、1兆5000億円もの円の流通を膨張させることとなりました。こうした円の増発が、狂乱物価を引き起こす伏線となったといえます。ヨーロッパからは東京為替市場が閉鎖されず、日本銀行が殺到するドル売りを買い支えた理由が理解できませんでした。過少評価されている円レートを維持することによって、輸出を増加させようとしているのではないかという非難も強くありました。日本政府が外国為替市場の閉鎖や変動ルートの採用を差し控えたのは、何とか1ドル360円を維持しようという考えもありましたが、それまでは政府は円切り上げをしないと表明してきたので、簡単に方向転換するわけにはいかなかったということがあります。それに戦後続いた1ドル360円体制を変えて生じる混乱を予測できなかったという面も強くあったようです。政府も市場の円切り上げ圧力や国際収支の黒字に対して、手を拱いていただけではありませんでした。昭和46年6月には、円切り上げ以外の方法で黒字を縮小させようとして、輸入自由化促進、特恵関税の早期実現、関税率引き下げ等の第1次円対策8項目を決定しました。一方の円切り上げはやむを得ないとする意見も多く、昭和46年7月には近代経済学者のグループが、小刻みに段階的な円切り上げをすべきだという提言を行ないました。アメリカのドル防衛策以降、各国は一時的な市場閉鎖の後、変動ルート制を採用しました。しかし、再び固定レート制に復帰しようとする動きは強く、10ヶ国蔵相会議で協議が続けられました。その結果12月18日ワシントンのスミソニアン博物館の会議において、通貨調整が用意されました。ドルが7.89%切り下げられる一方で円は1ドル308円に切り上げられました。これは16.88%と先進国中で最大の切り上げでした。

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