貧乏人は麦を食え

朝鮮戦争前夜の日本の経済界は、著しい不況に見舞われていました。ドッジ・ラインの強行実施によって、財政の赤字が解消し、日銀券の増発にもブレーキが掛かり、荒れ狂っていたインフレも戦後4年にしてようやく静まりました。しかしその一方で深刻な金づまりを産み、国内需要も輸出も停滞して、一種の安定恐慌ともいうべき反動が襲いかかってきたのです。その中でも最も深刻な打撃を受けたのが中小企業や農民達でした。銀行のバックアップのある大企業と違い、資金力も少なく、生産合理化も満足に行なう事ができない中小企業は、金づまり、需要減、税金攻勢、統制撤廃などのあおりをもろに受けて大苦境に陥り、次々と倒産していきました。農民の状態も深刻で他の多くの商品が統制を解かれたというのに、主食についてはなおも統制が続き、しかも公定価格が低く押さえられていました。そして、その反面、不況で一般の購買力が落ちたうえ、食糧の輸入が増えたため、農産物のヤミ価格も急激に下落しました。さらに、ドッジ・ラインとシャウプ勧告によって税負担の重みが増したというのに、これまでの価格差補給金が外され、肥料その他農業資材が驚く程値上がりしました。そして不況のために失業した都市人口がどっと農村に環流し、ただでさえ苦しい農民の生活はいやがうえにも圧迫されました。時の大蔵大臣池田勇人が、中小企業の5人の10人の自殺者が出ても仕方が無い、貧乏人は麦を食え、などと言って大騒ぎとなったのはこの時代のことです。

1948年11月2日の大統領選挙で、ハリー・S・トールマンは共和党の対立候補トーマス・E・デューイばかりではなく、民主党の組織を割って外に飛び出した南部党のストローム・サーモンドや、前副大統領のヘンリー・ウォーレスが率いる進歩党なども撃ち破り、ここに初めて自前の政権を樹立しました。そして折りから始まった、冷たい戦争の流れの中で朝鮮戦争にアメリカ軍を出兵させました。しかし、北緯38度線という既成事実を定着させてしまった上に、10日間でアメリカを勝利に導いてみせる、と豪語したダグラス・マッカーサー将軍を解任するという暴挙をやってのけました。それにより共和党の保守派の中からますます強い反民主党感情が噴出するに至りました。そしてそのような雰囲気の中で、俄然、力を得てきたのがジョゼフ・マッカーシー上院議員を委員長とする上院調査小委員会や下院の非米活動調査委員会です。ジョゼフ・R・マッカーシーは、1946年に生まれ故郷のウィスコンシン州から共和党の上院議員として出馬し、終戦直後の混乱期だったこともあり、あっさりと当選しました。折からの冷たい戦争ムードに便乗して、議員としての名声を上げる最も手っ取り早い方法として、共産主義の脅威を言い立てることを決め、何の根拠もなすまま政府高官や有力文化人に対して次から次へと、あいつはアカだ、というレッテルを貼り、彼に同調する集団とともに片っ端から社会的に抹殺していきました。

手始めに血祭りにあげられたのは、国務省の高級官僚達で、1950年2月9日、リンカーン記念日の式典のための演説会に招かれたのを利用して、デタラメな紙切れを片手でヒラヒラとさせながら、名前は明らかにできないが、このリストの中にはある愛国者からひそかに提出された国務省内の証明書付きの共産党員205名の名前が載っている、と、大見えを切りました。マッカーシーの狙いはみごと適中し、たちまちのうちにマッカーシーは反共の英雄に祭り上げられていきました。そして、マッカーシー自身が委員長をつとめている上院調査小委員会と、あと2つの委員会の3つを中心に厳しいアカ狩りが始まりました。結局、このマッカーシー旋風の犠牲となり官職をしりぞいた者は数十名にものぼりましたが、その中には、国務長官を歴任したジョージ・C・マーシャル元帥やアメリカにおけるアジア問題の有数の権威であったオーウェン・ラティモア教授なども含まれていました。また、アメリカのアカ狩りは人間だけに止まらず、書物にも及び、国務省の海外情報部の管轄に属していた世界65カ国の285図書館を対象に徹底的な調査が行なわれ、3万冊以上の本が共産主義の手によって書かれた物であるという烙印が押され、そのうち、かなりのものが焚書の対象となりました。

昭和24年1月23日の総選挙で大勝を果たした吉田茂ですが、単独講和を成し遂げるためにはそれでも不十分だと思っていました。そこで、性格を同じ保守勢力をもって一丸とすることによって、政局の長期安定を確保し、国家再建を成し遂げるべきであると主張する民主党の総裁、犬養健に対して、保守連携を申し入れました。そして、そのための布石として、第三次吉田内閣に民主党から2人の閣僚を参加させました。これは、3年前の第一次吉田内閣の時に進歩党から合同の申し入れがあった時に拒絶したのとは打って代わって、柔軟な姿勢でした。あまりのことに民主党の連立派、保利茂が本気なのか、と聞いたところ、吉田は次ぎのように答えたそうです。
日本のためにもぜひそうしてもらいたい。どうしても講和にもっていくためには、統一した保守党が責任を持ち、民族百年のためにその功罪を一身に負う体制でやりたい
しかし、この吉田の呼び掛けは思わぬ波紋を民主党内にまき起こしました。民主党は連立派と野党派に分裂してしまいました。連立派は吉田の保守合同の理論を素直に受け入れましたが、野党派は吉田内閣が経済9原則の実施に失敗してのたれ死にした時、民主党が保守第2党として政権を受け継ぐ責任があると主張し、野党にとどまることを宣言しました。

昭和24年3月8日、民主党は両派はそれぞれ全国大会を開き、それぞれの人事を決めました。野党派は5人の最高委員による合議制をとり、最高委員長に苫米地義三が就任し、一方の連立派は総裁が犬養、幹事長が保利でした。吉田はこの後も連立派に対して執拗に合同を呼び掛けるのですが、合同への抵抗は案外強く、1年近く難航しました。1つは民主党連立派の中には、連立には応ずるが合同には反対という旧民政系のグループがあったことが障害になっていました。もう1つの障害は、民自党の党人派や第一次保守合同で民自党に参加した幣原一派の犬養に対する反感でした。その旗頭は大野伴睦と幣原喜重郎の2人で、2人の反対のために、合同はいっこうに進みませんでした。大野は犬養が10人足らずの者を連れてくる吸収合併ならば、かえって党を弱体化するとの立場を変えず、幣原派の議員二十数人は犬養民主党総裁入党反対の決議を行なう始末でした。そこで、吉田と保利が話し合った結果、犬養の身柄は吉田に預ける、つまり入党させないで無所属に止まることで了解がつきました。民主党連立派衆議員22人、参議員5人を加えた自由党は昭和25年3月1日に発足しました。衆院で288議席を擁し、参院では過半数に遠く及びませんでしたが、60議席は確保しました。吉田政権の安定度が増したことは事実であり、将来の本格的保守合同に向けて、更に一歩を進めるものでした。

1950年6月25日午前4時頃、朝鮮半島を南北に分断している北緯38度線の全線にわたって、突如激しい戦闘が開始されました。最初に攻撃をしかけてきたのは金日成が率いる朝鮮民主主義人民共和国のほうで、11ケ所にわたって北緯38度の境界線を突破し、南に向かって怒濤のように進撃しはじめました。それと同時に大韓民国の東海岸にも上陸、ソウル郊外にある飛行場に銃撃を加えてきました。これに対して韓国側は直ちに北朝鮮による侵略を国連に報告し、援助を求めました。また午前11時になると北朝鮮の放送が韓国に対して正式に宣戦布告したことを伝え、本格的な戦争状態に突入しました。開戦当時、韓国は歩兵8個師団を中心として7万から10万の陸軍兵力を持っていました。しかし、その装備は国内の治安維持を主眼としたもので、重砲はもとより対戦車兵器もなく、陸海軍に至っては皆無に近い状態でした。それに対して、北朝鮮のほうは歩兵10個師団のほか戦車軍団も含めて18万の兵力を擁し、1946年以来ソ連から積極的に行なわれて来た武器援助に基づき、戦車や飛行機なども充実した近代装備を整えていました。そのために、1950年6月25日、38度線を越えた北朝鮮軍は、3日後の28日には早くも韓国の首都ソウルを占領するに至りました。そして38度線地帯にいた韓国軍の4個師団は総崩れとなり、北朝鮮軍の機動力の前にはなすすべもなく、20日には早くも大田が陥落しました。大田に拠点を確保した北朝鮮軍はここで二手に分かれ、一部隊を西南の平野に向けて南下させるとともに、主力部隊は東海岸に上陸した部隊及び中部地帯を南下してきた部隊と合流して韓国軍のみならず、援軍のアメリカ軍まで含めて南へ追い詰めていきました。そして朝鮮半島全域が北側勢力に席巻される寸前の状態となってしまいました。アメリカ政府の対応もかなり早く、朝鮮軍侵入の第一報がワシントンに届いたのは1950年6月24日の夜のことでしたが、直ちに国連の安全保障理事会に問題が持ち込まれ、韓国へ加えられた武力攻撃は平和の破壊であると断定し、即時戦闘を停止し、北朝鮮は38度線まで撤退することを要求するという議決が行なわれました。そして、2日後の6月27日には、北朝鮮軍による武力攻撃を撃退し、国際平和とこの地域での安全を回復するのに必要な韓国への援助を国連加盟国が供与するよう集団的制裁の勧告が行なわれました。この勧告には、当時の国連加盟国59カ国のうちに実に53カ国の支持が得られ、アメリカ軍は事実上国連軍として機能する権限を認められました。

1950年7月、マッカーサー元帥を総司令官とする国連軍司令部が東京に設けられ、アメリカ軍を主力とする国連軍は着々と態勢を立て直し始めました。そして、9月15日の夕刻、国連軍は260隻の艦船をもって、2個師団の兵力をソウル西岸、仁川に上陸させることに成功し、虚をつかれた北朝鮮軍はこれを機に総崩れとなり、仁川に上陸した国連軍の手によって9月16日には再びソウルが韓国側に取り戻されました。こうなると戦局はまったく逆転し、1950年10月1日にまず韓国軍が38度線を突破して北に侵入したのを手始めに、10月7日の国連総会で統一朝鮮を実現するために北進を容認するという決議が行なわれるや、ついにアメリカ軍も38度線を越えました。10月19日には早くも北朝鮮の首都平壌を国連軍が占領し、10月末には韓国軍の先鋒部隊が満州との国境である鴨緑江に達しました。マッカーサー元帥は、中共やソ連の介入は無いと見通しをたてていました。しかし、1950年11月24日に国連軍の攻撃が始まるやいなや、中共軍の大部隊が中部山岳地帯から大反撃。マッカーサーの目算はもろくも崩れることとなりました。アメリカは米・中激突の危機に直面したのです。歴戦の勇士である彭徳懐将軍に率いられた中共軍はさすがに強く、再び戦局は大逆転し、1951年の元旦早々から38度線を越えて雪崩のように南側へ進撃してきました。1月4日、ソウルはまたしても共産軍の手に落ち、国連軍は水原や原州まで撤退を余儀無くされました。このとき戦死したウォーカー中将に代わり、第8軍の指揮をとったリッジウェイ中将は中共軍の浸透人海戦術に対抗するために近代兵器を次々と投入し、3月14日にはソウルを奪還しました。こうして開戦後1年を迎えた頃から38度線を中に挟んで南北両軍の戦線は、膠着状態に入り、1951年7月10日より休戦会談が開かれるようになりました。しかし、マッカーサー元帥の怒りはおさまらず、アメリカ政府の首脳の意向に反して、中国大陸の奥まで踏み込んで中共軍の根拠地を叩かなければ本質的な解決はあり得ないという強硬路線を主張し続けました。このためトルーマンはマッカーサーを1951年4月11日に電撃的に解任することになりました。そして、1953年7月28日、休戦協定が成立し、朝鮮戦争は終結しました。

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