文化大革命

1965年から1969年にかけて中国の毛沢東主席が指導し、中国の意識革命、政治大闘争、文芸闘争次いで学園闘争となり、学生の造反は毛語録を振る紅衛兵となり、労働者にも飛び火しました。大字報の反乱とともに中国共産党幹部は、実権派として数多くの人がつるしあげられ、各機関は革命派が乗っ取りました。1968年に各省に軍人を入れた革命委員会結成が完了し、内ゲバのあった学園を、都市では労働者、農村では貧農が管理して政情は安定しました。1969年の九全大会で文化大革命を統括し、1973年8月の10全大会で文化革命を再肯定し、毛沢東思想が確立しました。1962年9月、第8期十全大会で毛沢東は次のように発言しています。
息子の時代が修正主義にかぶれて、偽物の社会主義、事実上の資本主義のようなことをやったとしても、孫の世代が必ず立ち上がって暴動を起こし、父親達がやったことをひっくり返すだろう。大衆は修正主義に満足しない。
人民解放軍の中で過激な毛沢東学習運動が開始されたのです。共産党の機関紙である人民日報に代り軍の機関紙解放軍報がその読者を広げて言いました。1965年9月、毛沢東は北京副市長の呉がんの書いた海瑞罷官について、党の中央委員会に苦情を申し入れました。このため委員会はもめ、結局、毛沢東は敗北し上海に逃げることとなります。この毛沢東を救ったのが夫人の江青でした。江青は江青文芸サロンを母体とし、修正主義者達に筆誅を加えます。1965年11月10日、文化大革命の狼煙をあげます。上海市党委員会書記で文芸評論家の姚文元は、先の海瑞罷官を断罪する論文を発表しました。これをきっかけとして北京の指導的な知識人達への攻撃が熾烈となります。人民解放軍は北京市庁舎を攻撃し指導者を逮捕します。彼らは毛沢東思想を金科玉条として、各地で旧文化破壊のために激しい行動を繰り広げます。やがてそれは毛沢東派を駆逐するための大衆行動へ転化していきます。中国共産党の党内抗争に勝ち抜くための毛沢東の最後の闘いが文化大革命でした。

昭和41年でマスコミや世論が最も注目したのは、政財界を巻き込んだ共和製糖不正融資事件でした。この事件は8月5日の自民党代議士田中彰治の恐喝容疑での逮捕劇がプロローグとなりました。前哨戦は9月3日、荒船清十郎運輸大臣による地元深谷駅への急行停車要請への糾弾からでした。国鉄ダイヤ改正期に職権を濫用して選挙対策として、むりやり急行停車駅化することを強いたために野党側からの追及にあい、結局は10月に大臣を辞職することとなってしまったのです。野党の舌鋒は鋭く、9月27日の衆議院委員会では、共和製糖の4億円にのぼる使途不明金が指摘されました。さらに工場建設の融資を受けるに当たって、建設会社から受取ったとされる領収書や不動産鑑定書が偽物だということが露呈してしまったのです。この事件に介在した政治家も少なくなく、東京地検が50人の国会議員から事情聴取を行なったことでも裾野の広さがうかがえます。起訴から裁判判決までの8年の歳月を要したこの事件は共和製糖管直人、糾弾した側の社会党の議員相沢重明が追及に手心を加えるよう依頼され、謝礼150万円を受取ったとしてともに有罪判決となりました。しかし真そうは闇に包まれ、結局は12月に国会は解散となりますが、世論はこれを黒い霧解散と呼びました。

昭和40年前後から急速に発展する技術革新や大量生産方式の普及による販売競争の激化があり、それに伴い、不公正な販売、虚偽、誇大広告による被害の発生、欠陥商品の続出など、消費者の不利益、安全をおびやかす諸問題の多発が問題となりました。昭和30年代の水俣病問題、サリドマイドや41年の食器からのホルマリン検出など、消費者が商品サービスの購入を通じて被った消費者被害も多様化するとともに、安全、品質、価格表示、広告などの分野にわたり内容も多様化しました。そしてヤミカルテル事件が注目されました。昭和41年11月18日、公正取引委員会は大手家庭電器6社などを価格協定の疑いで捜索し、ヤミカルテルの証拠書類などを押収しました。12月14日公正取引委員会は6社に対して独占禁止法2条、3条、48条によって、テレビの価格協定を破棄するよう勧告しました。これに対して6社は12月23日、勧告拒否を決定し裁判に持ち込まれました。また、再販売価格維持制度が価格つり上げの原因になっているとの指摘が政府に設置された物価問題懇談会によってなされました。このために公正取引委員会は昭和41年8月、再販売価格維持制度の規則を改正しました。再販商品販売実績、マージンなどの届け出の義務づけ、抱合せ販売などの小売店を拘束する契約の届け出などです。家電業界は不況乗りきりのために昭和39年8月に連合して社長会を結成し、昭和40年より一致して、テレビ、扇風機、冷蔵庫などの減産をおこない、販売組織を再編成しました。これに加えて国内需要の回復、輸出の急増とで昭和41年には家電業界の業績は向上していきました。そして40年不況からの回復に伴って物価上昇が問題となっていました。このために、通産省は昭和41年11月にカラーテレビの価格引き下げ行政指導などをしていました。これに対してカラーテレビメーカー13社は、高級品の値下げは不可能であるが、昭和42年春には普及品の販売を踏み切ることとしました。こうした消費者問題を背景として昭和41年に国民生活審議会が消費者保護組織及び消費者教育に関する答申を取りまとめました。そして昭和43年には消費者保護基本法が制定されました。

昭和41年は日本の自動車産業にとって記念すべき年でした。4月に日産のサニーが発売され、11月にトヨタカローラが登場しました。国民はクルマの利便性や実用性に気づき、サニー、カローラに殺到しました。当時すでにトヨタのパブリカ、マツダのファミリアという大衆車が存在していましたが、両車とも機能本位で、マイカーという親近感が少なく、そこで企業戦略としてワンランク上のイメージを持つ新車が投入されたのでした。日産はサニーの販売に大きな期待をかけており、発売時期もトヨタカローラに先行しました。サニーは2ドアセダンのスタンダード1000CCが41万円でした。燃費がよく発売後5ヶ月で3万台が売れるヒットとなりました。これに対しトヨタは1100CCのカローラに100CCの余裕というキャッチフレーズをつけ、広告媒体を利用し販売を行ないました。カローラは発売2年後には1ヶ月の販売台数が3万台を突破し、それ以後世界のベストセラーとなりました。日本の乗用車生産台数は昭和36年に25万台、昭和40年に70万台となった後、昭和41年には88万台、昭和43年には206万台と飛躍的に増加し、世界第3位に上昇しました。日本の乗用車輸出は、昭和36年に1万台を突破した後、昭和40年には北米、東南アジアなどを中心として10万台に達していました。その後北米向けの伸びが高く、昭和42年には22万台となりました。昭和40年10月に完成乗用車の自由化が実施されましたが、同時期に日本の自動車産業は、国内外の成長の地盤を固めつつありました。

インドネシアのスハルトは、経済発展の妨げとなっているのは共産党の存在だとして、徹底的な弾圧策をとり、共産党を壊滅に追い込みました。一説によるとスハルトが率いた治安秩序回復作戦司令部が行なった弾圧では50万人もの人が虐殺されたといわれています。スハルトが弾圧しなければならないような、無視できない力を共産党がもっていたことは事実ですが、もし、スカルノ体制が続いていれば、インドネシアは共産党が支配する国になっていました。西側がスカルノに経済援助を渋っていたのはスカルノの容共政策にありましたが、スカルノが政権の座に居座っている限りインドネシアの経済発展は望めませんでした。スハルトは反共を掲げることで日本やアメリカなどの西側先進諸国から巨額の経済援助をかちとりました。そして大型の開発プロジェクトを次々と立ち上げ、貧困からの脱却を図っていました。開発独裁と言われるように、そのやり方は徹底しており、多くの国民は支持していました。スハルト体制でインドネシアは経済大国となっていました。そして国民の生活も確実に上がっていきました。70年代に起きた石油ショックのときにはインドネシアは原油生産国として、国際政治の上で大きな発言力をもち、またそこから得られた収入も膨大なものでした。スハルトは総選挙のたびに全軍人、公務員をゴルカルに投票させ、さらにイスラム原理主義を抑えるためにキリスト教徒であるベニー・ムルダニを国軍の司令官にしてイスラム教徒を政治の世界から遠ざけました。日本側からしてみればスハルトのとった政策は大筋で支持できるものでした。スハルトの足を引張ったのは独裁者にありがちな不正蓄財でした。97年秋に起きた経済危機により物価高騰と食糧不足により庶民の怒りが爆発し、暴動と混乱の中98年5月21日に辞任を表明しました。

1962年から5年をかけて、49カ国が参加して行なわれた関税一括引き下げ交渉は、1967年5月15日、アメリカ、イギリス、日本、EEC間で妥結し、6月30日ジュネーブで調印式が行なわれました。この関税一括引き下げ交渉は、1962年1月、ケネディ大統領の年頭の教書で提唱されたため、ケネディラウンドと呼ばれました。交渉には世界貿易の80%を占める主要な国が参加し、貿易自由化のために、工業製品の関税率一括引き下げを前提に行なわれました。主要な妥結内容は、第一に関税引き下げについてのタイムスケジュールについてです。参加国は、各国が今後5年間に関税を引き下げると約束した関税譲許税率表に基づき、1968年から1972年にかけて毎年全引き下げ幅の5分の1ずつ下げていきます。第二に穀物協定に関する合意です。小麦の国際価格は、1ブッシェルあたり1ドル73セントから2ドル13セントの間とする。第三に低開発国に対する食糧援助協定が合意されたことです。参加国は年間合計450万トンの小麦類を発展途上国援助として供出することとされ、先進国間の負担割合が決定されました。こうして、全参加国の関税譲許品目は、工業品、農業品合計約6300品目を数え、引き下げ幅は35%から40%で年間貿易総額は約400億ドルに達しました。ガットは戦後5回にわたり大規模な関税交渉を取りまとめてきました。しかし、国別の品目別の交渉方式に行き詰まりの傾向が生じました。そこでケネディは5年間に世界各国の関税水準をいっせいに50%引き下げるという一括引き下げ方式を提唱しました。ケネディラウンドではアメリカとEEC間の対立がありました。もともとケネディ大統領の提唱は、EECの経済的閉鎖主義を打ち破り、自由貿易の拡大を目指したものでした。特に対EEC向けのアメリカ農産物輸出の拡大が狙いとされました。また開発途上国の反発も大きく、交渉は先進国の工業製品に重点が置かれており、途上国の特恵関税、第一次産品が残されたままでした。このためにアラブ連合など8カ国が調印を拒否するとともに、約20カ国の途上国は交渉結果に不満を表明しました。日本は昭和43年より実施に入りましたが、貿易収支の黒字と物価対策の見地より、昭和45年4月に繰り上げて実施を完了することとなりました。さらに昭和47年11月には、1865品目に及ぶ鉱工業品、農産加工品について、一律20%の関税引き下げの追加的措置が行なわれました。

昭和39年に日本が経済協力開発機構に加盟した際に、資本移動を自由化に関する規約を守る義務を負うこととなりました。資本自由化は、貿易自由化以上に深刻に受け止められました。それは欧米の多国籍企業が資本力にものをいわせ、日本に上陸してきたら、日本企業はひとたまりもなく、たちまち経営権を乗っ取られたり、国内市場を支配されてしまうという危機感が強くありました。資本自由化の衝撃の大きさを示した調査として、通産省が昭和41年に行なった対日直接投資に関する実態調査があげられます。110業種について、業種ごとの外国資本による影響を調査したもので、同調査によると、外国資本が直接投資を行なった場合でも、とくに問題が生じない業種は1割以下しかなく、それ以外は電子計算機、電子部品、石油化学などの50業種は技術水準に関して問題がある、自動車などの10業種は規模の拡大が必要である。専門の生産体制を確立する必要のある業種が30余りあり、過剰設備が問題となるものが10業種ある、などと非常に厳しい結果が出ています。このような調査結果があるにも関わらず、日本の第一次の資本自由化が昭和42年7月1日に実施されました。その際に第1類自由化業種と第2類自由化業種に分けて自由化が進められました。第一類自由化業種については、外国資本の株式取得は50%以下に制限され、テレビなどの民生用電気製品が33業種が認可されました。第2類自由化業種は、100%の外資の株式取得が認められ、鉄鋼、セメント、紡績、造船などの国際競争力の強い17業種とされました。全体としてみれば、欧米企業との資本力についての格差が大きいことから、できるだけ外資の比率が50%以下の第1類業種を拡大していこうという方針が強く出ていました。その後昭和44年3月には第2次資本自由化が実施され、第1類は160業種、第2類については44業種が認可されました。昭和45年9月には第3次資本自由化が実施され、第1類は447業種、第2類は77業種が認可となりました。これによって産業全体の70%から80%、製造業出荷額の75%が資本自由化の範囲に入りました。そして昭和46年8月には第4次資本自由化が実施されました。電算機、中小小売業等の7業種を除き、全業種が少なくても第1類に組込まれました。第2類には新たに151業種が追加され、こうした過程において、鉄鋼、造船、化学、自動車などの産業は民族資本を結集して大型合併を促進し、外国資本に対抗しようとしました。そして、昭和48年5月第5次の資本自由化が行なわれ、ここでは外資の出資比率が原則100%に改められ本格的な資本自由化に大きく前進しました。

サミットには先進7カ国の首脳のほかに、ヨーロッパ共同体の代表が加わります。ヨーロッパ共同体EEC、ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体ECSC、ヨーロッパ原子力共同体EVRATOMの三つの共同体を構成するヨーロッパ諸国、フランス、西ドイツ、イタリア、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクの6カ国が1965年4月に三共同体の理事会及び執行機関などを統合する条約に調印し、ECという名の準国家を発足させました。その後1973年1月1日にイギリス、デンマーク、アイルランドの3カ国が加盟し、さらに1981年1月1日にギリシア、1986年1月1日にスペイン、ポルトガルが加盟しECは12カ国の共同体となりました。本部はベルギーのブリュッセル。各加盟国を代表する関係一人ずつで構成される閣僚理事会が最高決定機関の役割を果たしています。そしてその下にEC委員会が置かれています。これはECの行政機関にあたり、EC諸機関の運営を監督し、理事会への提案を行ない、また理事会の決定を実施します。委員長は2年任期になります。1992年には物、サービスの両面において領内取引の障壁を撤廃して国境なきヨーロッパを実現しようとしています。

1967年、国際収支悪化によって動揺を続けてきたイギリス・ポンドは、年末の国際通貨基金IMFへの借金返済期間が近づくにつれて不安が強まりました。11月17日、ロンドンの国際為替市場のポンド相場は1949年のポンド切り下げ以来の最悪の事態となりました。そしてイギリス政府は11月18日に戦後2回目のポンド切り下げを行ないました。イギリス・ポンドはこの切り下げまでに何度も危機に直面してきました。1964年11月には、国際収支の悪化と労働統制権誕生の不安により、ポンドに危機が訪れました。これに対して、先進11カ国の中央銀行、国際決済銀行及びアメリカ輸出入銀行より、総額30億ドルの対英緊急借款を受けるとともに、IMFから10億ドル引き出すという国際的な支援体制によって危機が乗り越えられました。1965年5月にはポンドは再び大量に売られ、先進国からの支援を受けることとなりました。9月になって、先進10カ国中央銀行がイングランド銀行との間に、個別借款の取り決めを結んだことから、ポンド相場は急上昇に転じ、約2年ぶりに対アメリカ平価2・8ドルとなりました。しかし、その後もポンド危機は収まらず、1967年秋に戦後2回目のポンド切り下げが行なわれるに至りました。67年のポンド大幅切り下げは、1966年6月発生の第三次中東戦争が、イギリス経済に悪影響を与えたことが大きな要因でした。イギリス病と言われた戦後のイギリス経済の国際競争力の弱体化と、長年にわたってポンドの累積債務残高が背景として指摘できます。イギリス経済はIMFや先進国の金融支援ではもはや支え切れない状態にまで悪化していたのです。ポンド切り下げは、国際通貨体制に大きな動揺を与えました。統治の通貨体制は、金とドルとポンドを基軸としていたので、ポンドの挫折はドルに対する危機感を高めました。アメリカもベトナム戦争への介入により国際支出の赤字が拡大していたうえ、ドゴール政権下のフランスが金を買い集めており、ドルの威信が低下していたことがドル不安に拍車をかけました。そこでアメリカは1967年にドル防衛白書を発表し、ドル中心の国際通貨体制の建て直しを図りました。さらにアメリカはベトナム戦争の和平提案を行ないましたが、これもポンド切り下げ後の通貨体制の動揺収拾の努力がありました。

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