ポツダム宣言・終戦

1945年7月26日、無条件降伏後のドイツのポツダムでアメリカのハリー・トルーマン大統領とイギリスのウィストン・チャーチル首相、中国の蒋介石総統は、日本に対して次ぎのような最後通牒を突き付けました。
降伏は完全に行なわれること、連合軍による日本占領を含むこと、1895年以降日本が占領した領土をすべて以前の保有国へ返すことなどです。しかし日本国民は、平和主義的な責任ある政府ができたときには、占領は直ちに打ち切られ、奴隷化されることや国民として滅ぼされることはないという保証が与えられました。また、もしこのポツダム宣言を受け入れない場合は即座のしかも完全な破壊が待っているということも明示されました。にもかかわらず、時の鈴木貫太郎内閣は軍部の強い抵抗にもあい、なかなかこれを受諾することができず、ついに広島と長崎が原爆の被害にあえこととなりました。アメリカのトルーマン大統領は、すでに1945年7月16日に原爆の実験が成功した旨の報告を受けており、これを直ちにポツダムでイギリスのチャーチル首相に伝えましたが、それを聞いたチャーチルは、これは第2の主降臨だと呟いたといいます。

昭和20年8月15日正午、日本全国に玉音放送が流されました。真珠湾奇襲より3年8ヶ月、満州事変より13年9ヶ月に及ぶ戦争の時代がここに終結しました。日本が昭和20年7月26日に発せられた対日無条件降伏を要求した米英ソのポツダム宣言を受諾したのは、これより5日前の8月10日でした。この宣言が発せられた当時、鈴木貫太郎内閣はこれを黙殺しました。また周囲の雰囲気も素直に受けいられるような状況ではありませんでした。毎日新聞はその見出しに、笑止、米英蒋共同宣言、自惚れを撃破せん、とつけ、また朝日新聞もポツダム声明が何故に傲慢無礼であろうとも、我が国民にとっては比較的些事たるに止まり、その最大の関心事はただ戦勝への途を開く政府の簡明直截なる大決断あるのみであると、と逆にあおったのです。鈴木は黙殺という言葉をノーコメントという意味で使ったのですが、英語ではそれが無視の意味に翻訳されて報道されたのでした。7月30日のニューヨークタイムズはその見出しを、日本、連合軍の降伏最後通告を公式に拒否と報道しました。これによりソ連の対日参戦と原爆投下が不可避となりました。ソ連の参戦はトルーマンが引き伸ばしていましたが、ポツダム宣言の公式拒否でそれが限界となりました。7月31日にやむなくトルーマンはスターリンに対してあいまいな参戦招請を送りました。広島、長崎に対する原爆の投下、ソ連の参戦。日本の我慢もここまでてした。陸軍大臣の阿南唯幾は陸軍の意向を代表して最後まで降伏に反対してきましたが、天皇の聖断には従わざる得ませんでした。8月14日には一部陸軍将校による反乱がありましたが大勢を覆すにはいたりませんでした。終戦工作は前年のみょうぶ工作や、汪兆銘ルートによる日華和平工作が行なわれましたが、いずれも失敗し、昭和20年5月11日の最高戦争指導者会議メンバーの会合にてソ連の仲介による対米和平工作が進められましたがこれも失敗。どうしょうもなくなっての降伏、すなわち終戦でした。日独伊枢軸と連合国軍で繰り広げられた、死闘のために全世界において2200万人が戦死し、3400万人が負傷しました。日本だけでも昭和12年の日中戦争の始まりから昭和20年の太平洋戦争の終わりまでに、233万人の兵士が戦死、戦病の犠牲となりました。そして空襲などによる一般国民の死亡者や行方不明者を含めると、実に330万人という尊い生命が失われた悲惨な戦争でした。

鈴木貫太郎内閣は終戦の8月15日に総辞職しました。この後の内閣の首相を誰にするかは問題でした。それというのも8月14日の陸軍の一部将校によるクーデーター未遂事件にも見られるように、軍部には無条件降伏に対する不満が依然としてあったからです。この不満を押さえ込むには普通の人では不可能でした。皇族が政治に関与することは明治以来タブーとされていましたが、もはやそのような状況ではなく、敗戦の危機を乗り切るには皇族の威光にすがるしかありませんでした。この難局の処理に当たったのが、久邇宮朝彦の第九子、東久邇稔彦でした。軍の解体、降伏文書の調印、復員業務、行政の平時化などを手がけましたが、政治は素人で、20年10月3日GHQより山崎巌内務大臣をはじめ警察、特高関係者などの罷免を要求されるに至り、同年10月5日に総辞職しました。東久邇稔彦は明治20年12月3日に久邇宮朝彦の九男として京都に生まれました。幼少の頃は農家に出され、上京して学習院初等科を経て陸軍幼年学校へと進みました。そして、明治天皇の第9皇女の聡子内親王との結婚を条件に皇族として迎えられました。しかし、本人の意思に反した結婚に反発してか、大正9年には妻子を日本に残し、単身フランスへ渡り、奔放な生活を送りました。大正天皇の崩御を機に帰国。太平洋戦争時には中国大陸へ出征したものの、自由主義的な彼の考えは当時の軍国主義には合わず、東条首相に開戦を思いとどまるように進言したこともあるそうです。

ポツダム宣言を受諾して全面的に降伏した日本に最初のアメリカ軍将兵が上陸したのは、その年の8月28日のことです。それに先だって、フィリピンのマニラでマッカーサー将軍とニミッツ提督の幕僚の手で準備的な調整が行なわれ、8月28日に先発隊が軍用機で東京郊外の厚木に送り込まれました。それからアメリカ太平洋艦隊とイギリスの極東艦隊の何十隻という戦艦が東京湾へ入りました。そして1945年8月30日、連合国最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥がコーンパイプを右手に厚木基地へ降り立ちました。日本に到着したマッカーサー元帥は、まず横浜へ進み、横浜税関を総司令部GHQにあてました。その後、マッカーサー元帥はGHQを東京へ移し、丸の内の第一生命ビルに本拠をかまえ、本格的な日本統治を開始しました。連合軍とはいえアメリカの第8軍と第6軍が圧倒的に多く、それ以外はイギリス連邦軍がわずかに加わっていただけの完全にアメリカ主導型のGHQでした。

昭和20年9月2日、東京湾を埋め尽くす連合軍の軍艦の中でもひときわ光彩を放つミズーリ号の艦上で、マッカーサー最高司令官ならびに連合国の各国、イギリス、中国、ソ連、オーストラリア、カナダ、ニュージーランド、オランダ、フランス代表者と、日本政府を代表する重光葵外務大臣、梅津美知郎中将の両全権との間で、降伏文章への調印が行なわれました。午前9時25分、公式手続きが終了すると、航空機数百機がミズーリ号とその姉妹艦上空を爆音とともに飛び、次いでマッカーサー元帥がラジオを通じアメリカ国民に次ぎのように呼びかけました。
我々は今日、わがアメリカ人ペルリ提督ゆかりの地、東京湾に立っている。ペルリ提督の目的は当時の日本から鎖国のベールを取り払い、世界各国との友好、平和的通商の門戸を開き、この国に光りと進歩をもたらすことであった。しかし残念な事に、かくて得られた西洋の科学的知識はその後の日本によりゆがめられ、人間的抑圧と奴隷化の道具とした。そして言論の自由は、行動の自由のみならず、思想の自由までが自由教育の圧迫と迷信、権力の濫用によって封ぜられた。我々はポツダム宣言によって、日本国民をかかる奴隷状態から開放すべく委任された。したがって任務はできるだけ急速に日本軍の武装解除をするとともに、戦争再開の可能性を除いてこの委任に応えることだ。日本民族の精神は正当な方向に導かれることならば発展を遂げることになるだろう。また、もしこの民族の能力を建設的な軌道に振り替えられればこの国は現在の憐れむ状態から、やがては立派な地位に自らを高めることができるだろう。

インドシナ半島を植民地支配下に置いていたのがフランスです。第二次世界大戦前の勢力図でいえば、コーチシナの直轄州とトンキン、アンナン、カンボジア、ラオスという四つの保護国かせ成る仏領インドシナを経営していました。しかし、1940年の6月に圧倒的なドイツ軍に押されて、パリ陥落に至り、ほぼ同時に日本軍がインドシナ半島へ入ってきたのを機に、ベトナムの民族主義者達は中国領でベトミンを結成し、老練な指導者ホーチミンを中心として激しい抗日闘争を開始しました。その後アメリカとの間に繰り広げられたインドシナ戦争の指揮をとって勇名をはせたボーグェンジャップを先頭に、1944年から北ベトナムのタイグェン地方で本格的なゲリラ戦争を開始し、1945年9月2日、日本軍の降伏直後にホーチミンを大統領としベトナム民主共和国を設立しました。しかし、かつての宗主国フランスはこの新共和国を認めようとはせず、パリ解放の英雄であるルクレク将軍を送り込み、1946年12月よりベトナム奪還の戦争を開始しました。そして1954年までにフランスは莫大な戦費を注ぎ込み、2万5000人の戦死者と4万3000人の負傷者、2万人の行方不明者まで出して戦い続けましたが、ホーチミン軍に勝つ事はできず、インドシナ半島全域を手放すこととなりました。

1945年4月12日、ルーズベルト大統領の死去をうけて、副大統領のハリー・トールマンが大統領の椅子につきました。前任者のルーズベルトがニュー・デール(新規巻き直し)という名の政策で大いに名声を高めたのを知っているトルーマン新大統領は、新しい政策を言い表わす言葉を懸命に考えた末に、フェア・デール(公平な扱い)というスローガンを作り出しました。そして、日本の降伏より間もない1945年9月5日に会議で行なった演説の中で早くもこの言葉をかかげ、21項目からなる進歩的な概略を提示しました。そして、トルーマンにとっては最初の大統領選挙である1948年の選挙戦に勝ち抜き、1949年1月5日の年頭教書の中で次ぎのように高らかに宣言しました。
我々国民の中のあらゆる個人は、政府からのフェア・デールを受ける権利を持っている。
そして、この結果アメリカは典型的な福祉国家、もしくは奉仕国家の道を歩むこととなりましたが、それと平行して大きな政府の膨大な財政負担にあえぐきっかけを作ってしまうことになりました。

昭和20年8月30日午後3時、連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥が厚木航空基地に飛来しました。同30日、東京進駐を開始。長い苦難を乗り越えたばかりのマッカーサーは、革命的ともいえる理想に燃えていました。日比谷第一生命ビルに総司令部をかまえたマッカーサーは、部下として引き連れて来た若きニューディーラー達の進言を聞き入れて、次々と画期的な新政策を打ち出していきました。中でもマッカーサー司令部の国務長官的な立場にあった民生局のコートニー・ホイットニー准将の影響力は大きく、老将軍に進言すると、マッカーサーは直ちにその方針をGHQ指令という形で日本政府に命令しました。

9月11日 東条英機大将以下、岸信介を含む38名の戦犯に逮捕状が発せられる。
9月22日 ワシントンより降伏後におけるアメリカの初期の対日方針が発表される。
9月27日 天皇、アメリカ大使館を訪れてマッカーサーに会う。
10月4日 GHQ、政治民権ならびに信教の自由に対する制限の撤廃を要求する覚書を発する。
10月5日 東久邇宮内閣、一時は終戦連絡中央事務局の政治部長曾弥益を通じて、治安維持法を共産党に対してだけ残してほしいと交渉しようとしたが失敗し、逆に内務大臣山崎巌らの罷免を要求され、総辞職に至った。

昭和20年9月27日、天皇は車4台で御文庫を出発し、米国大使館内の元帥公邸をめざしました。午前10時からの会談は予定の15分をオーバーし、35分にも及びました。この時の会見内容は未だに明らかになっていません。マッカーサーは後年回想録で会見の内容に触れていますが、マッカーサーの回想録には多少真実と離れた箇所があり、そのまま信用することはできません。この日通訳をつとめた奥村勝蔵がまとめた会見記録は正副の2部あり、一部は外務省に、一部は天皇の私室に保管されたままです。このときの会見内容は文芸春秋誌上、昭和50年11月号で明らかになりましたが、これは日本側の先の通訳の記録であり、アメリカ側はこの日の会見はマッカーサーの指示により記録されなかったといわれています。ただこの会見によりマッカーサーの天皇に対する見方が良い方向に変わった事は間違い無く、マッカーサーは玄関での送迎をしないとの事前の申し渡しを自ら破り、会見終了後は官邸玄関まで天皇を送り握手をして分かれました。29日の新聞を見て日本国民は驚愕しました。現人神である天皇とマッカーサーが並んで写っているではないか。敗戦の厳しさをこれほど日本国民に知らしめたものはありませんでした。内務省はこの写真の掲載を禁止しましたが、それはGHQの知るところとなり、撤回せざるを得えませんでした。昭和26年4月11日にマッカーサーがトルーマンに解任されるまで、天皇の訪問は11回にも及びました。

昭和20年10月5日、東久邇宮稔彦内閣が総辞職し、代わって幣原喜重郎内閣が9日に発足しました。そして11日、幣原喜重郎新首相が就任のあいさつに総司令部を訪ねると、マッカーサー元帥はその場で、次ぎの5項目の改革命令を伝えました。

1、選挙権賦与による日本婦人の解放
2、労働の組合化の促進
3、自由主義教育を行なうための諸学校の開口
4、秘密の検察及びその濫用が国民を絶えざる恐怖にさらしてきた諸制度の廃し
5、生産及び貿易手段の収益及び所有を広汎に分配するが如き方法の発達により、独占的な産業支配が改善されるよう日本の経済機構が民主主義化されること

これに続いて次ぎのような民主化指令も矢継ぎ早に発せられました。

10月31日 軍国主義教員の教職からの即時追放命令
11月6日 財閥財産凍結、財閥解体命令
11月15日 ポーレーの対日賠償政策の発表
11月20日 皇室財産凍結指令
11月25日 戦時補償凍結、軍人恩給廃止
12月9日 農民解放指令
12月15日 国家と神道の分離指令

しかし、このような改革を一挙に行なうには、どうしても日本の行政官庁の助けを借りないわけにはいきませんでした。そこでマッカーサーは、当初密かに考えていた直接統治の方式を捨て、日本政府を通じて改革を行なう間接統治の方法をとる決意を固めました。かくして日本の官僚達は間一髪で難を逃れ、戦前戦中に引き続いて、戦後日本においても中心的な指導、支配階級として生き延びることができました。

民主化とともに、幣原喜重郎内閣で特筆されるべきことは憲法改正に着手したことです。改正作業は当初、国務相であり商法学者でもあった松本烝治を中心に進められました。しかし、松本私案が明治憲法の字句修正にとどまるためであったためにGHQに拒否され、あらためて昭和21年3月6日に象徴天皇、主権在民、戦争放棄、基本的人権尊重を柱とする憲法改正案を発表することとなりました。この憲法は吉田内閣の手により10月7日に成立し、昭和21年5月3日より施行され現在に至っています。昭和20年12月18日には衆議院を解散したもののGHQに拒否され延期。昭和21年1月4日にGHQの公職追放の指示により、内閣の4閣僚と書記官長が辞職。4月10日に総選挙を行ない内閣の延命を図りましたが、大衆運動の激化により力つき、4月22日に総辞職しました。
幣原喜重郎は東京大学卒業後外務省に入り、大隈、寺内、原内閣時代に外務次官、大正8年には駐米大使、10年にはワシントン会議の全権委員をつとめた外交官でした。外務大臣としても活躍し、第一次、第二次加藤内閣、第一次、第二次若槻内閣、浜口内閣の外相として英米協調路線を推進しましたが、軍部や右翼からは弱腰外交と批判を浴びました。昭和21年4月22日の首相辞任後、第一次吉田内閣の国務相として入閣、昭和24年には衆議院議長となりましたが在任中に死去しました。

社会主義政党の結成の動きと相まって、労働組合再建の努力も着々と積み重ねられつつありました。昭和20年9月30日、松崎駒吉の念願だった大日本産業報国会の解散が実現しました。この報を聞いた旧総同盟系の松岡や西尾末広、旧全評系の高野や山花らは一致団結して、直ちに労働組合組織懇談会を開く旨をしたためた招待状を昔の仲間達に一斉に発送しました。そして10月10日、東京新橋の蔵前工業会館で、第1回労働組合再建懇談会が開かれ、旧総同盟、旧組合同盟、旧全評などの指導者180名がこぞって参加しました。この席で座長に推された西尾末広は、次ぎのような労働組合結成の提案を行ないました。
焼野が原から起き上がる戦後の労働組合は、いかなるものであるべきか、それはもはや戦前の如き、批判的、反逆的なものであってはならない。日本産業の復興も新日本の建設も、我々労働者の双肩にかかっているとの高い矜持と深い責任感に目覚めて、高能率生産に邁進しなければならない。
そしてこの提案を中心に討議を進めた結果、新しい労働組合を結成するに当たっては、産業復興を目的とする。産業別組合の連合体とする。政党加入の自由を認める。という3原則が確認され、いよいよ本格的な組織結成に動き出すための中央準備委員会が設置されることとなりました。

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