電化元年

昭和28年、正力松太郎のアイディアと言われる街頭テレビが渋谷ハチ公前広場や国鉄駅周辺に設置されました。とくに力道山を中心としたプロレス中継と、ダド・マリノから世界フライ級王座を奪取した白井義男対イギリスのテリー・アレン戦が人気を博していました。しかしテレビ受像機は1インチ1万円もしており、お金の無い当時の庶民にとっては高嶺の花でした。そして街頭テレビや電器店のショーウインドウらが黒山の人だかりとなりました。また公衆電話が初めて登場しましたが、当時のお金が1通話が10円、白米10kg680円の時代なので、テレビや電話は庶民には手の届かない代物でした。2月1日、NHKは東京地区において1日4時間のテレビ本放送を開始しました。契約数わずか866世帯でしたが、次いで8月には日本テレビが民放として初の本放送を開始しました。日本の映像新時代の記念すべきスタートである昭和28年は電化元年と呼ばれる年でした。8月には噴流式洗濯機が発売され、金ダライと洗濯板から主婦を解放し始め、冷蔵庫も10万円を下回るお金で販売されました。掃除機、洗濯機、冷蔵庫は三種の神器と称されましたが、大学卒の初任給のお金が1万円程であったため、その普及にはまだ多くの時間を要したと言えます。大衆娯楽の一方の雄である映画界もさまざまな話題を提供しました。前年に引き続いての、君の名は、ブームは衰えを見せず、佐田啓二と岸恵子をスターダムへと押し上げ、織井茂子の映画の主題歌ばかりでなく、主人公が旅する各地にあやかり商法をまき散らしました。真知子巻きとして大流行し、この年生まれの女児に真知子の名が付けられるなどの空前のブームとなりました。また偏光メガネを使った立体映画やシネマスコープによる大型画面など、技術の進歩でも話題を集めましたが、監督や俳優、スタッフの引き抜きを禁じた大手の5社協定は独立プロへの牽制球でしたが、秩序ある映画界にという願いもこめられていたようです。

浅草にある江東劇場に縦4m横10mのワイドスクリーンが設置されたのは昭和23年6月3日のことでした。従来のスクリーンの2倍の画面は当時としては迫力満点で、映画ファンのみならず話題をさらいました。暮れの12月には初のシネマスコープ映画聖衣が東京・有楽町で封切られました。スクリーンも伸びやかで大きくなりました。この年の春、フランスのデザイナー、クリスチャン・ディオールはチューリップラインを発表しました。チューリップの花のように上半身をふっくらさせた優雅なラインと、下半身をその茎のようにスリムにしたシルエットにした彼のねらいは当たりました。次いで秋にはエッフェル塔ラインを発表しましたが、これはエッフェル塔のシルエットに似たイブニングドレスを思わせるスタイルでした。批判にさらされながらも肌をあらわにするノースリーブのファッションが若い女性の間で流行しました。戦後アメリカの例にならって、台風の呼称をジェーンやキャサリンのような女性名にすることを止めたのは、ボーヴォワールの第二性に見られる女性解放思想とは無縁ではありませんでした。そして昭和23年7月13日、伊東絹子のアメリカのミス・ユニバース・コンテストで3位入賞の報が入り、彼女のスマートでスリムな8頭身を見た時、日本人の多くは女性の解放とその美しさの相関を想起したようです。11月のディオールのショーは盛況を極め、伊東絹子は新しい日本女性のシンボルとなりました。

1952年、第二次世界大戦後の2回目のアメリカ大統領選挙は、2期目を終えたトルーマンの後を受けて立候補した民主党のアドレイ・E・スチーブンソンと、共和党から推されたアイゼンハワーとの間で争われました。アイゼンハワーはカンザス州の貧しい家庭で生まれましたが、持ち前の頭の良さをフルに発揮し、ウェストポイントの陸軍士官学校に入学し、首席で卒業した後、出世階段を駆け登り、ノルマンディー上陸作戦の指揮をとり連合軍を勝利に導きました。そのため戦後のアメリカでは共和党の一政治家というイメージではなく、国民的な英雄として大きな人気を博していました。そして折りから朝鮮戦争にウンザリしていたアメリカ国民に向かって、戦争の早期に名誉ある終了を説いたこともあり、圧倒的な票差で11月の選挙で勝ち、翌1953年1月20日から共和党政権であるアイゼンハワー政権を発足させました。この時の副大統領として選ばれたのがリチャード・ニクソンですが、アメリカの父的なアイゼンハワーはニクソンや各閣僚に対して大幅な権限委譲を行ない、会長的な大統領として実務面にはあまりタッチしませんでした。そのためにアイゼンハワー政権はビジネスマン内閣とも呼ばれ、2期8年の間、あまり大きな功績も失点もなく、意外なほど地味な政治を行ないました。そして実務面を取り仕切ったのが国務長官のジョン・フォスター・ダレスでした。アイゼンハワーのダレスに対する信頼度は大変なもので、ダレス国務長官の言うことはほぼ100%認められ、病気で倒れるまでに実に60万マイルを飛び回り47ケ国を訪ねるという当時としては超人的な外交を行ないました。朝鮮戦争の休戦協定を成立、東南アジア集団防衛条約、台湾の国民政府との相互防衛条約を締結させたのもダレスでした。ダレスはその中心に共産主義の封じ込めの強硬政策が捉えられていたため、アメリカ国内での支持とはうらはらに、国際的にはアメリカ帝国主義の権化のように言われるという反面も合わせ持っていました。

昭和28年2月1日、日本最初のテレビ放送局・NHKテレビが放送を開始しました。テレビ放送の予備免許申請はNHK、日本テレビ放送網、ラジオ東京、全日本テレビ放送、全日本放送、文化放送、中部日本放送の7社が出願していましたが、電波監理委員会では、昭和27年7月31日、日本テレビ放送網に予備免許を与え、NHK、ラジオ東京は留保、中部日本放送、文化放送は審議せず、そのほかは却下しました。その後予備放送を留保されていたNHKでは実験中の東京テレビジョン放送局を実用化試験局として運営することを申請していました。そして、昭和27年11月13日、これに対して予備免許が与えられ、本放送への階段を踏み出しました。さらに同年12月26日、NHK東京テレビジョン放送局は正式に予備免許を与えられ、施設検査に合格し、昭和28年1月26日、本免許、2月1日より日本最初のテレビ放送局を開局しました。NHK東京テレビジョン放送の内容は、昼間1時間半、夜間2時間半の計4時間で、中継放送の場合には随時延長。そのうち教養・報道で53%、文芸が47%、番組としては、舞踊、曲芸、手品、腹話術、腕相撲コンクールなどが重用され、大相撲、六大学野球、皇太子殿下出発風景などの中継に威力を発揮しました。

    copyrght(c).SINCE.all rights reserved