高度成長ブーム

新武、ナベ底、岩戸、という山や谷を越えながら、1960年代の入口になると疑いもなく戦後と決別し、異常ともいえる経済成長ブームの中に突入していきました。例えば昭和30年から36年にかけてのGNPの伸びはアメリカ15%、イギリス16%、ヨーロッパの奇跡と言われた西ドイツでさえも43%にすぎなかったというのに、日本は実に82%にも達したのです。その間に工業生産は3倍近くにも伸び、設備投資も昭和31年に前年比80%増の1兆4000億円、そして昭和36年には実に4兆円越えるという驚異的な発展ぶりを示しました。こうして訪れた未曽有の産業発展を北国の春にたとえて、欧米先進諸国では、戦前から随時時間をかけて順繰り花を咲かせて来た諸産業が、日本の場合には一挙にどっと春を迎えたように花が開いたということです。乗用車などは欧米の場合は戦前に開発された産業ですが、日本の場合は電子工業や石油化学などの戦後派産業とほとんど時を同じくして急成長していきました。文字どおり盆と正月が一緒に来たような慌ただしさでしたが、一部門の近代化投資が他部門の近代化投資を誘発するという形で、まさに投資が投資を呼ぶ形のブームが到来したのです。その中には合成繊維や合成樹脂、石油化学、電子工業といった新産業ももちろんですが、鉄鋼、電子といった基礎産業の伸びにも目を見張るものがありました。

映画慕情のテーマソングはメロディアスなラブソングです。香港の丘に登り、飛行機事故で亡くなった恋人の新聞記者の面影を追うシーンに、実に効果的に流れていました。ジェニファー・ジョーンズの混血女医が息をのむような美しさでこのテーマソングを支えていました。旅情では、ロッサー・ブラッチとの旅先で燃やす恋の火に、夏の日の恋が甘くからんでいました。エデンの東のテーマは、ポルシェを並木に激突させて急逝したジェームス・ディーンの青春像とダブって、3年間にわたってヒット・チャートのトップを走り続けました。このようなメロディーを中心としたムード・ミュージックがもてはやされる傍ら、歯切れのよいリズムと官能的なメロディーを合わせ持つラテン音楽も愛好されました。ボンゴやコンガなどのパーカッションやマラカスとトランペットやサックス群のメロディーがかみ合って、とりわけマンボは大流行しました。早いリズムに乗るために、裾が細くピッタリとしたシルエットを作るマンボズボンが若者の間で人気を呼びました。男はテカテカのポマードでなでつけたリーゼント、女は子馬のシッポのようなポニー・テールのヘアスタイルでステップを踏みました。ディオールのHラインやAラインよりも活動的なファッションでした。マンボと同様にチャチャチャも若者の心を弾ませました。

第二次世界大戦後、自由主義諸国は冷たい戦争の余波を受けながらも徐々に繁栄と安定の道を歩み始めました。いわゆる豊かな社会が始まったのです。その中でアメリカを中心にさまざまな大衆文化が花開き、テレビの発達などと相まって空前の大衆社会状況が現出しました。その象徴的なものがエルビス・プレスリーというアメリカのポピュラー歌手がまき起こした一大ブーム現象です。エルビスはアメリカのミシシッピー州にあるテュペロという小さな町に生まれ育ちました。そして、1955年の終わりから1956年の始めにかけて爆発的なエネルギーをもって登場してきたロック・アンド・ロールの波に乗り、一躍スターダムに乗り、アメリカばかりでなく世界を興奮の渦に巻き込みました。これが今日のロックの元祖になりましたが、同時に、カルチャーがポリティックスやエコノミックスと並んで人間社会を動かす大きな要因の一つとして浮かび上がるきっかけとなりました。

昭和28年4月、経済自立化政策に基づく輸出振興・防衛策の一環として、合成繊維産業育成対策が出され、さらに昭和29年4月には合成樹脂増産育成対策、また昭和30年6月に合成樹脂工業の育成についてと相次いで新産業に対する育成策が打ち出されました。これらの新規産業の育成には、低価格で安定した原料の供給が必要とされるために、昭和30年7月11日付けで石油化学工業育成対策という5カ年計画が通産省で省議決定されました。昭和30年8月、旧陸軍燃料厰跡地が、日本の石油化学の中心地として利用されることが決まり、時の通産大臣石橋湛山の、旧軍燃料厰の活用について、が閣議了承されました。ここに石油化学コンビナート第一歩が踏み出されたのです。そして、このような形の石油需要と相まって、いわゆる火主水従発電の花形として、エネルギーの面からも、石油に対する需要は幾何学的に高まっていきました。黄金の60年代は石油の時代と同義語だったのです。しかし、この石油の供給については、メジャーと呼ばれる国際石油資本がほとんど一手に握っていました。エクソン、モービル、テキサコ、ソーカル、ガルフのアメリカ系の5社と、BP、ロイヤル・ダッチ・シェルのイギリス系の2社の合計7社が独占的に支配していたのです。1951年、イランが石油資源の国有化を宣言するまでは、メジャーは中東の石油生産の100%近くを一手に掌握していました。したがって、石油価格もメジャーの思惑で決定されていたのです。日本の石油化学工業はアメリカやイギリスなどの言うがままに動かざるを得なかったのです。

昭和30年は全国各地でいわゆる基地問題が続発し、アメリカ軍当局と地元民のトラブルがどこでも長期にわたって続いていました。かくして問題は政治問題化し、保守革新両政党の抗争にまで進展し、全国最大と言われる東京都下砂川町の基地問題は半年を費やしても解決の糸口すら掴めませんでした。砂川町の場合、8月頃よりアメリカ軍基地の飛行場拡張に対する地元民の反対が表面化しました。この拡張により、農耕地、宅地などの約5万2000坪が接収され、関係する地元民は127世帯に及ぶと反対派は発表しました。反対運動が起った当初は、町長ほか20人の全町議が団結して反対の先頭に立っていました。しかし、東京調達局の立ち入り測量が開始されるという9月19日、町議会は二つに分裂しました。その理由は立ち入り測量に応ずることは、基地拡張を認めることとなる。したがって、まったく測量班を入れてはいけないと町長派は全面闘争を主張し、これに対して反町長派は、立ち入り測量に応じて政府の補償面で闘うことが町民の利益であると条件闘争を主張し袂を分かちました。これが表面に表れた両派の主張ですが、その裏には町長の椅子をめぐる町議間の政争がひそんでいました。そのために、ここの基地もんだいはいよいよ複雑化して進展しました。条件闘争派が1人でも多く自分の陣容増加に努めれば、町長派はこれを切り崩し戦だと言って、ともに勢力維持に奔走し合いました。その後再三にわたる測量班の現地乗り込みに対して全面闘争を主張する町長派は各労組の応援を得てピケ・ラインを張ったのに対して条件闘争派は、国税都税の10年間の免除、中学校の新築移転、上下水道の完備、などの三十数項の要求書を政府に提出しました。政府は当初、条件闘争派の条件をある程度認め、これをきっかけとして地元の空気を軟化させようとして計画しましたが、条件闘争派の条件があまりにも大きく、これに答えを出さず測量だけを進めました。9月以降、測量班は再三現地に乗り込み、そのたびごとに負傷者や都議町地元民の検挙者を多数出しました。ここで政府の強硬方針の確認が閣議で行なわれ、11月10日、警官600人が動員されて基礎的測量が終わりました。これで問題が解決したわけではなく、きちんとした現地測量、接収地にかわる地代の問題、地元への補償などの未解決のまま残りました。

1991年7月1日、チェコスロバキアの首都プラハで36年に及んだ東側の軍事同盟の解体が宣言されました。ソ連・ヤナーエフ副大統領、ポーランド・ワレサ大統領、ハンガリー・アンタル首相、ルーマニア・イリエスク大統領、ブルガリア・ジェレフ大統領が出席し、条約の失効を確認する議定書に調印しました。西側の北大西洋条約機構NATOに対抗して、1955年5月14日に東側8カ国、ソ連、アルバニア、ブルガリア、ハンガリー、東ドイツ、ポーランド、ルーマニア、チェコスロバキアによって調印され、6月6日に発足したのがワルシャワ条約機構でした。締結された条約は正式には、友好、協力及び相互援助条約という。加盟国が他国に打撃された場合は集団自衛権を行使して対処することを誓いました。途中、アルバニアは脱退したものの東側結束の象徴となっていました。

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