第二部株式市場

第2部株式市場は、昭和36年10月2日に発足しました。それまでの店頭株が証券取引所の管理下に置かれることとなり、新しく命名されたものです。店頭株の取引高は、昭和33年以後急速な拡大をとげ、36年には東京店頭市場の売買高は、名古屋証券取引所を上回っていました。取引の活性化に伴って25年に禁止されていた集団売買が再び発生しました。この集団売買は証券取引法第87条で禁止されている市場開設の制限に該当します。集団売買を通じた店頭取引の問題は、すでに32年に東京証券取引所で議論されていた第2市場問題にまでさかのぼりますが、この時は第2市場開設は時期尚早と判断された問題でした。しかし、その後の急速な店頭取引の増加を機に、35年末の証券取引審議会で大蔵省事務当局は株式流通市場に関する問題という書類を提出し、集団的店頭取引の組織化について議論されることとなりました。その結果証券取引審議会は上場基準を店頭売買承認基準程度とし、取引所については現取引所と第2部をつけ加える形態で組織化することが望ましいとの回答を行ないました。大蔵省は各証券取引所に遅くとも10月1日までに第2部市場を置くように要請しました。そのため東京証券取引所、東京証券業協会は、6月9日に第2市場特別委員会を設置しました。その結果、上場条件は、資本金1億円以上、総株主数250人以上、配当過去3期間年1割以上などの審査基準となりました。この基準は店頭株承認基準よりもやや厳しいものの、従来よりは緩和されたものでした。実際に第2市場に上場された銘柄は357銘柄で、会社数は東京に325社、大坂に171社、名古屋に58社となりました。

宇宙開発の分野で何とかソ連に追いつこうと、アメリカの方も必死でした。そして、人間を乗せる衛星を成功させる前段階の実験として、人間を乗せるロケットの発射実験を行ないました。1961年5月5日と7月19日の2回、レッドストーンロケットの先端に取りつけた三角形のカプセルにシュパード中佐とグリソム大尉を乗せて、約15分間、距離にして500kmの弾丸飛行に成功しました。その時すでにガガーリン少佐の地球は青かったという衝撃的なニュースが全世界を駆け巡っていましたが、アメリカは人命第一の観点からロケット飛行の実験から手をつけていました。そして、1962年2月20日、ついにアメリカも、グレン中佐を乗せた宇宙船フレンドシップ7号を打ち上げ、地球を高度160kmの周回軌道を3周し、4時間56分後に無事大西洋上に着水させ、回収することに成功しました。ソ連に遅れること10ヶ月、ついにアメリカも宇宙空間に人間を送りだすことに成功しました。

昭和37年4月20日、これまで全労の中に含まれていた総同盟が、全労、全官公と併列に並び、この3団体で結成大会を開きました。25単産、140万人。結成の発端は全労と総同盟組織競合にありましたが、当面の最大の任務も組織調整にあり、全労機関誌も同盟会議はいわゆる上位団体ではなく、連絡の場であり、組織調整の期間であり、共通問題を処理する組織であると強調しています。また結成宣言の組織に関する基本方針では、加盟する産別組合を尊重し、その原則のうえに組織の整理統合を促進する。相互の組織争いを引き起こすような行動を慎むとしています。将来は産業別組合尊重の原則に基づき、全労、総同盟、全官公を発展的に解消し、各単産、単組が直接同盟会議に結びつくことになります。結成大会で決まった当面の活動計画は、生産性向上運動をさらに積極化する。経済の二重構造を打破し、中小零細企業の安定と生活条件の改善を図る。労働時間短縮、週休2日、40時間労働の実現を図る。公労法、公務員法、スト規制法の改廃を促進する。核禁会議の強化と核兵器禁止の国際的アピールを強める。同盟は総評と違い穏健路線を目指し、支持政党もマルクス・レーニン主義を信仰する人々が影響力を持つ社会党ではなく、民主社会主義の実現を目指す社民党としました。しかし、平成元年11月21日、日本労働組合総連合会の結成に参画し、完全に解散しました。

税制調査会は税制についての基本的な問題を審議する首相の諮問機関で昭和37年に発足しました。毎年の増税や減税の額とそのやりとりを答申するほか、ほぼ3年ごとに長期的な税制の在り方を示しています。昭和46年9月に一部顔ぶれを改めて発足した現在の調査会は、委員30人で、会長は東畑精一、アジア経済研究所会長。昭和46年8月に首相に提出した今後3年から4年の長期税制答申では、福祉を向上させるには国民の税負担が重くなるのもやむなしという高福祉、高負担を唱えるとともに、その財源として間接税を重視する方向を打ち出し、間接税の税体系に占める地位は下がってきているので、適切な地位を維持すべきだ。間接税では一般消費税のうちヨーロッパ共同体型の付加価値勢が最も優れており、今後検討を続ける必要があるとしています。このほか税負担の公平との立場からみて問題の多い租税特別措置については、経済社会情勢の進展に応じて改廃していくべきだと指摘しています。また税制調査会の答申は、医師の課税特例改廃などの一部を除くと、政府によって完全に実施されています。それだけに政府に都合の良い事だけを答申する政府の隠れ蓑だとの批判も少なくはありません。この政府税調のほかにも自民党にも税制調査会があり、税制改定について大きな力を持っています。

1962年7月2日、キューバのラウル・カストロ陸軍大臣がモスクワを訪れました。カストロ首相の弟であるだけに、相当機密性の高いことを打ち合わせるためだとCIAは判断しましたが、その尻尾を掴むことはできませんでした。しかし、マイアミにやってくるキューバからの亡命者達の話しを総合すると、恐るべき事態が推測できました。つまり、ハバナ郊外のサン・クリスタバルの林の中にミサイル基地が建設されようとしているということでした。CIAは早速カリブ海に向かうソ連船を徹底的にチェックしました。その結果、兵器を輸送する30隻の船団を発見し、8月に入ると、その船団に2000名ものソ連の技術者と軍事顧問団が乗っていたことが判明しました。そして、一層の正確な情報が求められたのです。CIA長官のジョン・マッコーンはU2機による偵察飛行を断行しました。9月10月に行なった偵察飛行の結果、もはやソ連がキューバに5000人もの軍事顧問団とミサイルを送り込んでいたという怪情報は事実となりました。10月16日午前、第一回の緊急会議がホワイトハウスの閣議室で行なわれました。ここにきジョンソン副大統領、ラスク国務長官、マクナマラ国防長官、ディロン財務長官、ロバート・ケネディ司法長官、ボール国務次官、ギルパトリック国防次官、マーチン国務次官補、テーラー統幕議長、バンディ補佐官、ソレンセン補佐官らが出席しました。この会議においてケネディ大統領は敏速で決定的な行動の必要性を強調しました。しかし、この会議では結論が出ませんでした。会議では次ぎのことが討論されました。ひとつは、キューバの基地を爆撃して破壊することです。2つ目は軍事侵攻してカストロ政権を潰すことです。3つ目は封鎖でした。マスコミは事態の深刻さにまだ気づいていませんでした。ケネディ大統領をはじめ、ホワイトハウスのスタッフは何事もないように振るまっていました。しかし、一部の記者の間ではキューバをめぐる何かが起っていることは察知していました。

1962年10月18日、ケネディ大統領の最終決定が下されました。隔離戦略です。封鎖よりも積極策にでたのです。国民への重大発表への時期も決まりました。22日午後7時です。ケネディ大統領はヨーロッパ、中南米諸国の同盟国にも手を打ちました。西ベルリン市長のブラントにも、もしもの事を考えて書簡を送りました。当然のことながら、フルシチョフ宛てのものも用意しました。最後通告です。イギリスのマクミランはもちろんのこと、フランスのド・ゴールもケネディの戦略を全面的に支持しました。
アメリカ合衆国の諸君、政府は諸君に約束してきたように、キューバにおけるソ連の軍備増強について厳しい監視を行なってきたが、この1週間にこれらの島にいくつかの攻撃用のミサイル基地が建設されているという動かしがたい事実が明らかになった。これは西半球への核攻撃である。
ケネディのトーンの高い声が全米を走りました。世界38カ国のVOAを通じて世界にも放送されました。10月23日、ソ連政府の反応が国務省に入り始めました。ケネディの行動を挑発、海賊行為と激しい口調で批判したのです。国連安全保障理事会も直ちに開かれましたが、安保理の最強力メンバーが当事者として対立しているので国連の果たせる役割など皆無でした。しかし、ウ・タント事務総長も危機感を抱き、事態打開の提案を米ソ双方に送りました。フルシチョフこの提案をのみました。しかし、ケネディは拒否しました。それは、ウ・タントの提案が現状凍結的ものであったからです。それはソ連のミサイルが依然として残ってしまうからです。ケネディの意思の堅いことがソ連にも伝わっていました。この裏で米ソの接触は続きました。ケネディのもとで動いていたのが、弟のロバート・ケネディでした。彼はソ連大使館側と積極的に事態打開の糸口を探ろうとしていました。兄である大統領の核戦争も辞さずという不退転の決意をクレムリンに伝える役割を果たしていたのでした。フルシチョフが折れたのは結局ケネディの意思の堅さでした。10月27日4時、フルシチョフの私的書簡をモスクワのアメリカ大使館が受取りました。その電文はただちに国務省に送られました。
キューバへの核兵器輸送は完了した。防衛兵器であったのだが、平和を希求する私は現在の状況を我々の手に負えぬ破局に追い込んではならないと考える。貴殿の航行遮断政策は我々が対抗手段をとらざるおえない局面に追い込むものであるが、もしアメリカがキューバを侵攻しないのであれば、キューバにソ連軍がいなければならない必然も解消されよう。
こうして危機は回避されたのでした。しかし、本当に瀬戸際までいっていたことは間違い無く、キューバ上空でU2機が撃墜され、アメリカ軍の中枢部がキューバへの爆撃を大統領へ進言した直後、アメリカは駆逐艦から機雷を投下する。これが10月27日。このとき、駆逐艦はソ連の潜水艦が核兵器を搭載していることを知らなかったという。投下した爆雷は潜水艦の手前で爆発し直撃は回避されました。ソ連潜水艦側はこの措置を戦争開始ととらえ核魚雷の発射を検討。3人のうちの2人が発射を主張していましたが1人が反対しました。これが発端となって核戦争に発展する可能性は十分ありました。

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