占領政策の方針転換

昭和23年1月1日、マッカーサーは年頭のあいさつを述べるに当たって次のように言い放ちました。
日本改造再建の大事業は完成に近付いた。ひな形はできあがり、道は与えられている。これからの日本の経済政策は、自由競争企業の原則に基づいた私的資本主義を体現しているものでなければならない。
つまり占領軍はこれまでのように積極的に民主化政策を推し進めることはしないという占領政策の方針転換を示唆したのです。通商産業省が設置されたのは、そのような文脈の中においでです。マッカーサーの年頭辞に引き続いて、1月6日にはロイヤル陸軍長官が次ぎのように演説しました。
アメリカは日本に十分自立しうる程度に強力で安定した、しかも今後アジアに生ずるかもしれない新たな全体主義戦争の脅威に対する妨害物の役目を果たしうる、自足的民主主義を確立する目的を有している。
このロイヤル演説の中で示された最も大きな方針は次ぎの2つでした。
1. 過度の集中排除は、一方では戦争能力を減ずるとともに、他方では製造工業の能力も損なうこととなるので、一定の段階では、日本が自立できる日を遅らせることとなるであろう。
2.  軍事的、工業的両面において、日本の戦争機構の樹立と運用に最も積極的であった人々は、しばしばこの国の最も成功した指導者達であった。したがって彼らの働きは多くの場合は日本の経済復興に貢献することであろう。

昭和23年1月15日、東京都新宿区柳町寿産院経営者石川ゆきが夫と共謀のうえ、昭和19年から23年1月に至る間、保育料を得て他人よりもらい受けた乳幼児240名中140名の保育を怠り死亡させた容疑により、警視庁が検挙しました。この頃、道義の退廃、経済的不況ないしインフレ、衣食住切迫に基づく国民生活の困窮等によって、犯罪は従来みられなかった様相を呈しました。そして2週間後の1月26日、東京都豊島区長崎の帝国銀行椎名町支店で、何者かが当時付近に流行していた赤痢の予防薬と称して、青酸性毒物の溶液を16人の行員全員に飲ませ、12名を殺害し、現金16万円と小切手1万円が盗まれるという事件が起りました。事件直後、女子行員の1人が通用口より転がり出て、急を通行人に告げた事から緊急警戒、捜査が始まりました。同年8月21日、テンペラ画家の平沢貞通が北海道小樽署に逮捕され、9月27日警視庁が自白を発表しました。昭和25年7月24日東京地裁、26年9月29日東京高裁がそれぞれ死刑判決、そして30年4月6日、最高裁が1、2審の死刑判決を支持して上告棄却。5月7日に死刑が確定しました。しかし、その後も平沢の自白の真偽が問題となり、再審請求が出されました。昭和30年5月22日、再審が東京高裁で棄却されましたが、第一回の公判で検事に催眠術をかけられたとして自供をひるがえして昭和62年4月21日を最後として18回の再審請求を起こして争い続けました。その平沢も昭和62年5月10日、肺炎のために拘置先の八王子医療刑務所内で死亡。95歳でした。逮捕から実に38年8ヶ月、死刑確定後から30年経っていました。

世界最大の植民地支配国はイギリスであり、アジア地域においてもインドをはじめ広大な植民地を保有していました。しかし、アメリカが民族の独立を認める態度を示したために、イギリスは大いに迷いました。それは、インドが莫大な赤字を抱えて破産状態にあり、イギリスが引き揚げたら誰もこの地域を再建できないだろうという自負があったからです。火の手はビルマから上がり、すでに1942年の段階でビルマの民族主義指導者であるオン・サンとタキン・ミヤを中心とした民族党タキンの戦士たちは日本との間に秘密協定を結び、イギリスを1度国外へ追放することに成功していました。しかし、その後の日本軍の暴虐ぶりに耐えかね、1944年には今度はイギリス軍と手を組み日本軍を追出しました。これによってビルマ人達は当然イギリスがビルマの独立を認めるものと思っていましたが、保守的なドーマン・スミス総督は第二次世界大戦後も弾圧を続けました。そのためにビルマの指導層である僧侶階級までが怒りだし、もともと抗日のために組織されたビルマの各政党の統一団体である反ファッショ人民解放連盟を中心に反英ゲリラ闘争を開始しました。これに対してイギリスは徹底した弾圧と分断統治に乗り出す決意を固め、少数民族のカレン族の指示を求めましたが、拒否されてしまいました。事態の重大さに気付いたイギリスは、ビルマを独立させる方針に切り替え、1948年の1月に宗教心のあついタキン・ヌーを初代首相にしたビルマの成立に承認を与えました。

インド亜大陸の東南端に位置するセイロンという島は、イギリスのアジアにおける拠点の中でもとくに重要な位置を占めていました。何よりも、軍事基地としての価値が高く、第二次世界大戦中イギリスはこの島の中央にある山深い避暑地カンディーに東南アジア連合軍総司令部をかまえ、島内のあちらこちらに空軍基地を作るとともに、トリンコマリー港にも海軍の出撃拠点を設け、日本軍を大いに苦しめました。しかし、戦争が終わるや、セイロンの指導者層の中心を成す、高い教養を持った仏教徒であるシンハリ族から強く独立を要求され、1947年にインドの独立が認められるとともに、セイロンの独立も決まり、1948年2月4日にはイギリス連邦内の自治領として450年ぶりに独立が達成されました。1971年には上院を廃止し、翌年5月の制憲議会で新憲法を採択し、スリランカ共和国を宣言しました。

1948年2月に行なわれた共産党クーデターでこれによって、それまでパリと並ぶヨーロッパの花のような存在であったプラハも、鉄のカーテンの中に隠れてしまいました。コミンフォルムの結成をきっかけに、西ヨーロッパ諸国の共産党は活発な反米活動を展開することとなり、同時に東ヨーロッパの各国でも、民主化を進めるという口実のもとに、共産党が次々と政治権力を握るようになりました。そのような一連の流れの中で起ったチェコスロバキアの共産党によるクーデターでした。当時、チェコでは共産党を含む各派の連立内閣で政治を行なっており、マーシャル・プランに対しても1度はこれを受諾しましたが、その後ソ連の猛反対にあい撤回しました。しかし、ソ連は迫りくる総選挙で共産党が敗北することを予期したため、その前に政権を奪取してしまおうと考え、ゾーリン外務次官をプラハへ送り込むなど着々とクーデターの準備を進めました。そして、1948年2月25日、ついにゴールドワット首相の率いる共産党にクーデターを起こさせ一党支配体制を確立するに至りました。そして民主政治家として国民の厚い信頼を集めていたベネシュ大統領も、その地位を終われてしまいました。このクーデターを見て、西側諸国の対ソ姿勢はますます硬化し、イギリスの労働党政権までが、ハッキリとソ連と対決する方向に進み始めました。すでに、ベビン外相はその年の1月に、イギリスの下院で次のように演説しました。
ソ連は現在、ヨーロッパ支配のために冷酷な行働に出ていますが、これは不可避的に第3次世界大戦を招くであろう。ソ連のこの進出に対抗するためには、西ヨーロッパ諸国の連盟結成する必要がある。
これをきっかけとして、1948年3月17日にはフランスとベネルックス3国が西欧連合条約(ブリュッセル条約)を結び、やがてこれを母体として北大西洋条約機構NATOが結成されることとなります。

昭和23年2月10日、片山内閣はついに総辞職に追い込まれました。今こそ保守派は力を合わせて政権を取り戻すべきであるという保守合同の動きがにわかに強まってきました。3月10日、片山内閣の後を受けて、社会党右派、国民協同党の支持のもと前片山内閣の副総理兼外務大臣、民主党総裁芦田均が内閣を率いることとなりました。外務省出身の芦田は親欧米リベラル派として、戦時中も軍部に対する批判を続け、昭和17年の翼賛選挙には非推薦で当選。敗戦と同時に急激に政界の表舞台に躍り出ました。20年の10月には幣原内閣の厚生大臣、その年の11月には鳩山一郎と日本自由党の創立に参加、21年6月に衆議院憲法改正委員会委員長、22年には進歩党に転じ、犬養健とともに民主党を結成、自ら総裁となりました。内閣の発足は波乱に富んだもので、衆議院は36票差で吉田茂を避けたものの、参議院では決戦投票で逆に2票差で吉田に負けました。つまり、両院で異なる首班指名をしたわけです。両院協議会でもまとまらず、結局新憲法67条2項の規定に基づき芦田が総理として内閣を組織することとなりました。この内閣は基本的には片山内閣の施策を受け継いだもので、インフレの抑制と外資導入による経済再建をその基本としました。高まる労働争議をGHQの力を背景に、23年の3月に起った官公労のストを力で押さえ、マッカーサー書簡を受けて公務員の争議権を奪う政令201号を公布、断固たる姿勢を示しました。しかし、同年7月6日には土建業者からの献金問題で副総理の西尾末広が辞職。さらに6月23日に発覚した昭電事件では、9月30日に元大蔵大臣で経済安定本部長が逮捕され、10月6日には西尾が逮捕されるに及び内閣は行き詰まり、翌7日には総辞職しました。この事件では芦田自身も12月7日に逮捕されることとなりました。前の片山内閣と芦田内閣は国民の期待も大きかっただけに、革新に対する根強い不信感を抱かせるものとなってしまいました。

    copyrght(c).SINCE.all rights reserved