テレビ宇宙中継

昭和38年11月23日、カリフォルニア州ロサンゼルス郊外モハービ砂漠にあるNASAの地上局から送信されたテレビ映像信号が、アリューシャン列島の上空高度7000kmを秒速8kmで北東に向かって飛ぶ実験衛星リレー1号により、KDD茨城宇宙通信実験所の20mアンテナに送られ、それが映像モニターに鮮やかに映し出されてお茶の間に届けられました。日本とアメリカとの間の初のテレビ宇宙中継実験が成功したのです。通信衛星リレー1号による日米間受信実験のスケジュールが決定したのは、昭和38年11月19日。翌朝の新聞はいずれも、23日全国放送、大平洋をこえてテレビ中継、東京五輪への布石、といった見出しが踊っていました。受信実験の模様はテレビとラジオを通じて一般にも公開することが決まり、これが成功したのです。しかしそれが皮肉にもケネディ大統領の暗殺という衝撃的なニュースでした。ケネディ大統領は1960年代末に月面着陸を達成すると1961年に明言し、それ以後、アメリカは威信をかけてアポロ計画をとりくんでいましたが、その主人公であるケネディ自身の暗殺の場面が、日米間の初の衛星中継の素材になったのです。

高度成長政策によって経済大国への道をひたすら邁進しようとする池田内閣の外交面における最後の総仕上げは、世界の金持ちクラブと言われるOECDへの加盟でした。池田首相は昭和37年に日英通商航海条約の調印をきっかけに、ヨーロッパ6カ国を訪問し、各国主脳と会談しました。日本の経済成長を強く印象づけ、貿易差別待遇の撤廃を実現しOECDへの加盟を打診することが目的でした。池田は北アメリカ、西ヨーロッパ、日本が自由諸国の3本の柱であり、三者の協力関係の強化が世界平和の基礎であるという論法で、西ヨーロッパと日本の経済関係の増大の必要性を説きました。フランスのドゴール大統領がこうした池田首相の貿易重視の姿勢を見て、トランジスターのセールスマンと皮肉ったことがフランスの有力紙で伝えられるなどの波紋はありましたが、各国主脳は日本のOECD加盟に好意的な示しました。ガットの35条の援用撤廃にも賛成の態度を表明しました。日本の経済力は、西欧諸国にも認知されたのです。昭和38年2月、池田首相はOECDに正式に加盟を申し込み、加盟交渉、国会審議を経て翌年4月に正式加盟が決定しました。政府はOECDは先進自由主義諸国の大部分が加わり、世界経済の重要な問題につき意見の交渉と調整していますが、わが国の加盟により、世界経済の発展に寄与、国際経済社会おける地位がいちだんと向上すると考えられる。との黒金官房長官の談話を発表しました。日本はOECD加盟により名実ともに先進国の仲間入りを果たしました。

1964年の8月に国連で決議された、通信衛星による通信は、無差別に全人類のために利用されるべきであるという宣言に基づき、世界電気通信衛星機構という人類史上初の宇宙通信国際機関が設立され、翌年の1965年の4月には、早くも大西洋上にアーリー・バードの愛称で呼ばれるインテルサット1号衛星が打ち上げられました。世界初の商業用通信衛星として動き始めたこのアーリー・バードのおかげで、北アメリカ大陸とヨーロッパ大陸を結ぶ国際電話をはじめ、テレビやテレックス、ファクシミリなどの商用通信が宇宙を通じて行えることが実証され、世界は一挙に宇宙通信の時代に突入しました。それまでの国際間通信は、すべて海底ケーブルを通じて行なわれていましたが、この方式ではケーブルの両端の2カ国でしか交信できませんが、人工衛星を利用すれば何所でも通信可能であるため日米欧といった先進諸国だけでなく、アジアやアフリカの発展途上国の中にも利用を希望する国が激増し、日本電気のスターに目をつけた国々から地上局設置の依頼が殺到しました。宇宙ビジネスが初めて日本の関係者の間で認識されるに至ったのでした。日本から衛星通信の関係の機材が海外に輸出された最初のものは、昭和41年にインドのアーメダバットの衛星通信実験局に納入された一式でした。翌42年にはメキシコに、43年にはペルー、クウェート、台湾、韓国、オーストラリア、44年にはヨルダンへと、続々と日本電気製の宇宙通信機器が輸出されました。特にメキシコに納入された地上局施設は、1968年のメキシコ・オリンピックを全世界に中継放送することを可能にし、ペルーに納入された機器のおかげでアポロ11号の月面着陸の模様がリアルタイムに国民の目に届けられることとなりました。日本の宇宙技術が世界的に大きく注目され始めたのです。

1964年2月1日、就任して間もない第36代合衆国大統領リンドン・B・ジョンソンは、34A作戦計画という暗号名で呼ばれるCIA立案の秘密作戦に承認を与えました。前年の11月2日にも、CIAの謀略ではないかといわれる不自然なクーデターによってゴ・ジン・ジェム大統領と実力者として知られていたヌー顧問が射殺されたばかりです。ますます形勢不利になってきた南ベトナムの戦況を一挙に打開するために北ベトナムの領域にまで戦争を拡大しょうというのが34A作戦計画の狙いで、その中には次ぎのような秘密作戦が含まれていました。
U2スパイ機による北ベトナム領への偵察飛行。情報収集のための北ベトナム市民誘拐。北ベトナム領内への破壊、心理作戦班の投入。鉄道や橋を破解するための上海からの奇襲上陸攻撃。魚雷艇による北ベトナム沿岸施設の攻撃。ラオス南部や北ベトナム国境地帯の偵察を目的とした暗号名ヤンキーチームの実施。アメリカ人とタイ人のパイロットを中心としたラオス政府の空軍機からの爆弾投下T28爆撃作戦の実施。トンキン湾内の駆逐艦によるパトロールを目的としたデソート・パトロール作戦の実施。ラオスへのパラシュートによる地上部隊の降下を目的とした越境地上作戦の実施。
以上のような作戦を複合して行なった結果引き起こされたのが、有名なトンキン湾事件です。アメリカ援助軍司令官ウィリアム・C・ウェストモーランド将軍の指揮する南ベトナム海軍奇襲部隊が、34A作戦計画の一環として、トンキン湾内の北ベトナムの2つの島であるホンメ島とホンニュー島に上陸作戦を決行しました。その時にデソート・パトロール作戦に従事中のアメリカ海軍の駆逐艦マドックス号がトンキン湾内にいました。しかし、その位置は沿岸から43km沖合いの公開上でした。マドックス号はこれを南ベトナム軍の護衛艦と間違えた北ベトナム軍の魚雷艇に攻撃され、トンキン湾の外に逃れました。しかし、北ベトナム軍の魚雷艇はマドックス号とターナージョイ号に対して再び攻撃を仕掛けてきました。かねがね北爆のチャンスをうかがっていたジョンソン政権はこのニュースを聞くや否や、議会工作に乗り出しました。

1964年8月7日、ジョンソン大統領から提出された北ベトナム爆撃開始案について上下両院合同会議が開かれ、上院では賛成88対反対2、下院では賛成406対反対0の圧倒的多数で大統領案どおりに可決されました。これが有名なトンキン湾決議ですが、以後もジョンソン大統領は、ことあるごとに、この決議を持ち出し激しい北爆を繰り返すこととなりました。しかし、アメリカ国民と議会の積極的な指示の姿勢はここが頂点でした。それというのも南ベトナムにおける共産主義の勝利を防ぐ為に、アメリカの何らかの介入は必要であり、中国とソ連が本格的に肩入れする前に勝利を決定的にしておくことは国益はもちろんのこと、自由主義陣営にとって不可欠と心から信じていたのでした。ジョンソン自身もソ連と中国の介入を招きかねない大規模介入は避けたいはずでしたし、そのためには早期に共産主義勢力を叩く戦略上の必然性もあったのです。トンキン湾事件はその意味では絶好の機会でした。大統領選でジョンソンを圧倒的多数で信任したのも、ベトナムでの勝利は間近な事を議会も国民も確信していました。しかし、その目論見は完全に外れ、共産側は消耗戦略への信頼を変えませんでした。トンキン湾事件はベトナム戦争のその後を決定する運命的な事件でした。アメリカ外交文書の公開などを通じて明らかになったのは北ベトナムによる最初の攻撃はアメリカ側のスパイ活動の結果起きたもので、2度目の攻撃はそれ自体がでっち上げられたものでした。日本はベトナム戦争を渋々支持しますが、日本の外務当局は当初よりこの事件がアメリカの謀略であると疑っていました。平成15年12月に公表された外交文書で、当時の国際資料部長によると、結果からしても得をしたのは米国だけで北ベトナム、中共の半農も狼狽している。米国の行動はうまくやったという言葉を残しています。

昭和39年10月10日、東京オリンピックがアジアでの初めての大会として開催されました。参加94カ国、選手約6000人。新たな参加国は新興独立国の多いアフリカを中心に15カ国。敗戦から19年目に開かれた東京オリンピックは、一つの目標のもとに日本のさまざまな力を集結させてみせた巨大なプロジェクトでした。東京オリンピックの開催は、ヘルシンキオリンピック後の6年近い誘致運動が実って、昭和34年、ミュンヘンのIOCで正式に決定しました。その頃はなべ底景気に代って岩戸景気という造語も現れていたものの、オリンピックの膨大な予算を日本がどうやって工面できるのか、時期尚早という意見も少なくはありませんでした。しかし、これを引き金として戦後復興の仕上げを加速させ、スポーツを通して世界の平和と友好を確かめ、新しい日本の実力と姿も世界に示そうといった気運がしだいに高まっていきました。やがて各所にオリンピックまであと何日の看板が立ち、突貫工事が始まり出しました。大会関係の直接経費は300億円、交通網などの間接投資は1兆円近いと言われ、当時としては破格の大規模な建設工事が集中しました。東京には、オリンピック道路という名の高速道路、新地下鉄網、羽田モノレールがのび、ホテルが建ち、西に向かっては新幹線、名神高速の工事が進みました。代々木界隈も大きく変身し、広大な芝生には、アメリカ軍宿舎ワシントンハイツが戦後日本の遺物のように広がっていました。ここをオリンピック用地にしたいという提案を在日アメリカ駐留軍は拒否しました。交渉は難航し、体育関係者を悩ませましたが、結局許可を取り付け、選手村、国立屋内競技場、練習用の織田フィールド、そして国内と世界を電波で結ぶ放送センターの工事がオリンピック開幕寸前まで続けられました。30の競技場は開幕1週間前に落成した武道館を最後に駆け込みの形で完成しました。競技種目は柔道とバレーボールが始めて加えられ、20競技163種目という最大の規模となりました。日本が獲得したメダルは金16、銀5、銅8の29個でした。金メダルはアメリカ、ソ連に次いで多く、予想を上回る数が国民を喜ばせました。IOCからも東京オリンピックは施設、運営ともに優れたものであったとして、オリンピック史上初めての3つの賞が贈られました。

昭和37年7月に行なわれた池田勇人の2選目を問う自民党総裁選挙には、佐藤栄作も藤山愛一郎も立候補せず、形の上では池田の独走という形で終わりました。しかし、明らかな反池田票と見られる75票もの白票や無効票が混じっており、官僚派の福田赳夫を中心とする党風刷新懇話会などの政権奪取運動が激化してきたことをうかがわせました。昭和39年7月の自民党大会では、池田の3選を問う重大な山場となりました。そして党内が官僚派と党人派の二つに分かれている最中に党人派の領袖と目されていた大野伴睦が亡くなりました。総選挙には、3選をねらう池田に対抗して佐藤と藤山が立候補し、池田、河野、川島、旧大野の主流4派に加えて、三木派を抱き込み派閥所属議員の数の上ではまず優先に立ちました。佐藤は佐藤派と福田派に加えて石井派を味方に引込みました。一方で決戦投票に持ち込まれた場合の2、3位連合盟約も藤山との間に交わされました。数の上で劣勢の佐藤は池田支持の各派へ激しい切り崩し工作を行ないました。指導者を失って動揺気味旧大野派、最後ので去就に迷った三木派が格好の切り崩しの対象となりました。池田は第1回投票で過半数をわずか4票上回る242票で3選されましたが、きわどい勝利でした。佐藤派の工作によって池田支持各派がかなり切り崩されていたのでした。3選を果たしながらも池田は妙に弱気だったそうです。40票の差をつけるつもりだった自信家の池田にしてみれば、選挙の結果はショックだったのと、病魔が池田の身体をむしばみはじめており、池田の気力を奪いつつありました。派閥均衡にとらわれないとの党近代化の趣旨を尊重する形で他派閥の三木武夫を幹事長に据え、大野に代って川島正次郎を副総裁に起用して、最後の池田体制は昭和39年7月18日に発足しました。それから1ヶ月あまり立ったころ、池田首相はガンに取り付かれていたことが分かります。しかも病状は予想外に進んでいました。ガンであることが判明する寸前、東京でIMF総会が開かれ、入院中の10月1日東海道新幹線が営業開始しました。10月10日に東京オリンピックが開催され、池田も開会式に出席することができました。日本の経済力を世界に誇示する華やかな行事が死の直前に相次いだことは何やら象徴的でした。吉田茂の路線を継承し、経済の高度成長をひたすら推進し、経済大国の一角に連なる日を夢見て来た池田にとっては、こうした行事は病床にありながら大きな慰めでした。

昭和39年10月25日、重症のガンを患った池田勇人は、ついに正式に辞意を表明しました。時の幹事長の三木武夫はイギリス保守党のマクミランからヒュームへの政権交替にならって話し合いによる総裁指名の形をとるようにと熱心に提案しました。その結果、自民党内は、河野一郎、佐藤栄作、藤山愛一郎の3人の中から後継総裁を話し合いによって決めるという雰囲気になってきましたが、最大の問題となったのは、官僚派を選ぶか党人派を選ぶかという点でした。最後の党人派と言われた河野一郎は、池田政権の後半に入閣して積極的に首相を助けたという事実もあり、最終的には池田勇人自らが自分を指名してくれるだろうと自負していました。しかし、官僚派の巨頭である吉田茂が河野擁立に強く反対していたのと、財界主流人も河野に拒否反応を示していたために、党内の空気は6対4の割合で佐藤に傾いていました。河野が最も頼りにしていたのは川島正次郎でしたが、さすがの川島も党内や財界の空気を跳ね返してまで河野を推す気持ちはありませんでした。三木武夫も思いは同じでした。11月9日の朝川島と三木はそろって佐藤のもとを訪れ、後継総裁として貴方を推すと確約しました。ここに至ってはもはや池田も反対できる雰囲気ではありませんでした。元々池田も佐藤も吉田学校の優等生であり、保主本流の中心人物として財界の信頼も厚く、そのような意味では落ち着く所に落ち着いたという感が強くありました。1960年代の高度成長を背景に長い間の官僚派対党人派の確執は、ここに完全な官僚派の勝利をもって幕を閉じました。

昭和39年11月10日、佐藤内閣が船出しました。しかし、話し合いにより総裁に就任したという経緯もあり、人事の佐藤として知られる佐藤栄作も、第1次佐藤内閣においては官房長官の鈴木善幸を佐藤派の橋本登美三郎に替えただけで、それ以外はそのまま池田内閣の布陣を引き継がざるを得ませんでした。この状況を見て党人脈の最後の復建を狙ったのが河野一郎でした。河野は盛んに佐藤首相に働きかけて、挙党体制を確立すべきであると提言し始めました。挙党体制をとるとならば、党人派の首領である自分にもチャンスがめぐってくるのは当然であり、その機に乗じて再び党人派による反撃を開始しようともくろんでいたからでした。そして佐藤首相は内閣の改造に着手し始めましたが、挙党体制とはほど遠いものでした。幹事長に田中角栄、大蔵大臣に福田赳夫、官房長官に橋本登美三郎というぐあいに実力者たちにそれぞれ重要なポストを与えたにも関わらず、河野一郎だけは蚊帳の外に置かれてしまったのです。そしてその直後に河野一郎と池田勇人が他界し、ついに佐藤栄作の独壇場となったのです。佐藤栄作は山口県生まれで東京大学法学部を卒業後、鉄道省に入り、運輸省自動車局長、大坂鉄道局長、鉄道総局長を経て、運輸次官をつとめるなど官僚として典型的なエリートコースを歩みました。昭和23年に第2次吉田内閣の官房長官に大抜擢され政治の道を歩み始めました。昭和24年の1月の総選挙で山口2区から立候補し初当選、その後は自民党政調会長、幹事長、第3次吉田内閣の郵政大臣兼電気通信大臣、第4次吉田内閣の建設大臣、第2次岸内閣の大蔵大臣、第2次池田内閣の通産大臣、科学技術庁長官を歴任した後に総理大臣となりました。昭和47年7月6日までの7年8ヶ月にわたり政権を担当し、名実共に佐藤時代を築きました。この在任期間は新憲法のもとでは最長でした。内政外政においても歴史に残る数々の実績をあげました。池田内閣に始まった高度成長政策を軌道に乗せ、日本をGNP世界代2位の経済大国にしたのも佐藤の功績だといえます。沖縄と小笠原を施政権を交渉によって返還させたことは世界史的な視野から見れば画期的な歴史的事件でした。その他にも昭和40年6月22日の日韓基本条約の調印による日韓国交正常化、ILO87号条約の批准、昭和45年6月にはアメリカとの安全保障条約の自動延長をさせるなどの実績をあげました。昭和49年10月にノーベル平和賞を受賞したことは佐藤時代の外交政策の評価を決定づけるものでした。しかしマイナス面もあり、産業優先の政策はさまざまな都市問題を引き起こし、消費者軽視という批判を逃れられないような対応の遅れが目立ちました。外交面では中国政策に大きな立ち後れを見せ、これが政権の命を短くします。昭和46年8月15日と47年2月21日のニクソンショックにより、時代に対応できない佐藤内閣の末期症状が明らかとなり、昭和47年6月17日に退陣を表明するに至りました。

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