大型合併

昭和43年を中心として40年代前半は、大型合併のうねりが高まりました。貿易の自由化に続いて、資本の自由化が進み、日本の企業が国際経済の影響を受けるように従い、企業規模を大型化して国際競争力を強化していこうという考え方が強まったからです。昭和43年には王子系3社の王子製紙、十条製紙、本州製紙が合併覚書に調印し、4月には八幡製鉄、富士製鉄が合併の意向表明、10月には日商と岩井の合併、東洋高圧と三井化学の合併が行なわれました。こうした大型合併の動きに対して、近代経済学者90名が集まり、独占禁止政策懇談会を設置し、6月、大型合併についての意見書を発表して、合併反対の論陣を張りました。この意見書は企業間競争が、技術や経営革新を生み経済発展の原動力となること、八幡、富士、王子系の3社の合併は、独占禁止法15条で禁止している一定の取引分野における競争を実質的に制限する可能性が強いこと、八幡、富士、王子系の3社の合併は、規模拡大による利益はあまり期待できず、かえって効率が低下すること、政府は大型合併を促進するような言語を行なうべきではないこと、などの内容となっています。経済学者が団結して現実の経済、産業問題に積極的に意見を述べたのは、今回が最初と言ってもよいことで、大型合併問題はこの点からみても意義の大きい出来事でした。王子系の3社は、4月公正取引委員会に合併趣意書を提出し、10月に合併を期しました。しかし、3社が合併すると新聞用紙、下級印刷紙の市場占有率が60%を超えること、代理店などの流通部門に対する支配力も強いこと、競争企業もあまり存在しないことなどの問題が指摘されました。こうしたこともあり、王子系3社は9月に合併の事前審査の申請を取り下げました。八幡、富士の合併についても同様の問題がありました。公正取引委員会は、両社が合併すると市場占有率が30%を超えることとなる9品目についての調査を行ないました。昭和44年に入って、3月の正式な合併の手続きの提出を受けて公正取引委員会は4月に公聴会を開き、5月に合併に関して初めての中止勧告を行ないました。両社はこの勧告を拒否したため、独占禁止法に基づく審判が開始され、10月に和解と同趣旨の同意審決が出され、1年半ぶりに決着しました。こうして、鉄道、食缶ブリキ、鋳物用製鉄及び鋼矢板の各製品について、競争企業の参入などを条件として合併が認められました。翌年の昭和45年3月31日、八幡製鉄と富士製鉄は合併し新日本製鉄が誕生しました。

40年不況を乗り越えた日本経済は、昭和45年に至るまでの長期間の景気上昇を実現しました。好況の期間が長かったばかりでなく、経済成長率も高くなり、国際的に見ても日本経済の水準は上昇しました。昭和40年には、日本の国民総生産GNPは33兆8000億円、ドル換算では883億ドルとなり、アメリカ、西ドイツ、イギリス、フランスに次いで自由世界第5位の経済規模でした。3年後の昭和43年のGNPは53兆3000億円、1419億ドルとなり西ドイツの1322億ドルを抜いて自由世界においてアメリカに次ぐ第2位の地位を占めるまでになりました。ただ1人あたりの国民所得を見ると、日本は人口が多いことからGNPほどには国際的水準の高まりは顕著ではなく、自由世界では第20位程度にとどまっていました。日本経済の成長は工業部門を中心として顕著なものがありました。昭和40年代半ばまでに、造船、鉄鋼、自動車、家庭電器、合成繊維、化学肥料などの生産実績について、世界の首位を争う工業国家となりました。造船業については、昭和31年以来商船建造高において世界一位です。昭和43年の日本の商船進水高は、858万トンと世界合計の50%以上を占めています。また粗鋼生産高で見ると、6689万トンで、アメリカの1億1926万トン、ソ連の1億654万トンに次いで世界第3位となっています。テレビは、生産高が914万台となっており、アメリカの1033万台に次いで世界第2位となっています。その他にもオートバイ、ラジオなどが世界一の生産量を誇っており、電力発電量は、アメリカ、ソ連に次ぐ世界第3位となりました。輸出も大きく伸び、昭和35年には41億ドル程度でしたが、昭和40年には85億ドル、昭和42年には104億ドル、昭和43年には130億ドルと急増しました。輸出の伸びもほぼ同様で、昭和35年の45億ドルから昭和43年の130億ドルへ上昇しました。日本経済の先進国入りに際して国際的な責任を果たす必要も出て来ました。日本も援助される国から援助する国へと変わって行ったのです。

昭和43年は日本の国際収支が黒字基調を定着させた年です。その後石油危機を除いて黒字傾向は現在まで続くこととなります。最近日本の国際収支の黒字が国際的に問題とされていますが、こうした黒字問題も出発点は昭和43年頃にあるといえます。その意味においても昭和43年の位置付けは重要です。日本の外貨準備高は、昭和35年頃より昭和43年までに一貫して20億ドル水準を上下しながら安定的に推移してきました。外貨準備高が20億ドルを下回ると内需を抑制し、その結果輸入も抑制されるという引き締め政策がとられました。国際収支の天井といわれるように、景気調整策は国際収支の均衡によって左右されてました。国際収支が赤字化する時期は景気が過熱ぎみとなる場合が多く、国際収支均衡と景気調整策は矛盾することなく実行されていたのです。日本経済が平均して10%程度の高度成長を実現していれば、中長期的に国際収支は黒字と赤字を相殺しあい、結果としてバランスがとれるというケースが続いていました。こういった日本経済の循環は昭和43年頃より急速に変化してきました。国際収支の黒字が大幅となり、外貨準備高が20億ドルを飛び越えて増大し、その勢いが止まらなくなったのです。国際収支は貿易収支、経営収支、総合収支の3種類で主としてとらえることができます。商品資本の全ての国際間の引き取りを含めた総合収支を見ると、昭和44年22・8億ドル、昭和45年13・7億ドル、昭和46年47・2億ドルの黒字となっています。黒字対策として、政府は円シフトをとっていました。これは国際収支の黒字部分をすべて外貨準備高の増加に繰り入れず、日本の外国為替銀行、企業が外国より借り入れていた債務の返済にまわすようにすることです。それでも外貨準備高は昭和44年に35億ドル、昭和45年に44億ドル、昭和46年には152億ドルという驚異的な増加をしていました。これは円の360円という対ドルレートが実勢よりもかなり割高となっていることを反映しています。日本以外では西ドイツの国際収支の黒字が大きく、基軸通貨国といえるアメリカの赤字が目立っていました。アメリカは対日赤字が大きく、日本に対して黒字を赤字国へ返還するような要求も出していました。貿易や対外投資の自由化、日本の対米輸出規制、残存輸入制限の撤廃などの要求もありました。現在の対外経済摩擦と同じ問題が生じていたのです。

1968年3月31日、アメリカの3大テレビネットワークは早朝より、今夜はジョンソン大統領より重大な発表があるため、全国民は必ずテレビを見るようにと繰り返し呼び掛けていました。そしてその夜、リンドン・B・ジョンソン大統領はアメリカ国民にこう呼び掛けました。
我が同胞たる親愛なるアメリカ国民よ、今やアメリカ合衆国は建国三世紀に入ろうとしているこの大切な時期にあたって、史上いまだかつて経験したこともないような重大な危機に立っている。我々が団結の必要性を今日ほど強く感じている時はない、この祖国の重大な危機に直面して、合衆国大統領としてこの困難な状況を乗り切るためにいかなる努力、いかなる犠牲を払うことをいとわない。そして強い決意を表明するために、私はここに全国民の前で2つのことを約束する。一つ、ベトナム戦線における北爆を停止する。二つ、来る11月の大統領選には出馬しない。
ジョンソンは大統領の職を捨てても泥沼にのめりこんだベトナム戦争を集結させて見せるから、アメリカ国民も団結し、挙国一致で政府の政策に協力してほしいという呼び掛けを行なったのです。当時のアメリカ軍の総兵力は、陸軍153万人、海軍76万人、海兵隊30万人、空軍90万人、艦艇940隻、航空機4000機以上と言われていましたが、東南アジアの片隅で行なわれている戦争のために、アメリカ軍はその兵力の半数近い55万人にもおよぶ兵員と核兵器以外のあらゆる新鋭兵器を投入していました。それでも勝てないばかりか、死傷者は日増しに増え、国際世論はアメリカ帝国主義の侵略行為と激しく非難しており、国内においても学園紛争、黒人暴動、ヒッピー化などの若者達を中心としたあらゆる動きが、怒りと抗議の集点をベトナム戦争へと集約させつつありました。このような社会的な状況下において、起死回生となるジョンソン大統領の声明はアメリカ国民の間に大きな反響と同感を呼び、若者達の間にもこれで戦争に行かなくてすむとと安堵の胸をなでおろす者が大勢いました。

ジョンソン大統領が北爆停止宣言を行なったにもかかわらず、ベトナム戦争は終わりませんでした。ジョンソン声明の1ヶ月後の1968年5月からパリで行なわれた和平交渉もいつのまにか中断され、ベトナムの戦火はますます拡大の一途をたどり、若者達の間には以前にも増してひんぱんに徴兵カードが舞い込むようになりました。学校へ通っていたり、働いていた若者達の運命が突如舞い込んで来た一枚のかみ切れによって一瞬のうちに狂わされ、生死の淵を歩かされることになります。しかもジョンソン大統領はもうじき戦争は終わると繰り返し約束しているというのに、なぜ闘い続けなければならないのか。見ず知らずの異国の泥沼の中を這い回り、憎んでもいない人間を殺しあわなければならないのか。怒りと絶望の中で若者達は戦場にひきずられて行きました。当時のアメリカの学園では1965年の北爆開始以来確実に勢力を増しつつあったニューレフトによるベトナム反戦運動が絶頂期を迎え、大学の構内では、連日のように徴兵カードが焼かれ、デモ隊との衝突が繰り返され、ヒッピー達の群れが国境を超えてカナダに逃亡するという事件が頻繁に起っていました。しかし、それでも大多数の若者はまだ、この戦争は60年代のアメリカの避けがたい宿命であるという大義名分を信じることによって、国家の命ずるままに戦地に赴いていきました。

日本通運は昭和12年10月に日本通運株式会社法により、国際通運ほか6社を統合してスタートした国策会社です。時代からして、この会社が戦争体制整備の一環として生まれたのは当然で、設立当初は現業を持っておらず、全国に点在する小運送業の元請け清算会社でしたが、大平洋戦争の侵攻について、より政府の意向を反映させるために行政指導により地方の運送会社を統合し、日本帝国の動脈として戦時輸送の任務にあたることとなったのです。敗戦後は過度経済力集中排除法によって整理され、民間企業として国内運送の大半を占める巨大企業としてスタートしました。こうした背景をもった民間会社だけに政府、政治家の影響も受けやすく、そして独占企業に近く、汚職の温床になりやすい体質をもっていました。その意味では昭和43年の日通汚職事件は起るべきした起った事件でした。東京地検特捜部は、昭和43年2月に日本通運を乱脈経理で摘発、捜査を続けていましたが、4月8日に前社長の福島敏行が業務上横領の容疑で逮捕されるに及び、日通事件は政界をも巻き込んだ一大汚職事件としての様相を呈してきたのでした。続く6月4日には労働者の味方であるべき労組出身の社会党参議院議員、大倉精一が逮捕され、24日には池田正之輔自民党代議士も逮捕取り調べを受けるという与野党をも巻き込んだ事件に発展したのでした。社会党議員の容疑は、昭和42年の秋に参議院決算委員会で同僚議員が行なうこととなっていた米麦輸送に関する国会質問を200万円で取り止めさせたという斡旋収賄でした。米と麦は政府食糧であり、この輸送は戦時中から日本通運が一手に仕切っており独占状態が続いていました。しかし、政界に流れたとされた1億9000万円については47人にばらまかれましたが、事件として立証できたのは大倉と池田の計500万円の2件だけでした。

1968年8月に世界医学総会がシドニーで開かれた際に、全会一致で採択された臓器移植に関する宣言で、その内容は心臓移植手術に対する心臓提供者の死の判定は脳死によるべきである。臓器移植手術に当たっては、提供者の死の確認に、2人以上の医師の立会いが必要で、しかも脳死の決定に当たった医師は手術に関与してはならないなどです。臓器移植ばかりではなく、遺伝子組み換えや試験管ベビーなどが一般化している今日では、この生物倫理の問題はますます重大化しており、バイオテクノロジーにたずさわるものの最大の課題となっています。こうした宣言が出された背景には、1967年12月3日に南アフリカのC・バーナード博士が世界で初めて行なった心臓移植でした。残念ながら、この手術では21日に移植患者が死亡してしまい、成功という言葉はあたらないかもしれませんが、重症の心臓病患者にとっては朗報そのものでした。しかし問題は臓器提供者を確保することであり、生きた心臓を早期に取り出し移植するという早業が要求されるからです。そこで脳死という問題がクローズアップされてきたのです。シドニー宣言バイオエシックスは心臓移植に道を開くためのものでした。日本では昭和43年8月8日に札幌医科大学の和田寿郎教授によって心臓移植が行なわれましたが、手術後83日目に死亡、和田教授は不起訴処分になるものの殺人罪で告発され、また事実、和田教授の手術に際してとった行動への数々の疑問などがクローズアップされ、歴史に残る画期的な出来事であったにもかかわらず後味の悪い結末となりました。

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