食糧デモ

昭和21年5月12日、東京世田谷で、米よこせ区民大会が開かれました。この年の日本の食糧問題は空前の危機に直面しました。昭和20年の米実収高はわずか3916万石。当初の平年作予想が、各地をしきりに襲った成熟期、台風豪雨のために明治38年以来、実に42年目の大凶作に見舞われました。加えて敗戦により、満州、朝鮮、台湾からの補給が途絶え、事態はいっそう深刻となりました。そして昭和21年の食糧危機は、2月、6月から7月、9月の3つの波で押し寄せると懸念され、中流以下の人々の生活難がますます深刻化していきました。昭和21年1月、米の供出は割当量のわずか28%、4月末なお71%という不成績で、政府は供出完遂を図ろうと強制買い上げを含む食糧管理強化の手を打ちました。これが却って問題の解決をこじらせることとなり、混乱に陥り、さらに政治問題化しました。食糧の管理が問題となり、食糧の生産・供出・配給をいっさい国民の手で行なおうとする運動が起ったのです。5月に入ると全国の食糧事情は急激に悪化し、各地に遅配、欠配が続出し、北海道では2ヶ月以上も欠配が続き、大都市も1週間から10日の遅配が常態となりました。東京では世田谷の米よこせ区民大会に続き、19日には飯米獲得人民大会が皇居前広場で繰り広げられ、25万人が参加し、米よこせ、と叫びました。天皇は事態を心痛され、5月24日、祖国再建の第一歩は、国民生活とりわけ食生活の安定にある。全国民においても、乏しきをわかち苦しみを共にするの覚悟をあらたにし、同胞たがいに助け合って、この窮状をきりぬけねばならないと放送されました。政府はついに食糧非常宣言を発しました。この時期に日本にやってきたアメリカの食糧使節フーヴァ氏は、帰国後5月以降9月末までの5ヶ月間に日本に87万トンの穀物を割り当てるよう進言しました。連合軍の日本に対する食糧放出は、欠配のはなはだしい北海道地区に対し、まず4月25日に行なわれて以来、6月末までに各地に4回、3万4620トンが放出されました。そして7月2日、連合軍総司令部が日本の食糧事情は危機の状態達したと発表するやいなや、全国に大量放出を行ない、以後9月中旬までに合計61万7000トンの食糧を放出しました。しかも幸運なことに、天候に恵まれ、昭和21年秋の米の収穫は豊作が予想されました。8月21日、和田農相は議会で、収穫が予想どおりにいけば、新米穀年度からは一般消費者配給量を現在の2合1勺より引揚げ増配するように準備を進めていると明言し、国民に明るい希望をもたらし、戦争中より国民を悩まし続けた食糧問題の解決の兆しが見えたのでした。

戦後になると戦時下の抑圧された民衆のエネルギーが、占領軍の民主化政策によって急速に噴き出しました。昭和21年5月1日に11年ぶりに復活したメーデーには、全国で125万人が参加しました。皇居前広場では人民広場と呼びかえられ、50万人が参加して大会が開かれ、生活苦を訴えるプラカードが掲げられました。とりわけ食糧を求める声は切実で、5月19日には食糧メーデーが決行されました。宮城前広場で行なわれたこの食糧メーデーは、飯米獲得人民大会、と呼ばれデモは暴徒化する様相を呈していました。この会場には、国体はゴジされたぞ、朕はタラフク食ってるぞ、ナンジ人民飢えて死ね、ギョメイギョジ、と記されたプラカードが持ち込まれ、東京地検はこれを天皇への誹謗と解し、所持者の松島松太郎をすぐさま不敬罪で起訴しました。また、徳田球一を代表とするデモ隊が坂下門に迫り、天皇との会見を要求し、さらには吉田茂の組閣本部に坐り込みました。このために吉田内閣は組閣断念を決意しましたが、翌20日のマッカーサーの、暴民デモ禁止声明、でデモは屈伏させられました。なお、松島松太郎の不敬罪適用はGHQが天皇に特別な法的保護加えるのは不都合だと異議を唱え、同年11月2日に被告に下された判決は懲役8ヶ月、罪状は名誉毀損でした。

吉田茂は総理大臣になる気などまったくなかったと言われています。昭和21年5月4日に突如、鳩山一郎が追放となり、自由党の幹部が大慌てで後継者を探したときも、初めは芦田均の方が有力だったと伝えられています。しかし、芦田には自由党結成のときに同志を捨て、時の幣原内閣へ走ったという前科がありました。このため党内より強い異論が出て、その後は外交界の長老で前宮内大臣の松平恒雄や古くからの政党政治家として名高い古島一雄らにも打診が行なわれました。そして最後に吉田茂の所へとまわってきたということですが、吉田自身も内政問題には未経験だったこともあり、最初は乗り気がありませんでしたが、固辞し続けるうちにも大先輩の幣原喜重郎や幣原内閣の国務大臣を努めていた松本蒸治らの強い説得があり、しだいに受け入れざるおえない状況となってきました。そして、客観的な政治状況も保守派にとっては危機的な状況に入ってきており、吉田自身の気持ちも出馬の方向へと傾いてきました。そこで吉田は鳩山と会って、金はないし金作りもしない、閣僚の選定は自由にやらせてもらう、嫌になったらいつでも投げ出す。という3つの条件を持ち出しました。この3つの条件を受託する際に鳩山一郎は、将来私が追放解除となった暁には、総裁のポストは再び返してもらうという約束をかわしたと言われています。そして吉田茂に自由党総裁のポストが渡され、総理大臣の座につくこととなったのです。

吉田茂が真骨頂を発揮しはじめたのは昭和23年10月14日の国会で2度目の首班指名を受け、名実ともに保守本流で固めた第2次吉田内閣を発足させたときのことです。そして、翌年の昭和24年1月23日の総選挙で、吉田茂の率いる民主自由党はそれまでの152議席より一挙に264議席にまで勢力を拡大し、ここに一党による過半数議席を戦後初めて獲得した政治家として基盤は確定的なものとなりました。昭和21年5月22日、幣原内閣総辞職の後を受けて政権を担当した吉田茂は、戦後日本の官僚内閣制のきっかけを作った政治家であり、彼自身も典型的なエリート官僚の出身でした。第1次吉田内閣は昭和22年5月20日に1度総辞職し、その後片山哲の社会党内閣や芦田均の連立内閣が1年5ヶ月続きましたが、昭和23年10月15日には再び第2次吉田内閣が誕生しました。この年、吉田は政党人なんか使いものにならないと考え、各省より優秀なエリート官僚を引き抜き、自分が総裁としている民主自由党にも入党させ、翌年の昭和24年1月23日に行なわれた総選挙で大量に当選させました。大蔵次官・池田勇人、運輸次官・佐藤栄作、外務次官・岡崎勝男、労働次官・吉武恵市、戦災復興院次長・大橋武夫、などの現役官僚から政界に転進しましたが、その他にも、元農林次官・笹山茂太郎、元大蔵省主税局長・前尾繁三郎、元運輸省電気局長・西村英一、元商工省燃料局長官・小金義照、元農林省畜産局長・遠藤三郎、元農林省総務局長・周東英雄、元高知県知事・西村直己などの官僚OB組も大勢おり、全部で38人もの官僚が一挙に政治家となりました。アメリカの占領軍と日本の支配階級は官僚を利用して戦後日本の経営を行なうという点でみごとに利害が一致したのでした。そして吉田は5次にわたり内閣を組織しました。

第2次世界大戦後のアジア地域で、最初に独立を達成したのがフィリピンでした。1942年3月11日の夜、当時アメリカの支配下にあったフィリピンの司令官ダグラス・マッカーサーは、猛攻を加えてくる日本軍の勢いに抗しきれず、ついにコレヒドールの要塞から抜け出し、有名な、アイシャルリターン(必ず戻ってくる)というセリフを残してフィリピンを後にしました。そして、1945年2月に約束どおり凱旋将軍として再びフィリピンに戻ってきましたが、すでにフィリピンは昔とは全く様相を変えており、民族指導者マヌエル・ケソンの予言のとおり、独立の意気に燃えていました。アメリカ人による天国のような統治よりも、フィリピン人自らの手による地獄の統治のほうがましだと考えるフィリピン人も多く、1936年にアメリカが与えた、10年後に独立させるという約束の履行を強くせまりました。そして1946年7月4日、くしくもアメリカの独立記念日と同じ日に、ついにフィリピンは独立を達成しました。

昭和22年4月10日に公布された独占禁止法と、同年7月1日にその番人として創設された公正取引委員会は、マッカーサー司令部の不退転の決意を象徴するものでした。しかし、国体護持から民主化への微妙な過渡期にいちはやく行政機構の中枢部に返り咲いた官僚達は、必ずしもアメリカの進駐軍と同じようには考えませんでした。朕はタラフク喰ってるぞ、ナンジ人民飢えて死ね、というような過激なプラカードをかかげて大道を練り歩く、米よこせデモを目のあたりして、日本の官僚達の危機感は絶頂に達していました。このままでは革命が起る、民主化も大切だが、それよりも経済を復興し、衣食住を確保することだと経済官僚達は考えました。そして、その戦略拠点となったのが、昭和21年8月12日に発足した経済安定本部と、昭和24年5月25日に旧商工省を発展的に改組した通商産業省でした。特に、第1次吉田内閣の後を受けて成立した片山哲内閣のもとで、経済安定本部の体制は目を見張るほど強化されました。長官の座には、戦前戦中の企画院官僚として鳴らした和田博雄が座り、2つの副長官の椅子に、都留重人と永野重雄がつきました。もちろん商工省からも、平井富三郎をはじめ、新進気鋭のエリート官僚達が大勢参加しました。集められる限りの資料や統計を基礎として、わが国経済の現状を国民につたえ、国民と一緒に問題を考えて行きたいと思う。という大方針を掲げた経済安定本部は、その後、第2次吉田内閣が発足してからも、強力な経済行政を敢行し、傾斜生産方式を生み出しました。

財界の総本山、経団連を設立する上で大きな原動力となったのは植村甲午郎です。もともと植村甲午郎は商工省の役人でした。しかし、昭和15年、企画院の次長を最後に役人生活を辞め、その後は企画院総裁の星野直樹の頼みもあり、1年あまりドイツ視察などに行っていたが、昭和16年8月30日に重要産業団体令が公布され、いよいよ日本経済も統制時代に入りました。そして10月28日、鉄鋼、石炭などの12の基幹産業に重要産業の指定があり、それぞれの統制会が設立されました。植村も石炭統制会の理事長に就任することになりましたが、これが財界入りのきっかけとなりました。そして終戦。石炭統制会は石炭鉱業会に組織替えされましたが、植村は松木健次郎会長の下で副会長に就任しました。しかし、昭和20年11月、松木会長が枢密顧問官になった井坂孝の後を受けて、戦前から財界奥の院として重きをなしてきた名門経済団体である日本経済連名会の会長のポストに就いたので、植村も、石炭鉱業副会長在職のまま、連盟会の常務理事兼事務局監督を務めることとなりました。結局この日本経済連盟会を基盤とし、経済連合委員会が作られ、やがて昭和21年8月16日に経済団体連合会である現在の経団連が発足しました。このような経緯があったために植村甲午郎も常務理事として事実上事務局を掌握する形となりました。しかし、昭和22年1月4日に公職追放令が拡大され、占領軍の指導による追放の嵐が民間全般に及ぶこととなったため、植村は事務局の運営を、諸井貫一、水野重雄、桜田武、小笠原光雄の4人に託して、常務理事在任わずか4ヶ月で経団連を離れました。そしてその後を継いだのが宮嶋グループと呼ばれる戦後最大の政治的、経済的経済的人脈です。

戦前の日本経済の主導権は、何といっても三井、三菱、住友といった巨大財閥を頂点とする財閥達の手に握られていました。このために宮嶋清次郎の日清紡績などの後発の企業はいつも口惜しい思いをさせられてばかりいました。しかし、番町会という私的グループに立て籠り、財界アウトサイダーと陰口を叩かれながら苦労したために、戦後の追放に引っ掛かることなく大きな勢力を温存することができました。しかも旧宮嶋グループは、昭和21年5月22日に発足した吉田内閣に早くからてこ入れしたために、すべて旧権威が否定された戦後直後の日本において、急速に経済界の主導権を握ることとなりました。後に財界四天王と呼ばれるようになる小林中、水野成夫、桜田武、永野重雄の4人も宮嶋清次郎グループの出身です。しかし彼らは、日本製鐵の営業部長のポストにあった水野重雄を除いては大企業をバックとしていないため、日本経済連盟、経済連合委員会、経済団体連合会、という流れを形成してきた財界正統派の集まりである経団連の中ではとても力をのばしきれない状況にありました。そのために旧宮嶋グループは新たに日経連という組織を作り、主にその中にたてこもり、吉田茂から池田勇人につながる保守政権の面倒を見つつ、勢力を着々と拡大していきました。したがって、三井系の大企業東芝をバックとした石坂泰三が経団連の会長ポストに握り、財界の政治離れを加速していく姿には我慢できず、もはや戦後ではないといわれ始めた昭和30年代に入ると、日本社会情勢も落ち着きを取り戻し、再び旧財閥を背景とした大企業グループが経済界の主導権を徐々に奪還する姿勢を見せ始めたため、小林や桜田達は一刻も早く経団連の主導権を政治派の手中に収めなければならないと、誓いあうようになりました。結局、彼らの思い通りになったのが昭和43年5月24日、自分達を経団連事務局に招き入れてくれた植村甲午郎が第3代会長の座に収まった時でした。

戦後日本の指導者達は、日本を復興させるうえでの最大の壁は石炭と鉄が無い事だと考えていました。日本中の炭鉱は資材不足と戦時中の濫掘のためにすっかり荒廃しきっていました。そして労働者の離山で、労働力に大きな穴があき、戦後の石炭生産は戦時最高の4割にまで落ち込んでいました。量的な問題のみならず、質の低下も著しい状況でした。石炭がなければ鉄も作れず、鉄鋼業の炉の火も次々と消え、昭和21年9月頃になると最盛期には37基も動いていた高炉のうち、わずか八幡製鉄所の3基だけが細々と燃えているような状態となってしまいました。このために21年の鉄鋼の配当可能量は、全盛期の5分の1にしか過ぎず、鋼材不足が石炭の増産をさまたげるという悪循環に陥っていました。そこへ飛び出したのが、有沢広己教授の傾斜生産という方式でした。傾斜生産方式は限りある人や金を、鉄と石炭に集中的につぎこむという、一種の保護政策でした。つまり、まず占領軍に要請して重油を特別輸入してもらい、それを集中的に鉄鋼業に割り当てて鉄鋼を増産する。次に鉄鋼を集中的に炭鉱へまわして石炭を増産し、石炭をさらに鉄鋼にまわして鉄を増産するというプロセスを繰り返し、しっかりと基礎体力ができたところで、工業生産全体のレベルアップを図るというものです。この傾斜生産方式は、昭和21年12月27に始まり、第一次吉田内閣からさらに次ぎの片山内閣へ受け継がれました。この間、石炭と鉄鋼業には鉄と石炭のほか電力、セメントなどの基礎資材が優先的に与えられ、他の産業が最低必要量の3割程度しかもらえないときに、石炭産業は必要量の8、9割を確保していました。それだけでなく、労働力を確保するために、炭鉱労務者にも食料や衣料などが特別に配給され、炭鉱住宅の建設も優先的に行なわれました。

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