KGBの誕生
1946年、第二次世界大戦が終息して間もない頃、スターリンは腹心中の腹心であるラフレンチ・パブロビッチをソ連における最高幹部の証しである共産党中央委員会の政治局員に昇進させました。そして、ベリヤは1953年3月にスターリンが死ぬや、死力を尽くして権力の奪取にとりかかり、NKGBの後身であるMGBや、NKVDの後身であるMVDなどのソ連の全情報機関の支配権を一手に握り、他の政治局員達を粛清してしまおうとしました。驚いたのはフルシチョフやマレンコフ、モロトフらの他の政治局員達だす。危機感を感じた彼らは、ひそかに協力しベリヤ打倒を決起し、その年の6月26日、ついに宿敵を逮捕することに成功しました。そしてベリヤは、1953年の12月に銃殺刑に処され、マレンコフらによる集団指導が始まりました。情報機関の恐ろしさを身にしみて感じていたマレンコフらは、ベリヤが実行しようとしていたMGBやMVDの改組を今度は自分達の為に積極的に推し進め、1954年3月13日、KGBという新組織を発足させました。KGBと並ぶソ連の情報機関として名高いのはGRUです。これは軍部に基礎を置いたもので、1920年の春に創設されました。第二次世界大戦の最中に大活躍したリヒァルト・ゾルゲもGRUのメンバーでしたが、戦後KGBとの間で繰り広げられた熾烈な主導権争いの過程でしだいに勢いを失い、KGBの指揮下に入ってしまったと言われています。GRUが決定的な打撃を受けたのは、1958年のことです。かねてからGRUの権力を奪取しようと狙っていたKGBは、GRUのユーリ・ポポフ大佐は、アメリカCIAのスパイであるという衝撃的な告発を行ない、3月に政権を奪取したばかりのフルシチョフにGRUの徹底的手入れを決定させました。
GRUはソ連の政治局を激怒させてしまい、今日のソビエト軍情報部の指導力は、軍事よりもKGBのプロの幹部部員達から成り立っています。GRUはKGBから事前に了解を持たなければ将校もスパイ要員も、誰一人として採用することはできません。その上KGBはソビエト社会の他のあらゆる構成要素の中でやっているのと同じように、強制や買収という手段まで用いて、GRUの将校の中から密告者を徴募しています。さらにKGBはGRUから海外派遣人員に関して提案があっても、これを拒否することができるのです。両者の方針が一致しない場合は常にKGBの主張が通ります。モスクワのKGBはGRUのあらゆる活動を監視していて、成果が上がると、それを自分の手柄にしてしまいます。またGRUの指導部にかけあって、KGBの都合のよいようにGRUの活動を変更させたり、最指令を出させたりすることもできるのです。つまり1958年の3月にニキタ・フルシチョフがそれまでの集団指導体制を解いて以来、KGBは名実ともにソ連の情報機関の地位についたのです。しかもKGBにさらに大きな力を与えたのは、海外活動に関する全権が認められたためです。つまり、1954年3月の組織改革によってKGBはそれまでの伝統的な政治警察機能に加えて、海外における秘密工作活動全体に関する責務が付与されたのです。正規の情報職員だけでも総勢11万人、国境警備隊や行政管理職員まで入れると60万人をはるかに越えると言われるKGB組織は1972年に、モスクワ郊外の環状道路に面した独立した巨大な建物に移り、GINUの名のもとに、非合法活動を行なうS局、ゲリラ戦やサボタージュの煽動や指導に当たるU局、偽情報を流して混乱するためのA局、コンピューター関係の情報収集に当たるE局、ハイテク科学技術関係の情報を集めるT局のほか、ラテンアメリカ担当の第1局、アジア担当の第7局などの地域別工作を行なうナンバー入りの局も含めて、総計24局をその傘下に抱えて活発な活動を展開しています。
1954年4月26日、スイスのジュネーブにイギリスのイーデン、フランスのマンデス、アメリカのダレス、ソ連のグロムイコ、中国の周恩来、そしてベトナム、ラオス、カンボジア、南北朝鮮の各代表が集まり、8年にわたるインドシナ戦争の休戦並びに朝鮮戦争休戦後の南北統一問題について語り合う会議を開始しました。これがジュネーブ会議ですが、結局、7月21日までの3ヶ月にわたって続けられ、朝鮮問題については失敗に終わりましたが、インドシナ休戦協定についてはついに成功しました。そして、この協定に基づいて、フランスのインドシナ撤退が本決まりとなりました。しかしその後、1960年代に入ってから、アメリカがベトナム戦争の泥沼に引きづり込まれていったため、ジュネーブ会議の精神はたびたび踏み滲まれることとなりました。
工員なんか牛か豚くらいにしか考えなければ金儲けはできん、と、当時の近江絹糸社長は雑誌で述べています。合計3次にわたる中労委のあっせん、四百数十名の負傷者、自殺者、8名の発狂者まで出した近江絹糸争議は、人権ストとも呼ばれています。近江絹糸の労働条件はフクロー労働といわれた18歳以上の男子の深夜専門の就業制度や、同業他社と比較して極端に低い昇給率、そして他社の倍以上に達する年間推定異動率、他社より10歳若い平均年齢、ほぼ半分の1人あたり平均賃金などに象徴的に示されています。争議前の昭和29年5月までの6年間に、労働基準法が147件あり、不当労働行為についても、すでに昭和22年に地労戒告を受けていました。そしてこの戒告を機に外部から近江絹糸民主化闘争が組織されました。一度は、会社側の切り崩しに会いながらも、全織同盟を中心に隠密裡にオルグ活動が進められていきました。そして、昭和29年5月25日、本社に全織加盟の労働組合が結成されました。6月2日、本社従業員は、定時終業を敢行、近江絹糸紡績労働組合決起大会が開催され、22項目にわたる人権要求書を可決しました。
近江絹糸紡績労働組合の主な内容は、人権を蹂躙した信書の開封、私物検査の即時停止、結婚の自由を認めよ、仏教の強制絶対反対、密告者報償制度、尾行等の一切のスパイ活動強要を止めよ、月例首きり反対、残業手当ての支給などでした。このように人権要求の多くは寄宿舎制度に関するものでした。組合は、6月3日に要求書を提出し即時団結を申し入れました。しかし、会社が回答を拒否したため、4日スト決議が許可されました。続いて1週間のうちに大垣、彦根、津などの各工場で新組合の支部が結成されました。結成大会では津工場のように会社側の妨害と外部の応援隊乱闘が生じました。同時に、会社側は新しくできた第2組合にロックアウトして通告していきました。これに対し、全織同盟は16日に運命をかけて闘うことを再確認し、闘争経費を無制限に注ぎ込むことを決定しました。第一次斡旋は6月25日、小坂労相が千金良三菱銀行頭取、堀勧銀頭取、岸同和鉱業副社長に争議の斡旋を依頼したことに始まりました。この時、会社側は全織同盟の代表を団交に参加させないことと、ピケ解除を条件にして譲らずに、7月13日打切りとなりました。小坂労相は、16日の閣議で、わが国経済界全般について国際的誤解を招き好ましくないとの立場から、近江絹糸に対して職安法に基づく労働者募集を停止、労基法違反容疑で調査を進めることを明らかにしました。そして、7月16日の中労委の臨時総会で職権斡旋を行なうことを決定しました。
中労委の斡旋は、昭和29年7月26日に5日間の争議休戦協定を提示し、労使の受諾を得て29日から団交の予備会談が始まりました。休戦期間を2日延長したものの、8月3日第一次斡旋案が中労委中山伊知郎会長から提示されました。この第一次斡旋案について翌4日労使双方が受諾を決定、協定書の調印が行なわれました。ところが、組合側に比べて進んで斡旋案を受諾した社長以下会社側は、全織同盟をその後の団交より締め出し、組合員の解雇予告を行ない始めました。しかも第二組合員の就労に関して労使の対立が表面化し、全織と第二組合は8月10日就労日を明示しない以上、出荷を阻止するという就労闘争を指令しました。中労委は11日に就労開始日を14日とするように示した第二次斡旋案を提示しました。しかし、会社側は建造物不法侵入を理由に新組合幹部9名の解雇を通知しました。これに対して組合は、折しも開催されていた全織同盟第9回大会で、この第二斡旋案を拒否しました。そして、8月13日再びストに突入しました。全織同盟は対策本部を設け長期戦を前提とし、闘争目前に社長一族の退陣を掲げました。一方の会社側は就労闘争の責任者として73名の解雇通知を示しました。同時に各工場では出荷を強行しようとする労務者と組合員、警戒中の警官との間で乱闘が続きました。争議解決の糸口は株主代表である堀田住友銀行頭取と滝田全織会長の8月23日の会見から始まりました。堀口氏は9月3日に第一次斡旋時の財界3氏及び小坂労相とともに、再び中労委に斡旋を要請しました。中労委の斡旋は9月8日から始まり、特にユニオンショップを認めた労働協約の締結が論議されました。そして、9月12日に中労委の中山会長は第三次斡旋案を提示しました。その主な内容は、全織加盟の組合を認めること、10大紡なみの労働協約を締結すること、組合の22項目の要求中人権に関するものは、法務省、労働省が人権侵犯と労働基準法違反の事実を確認したことで各機関の指示に従うこと、ユニオンショップの協定を結ぶこと、ロックアウトを撤回することなどでした。第三次斡旋案は、全織同盟、近江絹糸労組とともに受諾しました。調印は9月16日、中労委にて行なわれました。ここに、6月3日以来106日間にわたる近江絹糸争議は終結しました。全織同盟が注ぎ込んだ闘争資金は1億5000万円を越えました。争議中の訴訟事件は、刑事、労働基準法違反を別にしても54件にも登りました。その後、近江絹糸はどこにでもあるという標語が労働運動の戦術的表現にまでなりました。
マッカーサーより吉田茂首相あてに警察予備隊設置の指令がきたのが昭和25年7月8日のことでした。5月30日には皇居前広場において人民決起大会と称する集会において、占領軍将兵が暴行を加えられる事件が起き、6月25日には朝鮮戦争が勃発し、これを共産党一部分子による破壊活動が加わるなど、国内は騒然とした雰囲気に包まれていました。いかに立派な憲法を持とうと、その遂行を保障する公権力不能の状態では、基本的な人権の保障などはおぼつかない。占領軍8万人が朝鮮戦争へ出動したために、手薄となった日本国内の治安に不安をいだくのは責任ある地位にある吉田にとって当然のことでした。こうして、8月10日には警察予備隊令が公布施行されて、7万5000人の警察予備隊が発足することとなりました。同時に海上保安庁の定員8000人の増員も行なわれました。昭和27年4月26日には海上保安庁法の一部改正法律が成立し、海上警備隊が創設されました。4月28日には対日平和条約の発効に伴って保安庁法が国会に提出され、7月31日に可決成立、8月1日には保安庁が発足し、この下に保安隊と警備隊が置かれたのです。再軍備か戦力なき軍隊かをめぐってやりあった会談が、昭和28年10月1日にワシントンで行なわれた池田・ロバートソン会談でした。当時自民党の政調会長だった池田は吉田の特使として、ワシントンに乗り込みました。そして当時東アジア・大平洋担当の国務次官補であったウォルター・ロバートソンとの間で経済か防衛かで沸騰した議論を重ねました。アメリカにとっては朝鮮戦争で緊張が頂点に達した極東の戦略を構築するためには、共産主義の防波堤としての日本の再軍備は不可欠でした。ソ連は空挺部隊と水陸両用部隊で北海道と北日本を攻撃、中共軍も九州に侵攻する可能性を主張し、32万5000人の部隊設置を要求しました。しかし、日本側にとってはまずは経済復興でした。朝鮮戦争でせっかく軌道に乗った復興を非生産的な軍備で潰すわけにはいきませんでした。池田は憲法上の制約や経済上の制約を示して再軍備の不可能なことを主張しました。当時の吉田の主張は、日本の経済力では本格的な軍事力を構える事など不可能であること。2番目は国民思想の実情からして、再軍備の背景たるべき心理基盤が全く失われていること。3番目は理由なき戦争に駆り立てられた国民にとって、敗戦の傷跡が幾つも残っており、その処理が未だに終わっていないことの3点でした。
アメリカの主張はそれなりに利にかなったものでした。講話条約が締結されれば、国際政治の常識として占領軍が撤退する。そうなると、日本の再軍備が行なわれないと、ここに力の真空状態が生じる。真空が生じれば、その真空を埋める力が動く、つまり他国による侵略になります。吉田もこのことは承知していました。そこで共同防衛の必要性を全面に打ち出したのです。吉田の意を受けた池田は可能な最大限の私案を示しました。陸上部隊一個師団の組織人員の日米比較論を展開して、戦闘部隊以外の維持、修理分野は民間でもできるなどとして、海外に展開するための膨大な後方部隊を抱えなければならないアメリカ軍との違いを主張し、3年間で18万人10個師団とする増強案示しました。この私案は保安庁案よりも下回るものでアメリカは非常に失望したようです。結局日本側がアメリカの要求を押し戻したのです。吉田の頑固さはここでも生かされました。こうして自衛隊発足の素地ができました。昭和29年3月8日に調印された日米相互防衛援助協定の第8条によって、防衛能力の増強を義務づけられた日本政府は、防衛庁設置法と自衛隊法を国会へ提出しました。審議は難航し、野党の社会党が非武装中立を党是としている以上、両党の思惑が一致することはありませんでした。吉田は社会党を無視し、在野の保守政党である改進党と日本自由党に協力を求めました。保守三党の合意もスムーズに行きませんでした。右からは出来損ないの軍隊といわれ、左からは憲法違反と言われる中で自衛隊はスタートを切ることになりました。吉田は自衛隊が国民から遊離することをもっとも恐れていたようです。国民が自衛隊を心から支持し、これに信頼するように仕向けるにはどうしたらよいかと考え、まず地方民の利益に沿うようにすることが肝要だと考えました。彼はこう語っています。
国際関係その他世の中の変化に、常に接触を保たしめ豊かな政治的常識を養わしめるために東京付近にその施設をつくる事を決めた。
広い視野と豊かな常識が不可欠と考えた吉田の思想は、現在見事に結実したといえます。
函館湾を吹き荒れた台風15号が1430人の人命を奪いました。昭和29年9月26日、青函連絡船洞爺丸は乗員乗客1314名を乗せて午後6時39分、函館を出港しました。しかし実際には午後2時40分の出発でした。出港予定時刻に陸上電源が停電しました。この停電がなければと思うのが当然で、このとき20名の乗客が青森行きをあきらめています。台風は予想では26日の午後青森西方に達し夕方には三陸または北海道を通り大平洋に抜けるとされていました。午後5時、風がゆるくなり青空も見えてきて、大丈夫と判断した午後6時39分出港しました。出港後20分、船首方向から45mの強風を受けた同爺丸は港外に投錨しましたが、荒れ狂う波にほんろうされ車両甲板に浸水して運転不能となり七重浜海岸に向かって流れ出し、ついに午後10時20分頃横転転覆しました。海に投げ出された人々はほとんどが波にのまれて絶命しました。まきこまれたのはこの船だけではなく、貨物連絡船第十一青函丸は船体が折れて沈没。十勝丸、北見丸、日高丸と相次いで海にのまれました。洞爺丸の犠牲者1155名、その他4隻の犠牲者275名、総計1430名。このうちで遺体が発見されなかったのは112名、引き取り手のない遺骨が23体ありました。
鳩山は大正4年に東京市会議員から衆議院議員に転じました。政友会幹事長、田中内閣では内閣書記官長、犬養・斉藤内閣では文部大臣を務めました。戦後は自由党の総裁として活躍するはずでしたが、昭和21年5月3日、組閣寸前に公職追放の憂き目にあいました。しかしこの追放は意外で、彼は戦時中は翼賛体制に批判的で、軽井沢に引きこもって体制への協力を拒否し続けていたので、何が公職選挙法処分の対象となったのかは、はっきりしないものでした。GHQ内の彼の評価が分かれたものと思われています。昭和29年11月24日、日本民主党を結成、その総裁におさまることとなります。これがきっかけとなり、吉田から鳩山へなだれ現象を起こし、吉田は退陣を決意することとなります。11月30日、吉田内閣は総辞職。そして12月10日の衆議院では左右の社会党が鳩山を支持することとなり、ついに頂点に立つこととなります。鳩山内閣の政策の大きな柱は憲法改正と自主外交の推進でした。自主外交の柱はソ連との国交回復でした。この頃のソ連はスターリンが死去し、その実権はフルシチョフに移っていた時期でした。吉田内閣に左翼からの向米一辺倒という批判をかわす目的があったことも間違いないことでしたが、戦後十余年、閉ざされていた日本の国際外交の扉を開きたいという内部の気運があったことも事実です。南千島の問題は依然として残っていましたが、昭和31年10月19日、戦争状態終結と国交回復の日ソ共同宣言と通商航海議定書に調印しました。
昭和30年1月24日に解散、日本民主党は第一党になりますが、11月15日には自由党との保守合同で自由民主党を結成。絶対多数を背景に憲法改正を筆頭に大胆な改革を進めようとしました。しかし、教育委員会法は成立したものの小選挙区制、教科書法案は廃案。憲法改正も挫折しました。昭和31年12月19日、念願の国際連合の加盟が認められ、これを花道に引退しました。
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